言論の自由と言った人がいたとか・・・。
森鴎外の小説に「山椒大夫」があるらしいけど、安寿と厨子王の話をもとにしてるらしく、大正4年(1915年)に中央公論に最初に載ったらしい。森鴎外は島根県にあった津和野藩の出身らしい。本当か知らないけど・・・。森鴎外の生家は西周の川向かいにあったみたいだけど、森鴎外は西周の遠い親戚らしい。
西周という人は日本で最初のフリーメイソンらしいけど、西周は島根県にあった津和野藩の出身らしい。本当か知らないけど・・・。ウィキペディアで調べると、西周は1864年にオランダに留学中にライデンというところでフリーメイソンに入会したらしい。西周は啓蒙思想家で西洋哲学者で、様々な和製漢語を作ったらしい。
津田真道という人も日本で最初のフリーメイソンらしいけど、津田真道も1864年にオランダに留学中にライデンでフリーメイソンに入会したらしい。明治6年(1873年)に明六社という啓蒙思想の団体が結成され、森有礼という人が初代社長に就き、西周も津田真道も明六社の初期メンバーらしい。初期メンバーの10人の中には福沢諭吉もいるらしい。
榎本武揚という人について、まったく知らないけど、榎本武揚は最初の内閣の第一次内閣で初代逓信大臣に就いたようだ。次の黒田内閣でも逓信大臣に就き、途中から文部大臣に代わったようだ。黒田内閣では農商務大臣も臨時兼任したようだ。第一次松方内閣では外務大臣に就き、第二次伊藤内閣と第二次松方内閣でも農商務大臣に就いたようだ。逓信省は交通や通信や電気など幅広く管轄してたみたいだ。
榎本武揚は西周や津田真道と一緒にオランダに留学したの?。ウィキペディアを見ると、そんなかんじだけど・・・。
第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれ、日露戦争は明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあったらしい。林董は日英同盟の調印の時の日本の代表だったようだ。林董は駐英公使だったようだけど、明治36年(1903年)にフリーメイソンに入会し、次の年には日本人初のロッジ・マスターになったようだ。ウィキペディアに、そう載ってる。林董は第一次西園寺内閣で外務大臣、第二次西園寺内閣では逓信大臣を務め、外務大臣も一時兼任したようだ。林董は千葉県にあった佐倉藩の出身ということになってるらしい。
林董は蘭学者で医者の佐藤泰然という人の息子で、蘭学者で医者の林洞海という人の養子になったようだ。佐藤泰然は順天堂の開祖らしい。林洞海の妻は佐藤泰然の娘らしい。林洞海の息子は西周の養子になったらしく、西紳六郎と名乗ったようだ。ウィキペディアで調べて書いてるけど、これでいいんでしょうか?。榎本武揚の妻は林洞海の娘らしい。
本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、後藤新平は第二次桂内閣で逓信大臣と初代鉄道院総裁、第三次桂内閣で逓信大臣、寺内内閣で内務大臣と外務大臣、第二次山本内閣で内務大臣に就いたようだ。後藤新平は東京市長にも就任したようだ。後藤新平は関東大震災の後に帝都復興院総裁に就き、東京の復興計画を立案したらしい。後藤新平は昭和4年(1929年)に亡くなったらしい。後藤新平はフリーメイソンらしい。
逓信省は太平洋戦争の後の昭和24年(1949年)に廃止になり、郵政省と電気通信省が新設されたらしい。第三次吉田内閣の時に省庁が再編されたらしいけど、小沢佐重喜という人が最後の逓信大臣で、初代郵政大臣と初代電気通信大臣を務めたようだ。小沢佐重喜は奥州市の水沢の出身らしいけど、本当か知らない。小沢佐重喜の息子が小沢一郎だそうだ。
フリーメイソンですか・・・。
火をつけるか
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