東方不敗の幻想
インターネットのジャーナリズムについての覚書

touhou_huhai@gemini.livedoor.com
 



私の希望は破れた。悔しい。
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2007/01/30/14630.html
http://antenna.livedoor.jp/
http://news.livedoor.com/article/detail/3004965/


ライブドアの社内記者は、私の希望だった。
ネットの中で、新しい、良質のメディアが成長していくという夢想の具現だった。

幾度か、前途有望なライターに、ニュースセンターへの就職を勧めようと思った。
堀江が社長を追われるまでは、そのことについて考えあぐね、私ひとり悩んでどうなるものでもないと、ひとり照れ笑いをした。たわけた、しかし幸福な未来図を描いていた。

おお朝日よ、読売よ、毎日よ、日経よ、産経よ、共同通信よ、時事通信よ。文春よ!新潮よ!現代よ!ジャーナリストたちよ!嬉しいだろう!さぁ喜べ喜べ!喜べ!
お前たちの生活はまだ保証されている。そして、お前たちのおくびょうな独善を、とめどない堕落をそしるものはない。

お前たちの勝ちだ。言葉でライブドアを打ち負かせなかった非力なお前たちに代わって、検察が仕事をしてくれた。

日本の生温さに飽き足らない諸君!感動するがいい!
この国もよそと変わらないぞ!

もう希望なんてない。最後の一切れを食べきってしまった。

「ようやく普通の国になった」


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かつて(存在しないかもしれないかつて)

ジャーナリストは事実をもとに、言葉を作った。
いま、ジャーナリストは言葉をもとに、言葉を再生産する。
情けないことに、テレビも、言葉をもとに映像を作る。

多くのブロガーたちは、言葉と事実の区別がつかない。彼らはただ鈍感で、鈍感で、鈍感で、鈍感だ。

事実とは体験であり、事実をもとに言葉を作るのは、体験を洞察することだ。

それは、ジャーナリストの基本であり、現実の問題を変える役に立つかどうかはともかく、最高の技芸だった。

言葉をもとに言葉を再生産するものたちを騙すのはたやすい。

最近私は、冷静さを保てないほど息苦しい。

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甘く見ている。
ネットウヨクの正体をよく分っていると言いたがる者ほど、
ネットウヨクを甘く見ている。

人間の残忍さを、凶暴さを、邪悪さを甘く見ている。
かれらが喚くだけで何もできないと思っている。

いや、本当はネットウヨクを恐れているから、
たいしたことがないというフリをしているのだ。
あえて笑いものにしたり、さげすんだようなポーズをとる。
他人と、そして自分に対して不安をごまかすためにだ。

「ネットウヨク」という言葉そのものが、
「いじめ」という言葉と同じように、もっと恐ろしい本質を隠し、
卑小で弱いものに見せかけるための欺瞞なのだ。

その恐れ、暴力を振るう感触、パワーの実感を、ネットウヨクは確かに感じている。
かれらの絶えざる飢えを満たす、わずかな歓喜の蜜として味わっている。
それを、もっと、もっとと、絞り取ろうとし、杭につながれた獣が、鎖の長さがどれだけか測るように、動き回っている。

かれらの本質が卑小であっても、群れ集まり、声を合わせるにつれ、振るう力は際限もなく強大になる。

確かにいまは、パソコンの前で、言葉を垂れ流しつづけるのが精々だ。
だが、抑え手のないままに過激さを増し、やがては鎖をひきちぎり、誰にも避けようもないほど膨れあがって、日本に住むすべての人を支配し、統制し、監視し、逆らう輩を押し潰していくだろう。

わたしは、すでにそれが外国にあることを知っている。過去にあることを知っている。

そういう、むきだしの悪こそが、人間の本質の一つであって、
我々の生きる日本は、ほんのたまたま、たった六十年ぽっちのあいだ、
辛うじてそれらを鎖につないでいたに過ぎない。

