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どれをとっても、ウソ、ウソ、ウソ。
ちょっぴりの「事実」に主張をたっぷりおりまぜて、
わざとらしい義憤、うすっぺらな偽悪、決してゆずれぬ自己美化。
二言目には自画自賛。
口先ではどれだけ卑下してみせても、書き手の頭の中をのぞけば、肥大した自意識しか見あたらない。
読んでいて、よくこんなものが書けるなと思うけれど。
冷静になってみれば分かる。
彼らは文字で演技しているんだ。
三文芝居の役者なんだ。
役者は、自分に振られた配役を半ば信じこむ。
それになりきる。どんなにいびつで、ご都合主義で、手前勝手な役割でも。
それが、観客を魅せる秘訣だ。
観客だって、三文芝居に魂を貫くような真実は求めない。
「お約束」の悲劇と喜劇、わかりきったキャッチフレーズだけあればいい。
お互い承知のうえのウソなのだ。
だからこそ、ガス抜きになるし、ほどほどに「なにかをした」という気分になるし、
誰かが誰かを告発しているのを読めば、うなずくだけで義務を果たしたつもりになれる。
うわべだけの「行動せよという叫び」を読むことが、「行動しないいいわけ」になってくれる。なんてありがたい、できあいの「不都合な真実」。書き手だって、売れさえすれば、自分のの醜さには気づかないふりができる。
道を説きながら、偽善で社会に害悪をまきちらすなんて、精神にそれほど負担がかかる行為じゃない。そんな矛盾を乗り越えられなければ、とっくに聖職者なんて地球上から消滅してる。
そうだ。ジャーナリストや言論人てのは役者と言うより、現代の僧侶、ご立派なお坊さんがただ。
さぁ。あなたもこの新書サイズの贖宥状をお求めになりませんか。読むだけであなたの罪が…なくなったように思えます。いえいえ、堕落したほかの修道会の書物とは違います。私はまことの清廉を身につけ、地の塩の側にあり、不正への怒りに充ち満ちて…。
教会を批判しながら、司教、いやせめて司祭の座でも手に入れられないかと願うようなやつに、金を出してやるのは安全だ。
ああ、でも教会を打ち壊そうとした男は刑に処されてしまった。
新しい教会を作ろうとした試みも。
人が信仰の対象を求めざるを得ないなら。
せめて、ときには、あさましい聖職者ではなく、
真実の改革者を、世に遣わしめたまえ。いまひとたび。
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