今は、表と裏が入れ替わる瞬間なのだ。
ちょうど蝶番を中心に盆がひっくり返るように、すべてが変わってしまったら、
誰ももう、それが不自然で異常なことだとは思わなくなる。

善が悪に、悪が善に、評価が入れ替わる。
私がいま、悪だと断じていることが、
ひとしなみに善だといわれ、
これまで善だともてはやされてきたものは、すべて悪とされる。

私は、蝶番の回りゆく音を、ただ震えながら聞いている。
毎日、毎日、毎日。

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右を向いても、左を向いてもテレビの話しかない。

私が学生だったころ、周りにはテレビ以外の話をする人間がいた。
ところが今では、日常の会話といえばテレビしか存在しない。

そして私はテレビを観ないから、話についていけない。

日本人のほとんどがそうなのか?私の周りが特殊なのか?
げっぷの出るようなテレビばなしにイライラする。

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昨夜、SNS、公開設定の重要性という日記を書いたあと、今日はJ-CASTニュースがミクシィ日記 「スズメ虐待」で炎上と報じている。J-CASTニュースは、ぎこちない週刊誌きどりが鼻持ちにならず、私が大嫌いなネットメディアの1つだが、情報としての価値は認めざるを得ない。

私が昨夜書いた日記はもう皮肉にしかならない。
「身内だけが見れるようにしておけばよかったのに」
なんて書けば、J-CASTニュース以下の最低の言葉になる。

この虐待の日記が、mixiの閉鎖性が書かせたものなのか、どうなのかは分らない。
しかし、私がSNSの公開設定がどうたら言い出すより、はるか前の2005年6月には、この日記はアップロードされ、複数の人の目に触れるところとなっていた訳だ。

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前置き

これは、ちょっと更新を中断しているあいだに書いた日記である。3カ月のあいだに大きく変わったのは、政治だけでなく、私が生きる情報産業(いいたければ虚業)の世界もだ。
mixiへの批判が集まるなかで、いわば弁護としてまとめたのだが、熱しやすく冷めやすい「ブロゴスフィア」(…)ではもうSNSの個人情報うんぬんの話は言われなくなった。世のIT知識人をもって自認するような人の多くが、いかに流行にあわせてその場その場にものを書いているのかよく分る。



私はSNSの内輪めいた雰囲気を肯定しており、日記の公開設定などはかなり重要な機能だと思っている。特にライターにとってはだ。

今日のブログは、内容が私的なものであれ公的なものであれ、ひろくインターネットにアクセスするユーザーの目に触れる。ゆえに社会身分のある人がうっかりブログで筆を滑らせ、悪意ある野次馬に非難の好餌を与える例は少なくない。

人は誰しも、理屈にあわないとは分っていながら、愚痴や悪口を言いたくなることはある。ブログではときに、飲み屋で友だち相手にこぼすのと同じ勢いで、根拠もなく政治や社会について論じてしまう。

しかし、言論によって生計を立てる者は、こういうウカツなまねをすべきではない。本人にそのつもりがなくとも、ブログの記事は、出版物の記事と同様、一つの作品、主張として扱われる。十分な考慮も推敲もなく書き流した言葉で、自らをおとしめる結果になるのだ。

これは、ひいては、ブロゴスフィア(いやったらしい言葉だ)でたたかわされる言論全体の品質をも、雑誌や新聞に比べ低い水準にとどまらせる。

ブログでは常に、自分のしているのが「雑談」ではなく「著述」であると認識せねばならない。だからこそ愚痴の類はSNSの公開設定の内側にとどめておくべきだろう。飲み屋で話すような与太は、飲み友だちだけが見る日記の中でやればよい。

SNSなら、誰が読むのかを比較的簡単に管理できるのだし、仲間同士の議論もしやすい。「インターネットの情報は万人の目に触れるもの」という理屈で見も知らぬ他人から突き上げを食らわずに済むし、よしんば勝手に転載されたとしてもプライバシーを盾にできる。
そのためにはSNSが私的なものという社会通念が普及し、法のうえでも守られねばならないが。

雑談と著述の住み分けがしっかりすれば、万人の目に触れるブログにも、雑誌や新聞と同程度の品質が期待できるようになるのではないか。



ところで、こういう考えが万が一にも社会の同意を得て広がったとすると、ブロゴスフィアの言論はおそろしく退屈きわまりないものになり、活きのよさをすっかり失ってしまうだろう。


後付け

ITmediaに「シックス・アパート「Vox」にグループ機能という記事が出ていた。
ブログとSNSの合いの子といったところだ。
SNSには、外部公開可能なブログ機能を備えるものすでにあるが、ブログサービス大手のシックス・アパートが歩み寄ってきた例としては注目に値する。

まぁさまつな話ではあるが。


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12年前の1月17日は、阪神淡路地震があった。
長く災害問題を手がけてきた、浅井久仁臣さんが書いている

正直いって、私には、親戚にかかわりのある3年前の中越地震ほど、近しいものではない。2003年のイラン南東部の震災や、2004年のスマトラ沖地震、2005年のパキスタンの震災と同じくらい遠いといっていい。

なぜか。
私は、うまく過去にあった震災の恐ろしさを想像できないからだ。というより事実を知ることで、そうした状況に我が身があったらと想像することを避けてきたのだと思う。

人はだれしも、他人の悲惨な体験に感情移入したいとは思わない。それを分かち合わされることは、重荷だ。

震災をその目にし、あるいはその身に受けた人が語る淡々とした言葉を聞くと、普段は慎重に避けている、痛みにぶつかる。心を引き裂かれるような痛みに。

だからテレビや新聞も、視聴者に顔を背けられないため、悲惨な事実を伝えるとき、物語に変えてしまう。痛みを抜き取り、飼いならそうとする。
戦争を叙事詩に変えてしまうのと同じ、自然な働きだ。

しかしその結果、我々は、悲惨な出来事を想像することをやめる。想像力とは、我々にとって最も重要な、危機回避能力であるにも関わらずだ。
人は、事実をもとに想像すればこそ、いつか災害が我が身に襲いかかるのをおそれ、備えようとする。想像を喚起するような事実を遮断してしまえば、他人の不幸は、ちょっとした楽しい刺激で終わる。

ところでインターネットがある現在は、テレビや新聞、雑誌でさえずる職業詩人たちの口を借りずとも、生き証人である語り部の言葉をたやすく聞ける。
語り部自身も時が経つと、少しづつ、痛みや悲しみを飼いならそうとして、事実を物語に変えてしまうが、それでも心に深く焼きついた事実の大半は決して薄れずに残る。おそらく死ぬまで。
聞き手にその気があれば、それはいつでも感情移入できる過去だ。

教育や学習とはつまり、そういうことでもある。


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これらのサイトは愛読している、というとちょっと誇張になるが、
よく勉強の参考にさせてもらっている。

Barbaroi!
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/
ギリシア語文献を中心とした、古代の文学、思想に関するサイト。
フェミニズムの視点が感じられる。

ラテンアメリカの革命運動史
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/
コントラゲート事件について、よく分らず検索していたときに見つけた。
左派の立場から、中南米の近代史について、冷静な解説が読める。

世界飛び地領土研究会
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/
ややジャーナリスティックな興味で、
日本ではなじみのうすい国々の解説を行なっている。
典拠などは、一般に手に入るものが中心で、かつ学習書としても有用なものを使っている。
アブハジア自治共和国と、グルジアの関係を簡潔、明解にまとめていた。

ジャーナリストは近視で、学者は遠視だが、それぞれ互いには見えないものを見る。

いずれも今後、リンクする予定。



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アイザック・アシモフが「変化の風」という短編を書いたとき、
彼はいまのアメリカ合衆国を想像していただろうか。

私が更新を中断してから、たった三カ月間で随分日本は変わった。
2006年12月に愛国心の涵養を盛り込んだ教育基本法の改正案と、海外での活動を本来任務に位置付ける防衛省の設置関連法案が相次いで成立した。

隔世の観がある。私は、子供のころ恐れていた「狂気の未来」が、いざ現実になっていくのをみると、不思議となんの感情も起こらない。

あちこちのブログを読んだが、元から政治がかったブログを除いて、ほとんど大きな反響はみられなかった。

背景にあるのは、もうどうしようもない、というあきらめと、あえてこれらの法改正に触れるのが重苦しい、という疲労と、今さらなにをいっても空々しいという、しらけきった気持ち、だろうか。
もう一歩踏み込んでいえば、おもてだって怒りを表明し、「政治がかってる」「古くさいサヨク」といった印象を持たれても困る、みたいな無意識の配慮もあるかもしれない。

朝日、毎日、東京といった新聞のほうが、建前からとはいえ、まだしも批判の態度は勇ましかった。ブログはほとんど無風状態だったといっていい。個人メディアは、会社という防波堤がないぶん、過度に臆病になっているとさえ思えた。




防衛省への昇格も大きな出来事だが、教育基本法の改正はさらに重要だ。
これは、多くの人が考えているより、大きな意味がある。
軍拡や国粋主義に反対する人にとっても、賛成する人にとってもだ。

まず、義務教育は、極めて強力な洗脳手段である。

平和を愛し、個人の権利を尊び、他者への理解と同情を中心とすることも、
武勇を愛し、愛国心を第一とし、敵対と団結を思想の根本とすることも、

為政者が、子供の教育をどうするかで、かなり好き勝手にできる。

尤も、どこか目立つところでそう主張すれば、異論が百出するだろう。
だいたい物書きというのは、自らを恃む性分の者が多いから「学校教育なんか、人格形成にはたいした影響も与えない」とうそぶきたがる。
しかし実際には、多くの人が知らず知らずのうち、子供のころ与えられた情報を、価値判断の礎にしているのだ。

教師のような公務員はたいてい、お上が右を向けば右、左を向けば左、完全にその方針に沿った行動をとる。子供は、教師に反発しながらも、やはりゆるぎない権威として、事実めかした言葉を受け入れる。

子供は、総じて疑うことがヘタだ。ウソをあばけない。情報を比較して、矛盾を見つけだそうにも、先生の言葉は巧みに首尾一貫、理路整然としているように説かれるし(教師や聖職者が持つ最大の技術だ)、よしんば主張のほころびを見つけても、批判材料となる手持ちの知識が少なすぎて、どうしようもない。

だから子供は、どれだけ大人の言葉を疑ってかかっても、結局だまされてしまう。
思春期に入ると情報を入手する力も増え、ウソをあばけるようになり、その行為に夢中になるが、そのころにはもう、愛国心なり、平和主義なりを相当刷り込まれているのだ。
義務教育というのは、地味だが絶大な影響力を持っている。

これから改正教育基本法という根拠を得た政府は、急激に愛国教育を推し進めるだろう。

その効果はすぐには現れない。
しかし、十年、二十年が過ぎたとき、着実に形になるだろう。
2007/01/14 改正教育基本法の施行後に、義務教育を受けて育った世代は、その上の世代とはものの考え方自体が異なる若者に成長するだろうと想像できる。あるいは、我々老人は、新世代の強烈さを嫌悪しながら魅了されるかもしれない。

だから先見の明のある右翼は、見ための派手な防衛省の昇格より、教育基本法の改正を心底喜ぶべきだ。また哀れにも想像力を持ち合わせた左翼は、教育基本法の改正は、ある時代を支配した理想の決定的敗北の瞬間だったと、もっとはっきり実感すべきだ。

私は安倍政権が、世間のいうように無能だとは思わない。
かつてであれば、一つの政権が解散と引き換えにしてもおかしくない法案を、二つも成立させたのだ。さらに憲法改正も成し遂げれば、彼等は、自らの仲間のために十二分に有能な働きをしたことになる。

平成18年と19年はやがて、おそるべき年、あるいは偉大なる年として記憶されるだろう。


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