カツラ疑惑ですか・・・。
明治維新の後の浄土真宗本願寺派の法主は大谷光尊で、明治維新の後に教団の宗制や寺法を定め、若手僧侶を海外派遣して宗派の近代化を図ったようだ。浄土真宗という名称が決まったのも、この頃で、親鸞に見真大師と蓮如に慧燈大師が送られたのも、この頃らしい。
次の浄土真宗本願寺派の法主の大谷光瑞は大谷光尊の息子で、大谷光瑞の妻は九条家の人で大正天皇の皇后の貞明皇后の姉らしい。大谷光瑞は大谷探検隊でインドに行って、お釈迦様が法華経を説いた場所といわれる霊鷲山を見付けてきたらしい。浄土真宗本願寺派はチベットと交換留学もしていたようだ。大谷家は巨額の負債を抱え、教団の不正もあって、大谷光瑞は法主を退いたらしい。大谷光瑞は、その後は台湾で農業経営に携わったり、太平洋戦争の戦時中には政治にも関わったようだ。詳しく知らないのでウィキペディアで調べて書いてます。
大谷光瑞の次の浄土真宗本願寺派の法主の大谷光照は昭和天皇の従兄弟らしい。大谷光照は戦時中は国家神道を推進したようだ。浄土真宗本願寺派は太平洋戦争の終戦の後にGHQの指導のもと、宗教改革を行ったらしい。浄土真宗本願寺派の法主は太平洋戦争の後は門主になったみたいだけど、大谷光照は太平洋戦争の終戦後は全日本仏教会の会長を務めたりしたようだ。
明治維新の後の真宗大谷派の法主は大谷光勝で、真宗大谷派は明治維新の後に北海道の開拓に携わったり、東本願寺の建物の再建を行ったようだ。次の法主の大谷光瑩の時に東本願寺は多額の負債を抱え、大谷光瑩の息子の大谷光演が法主を継いだみたいだけど財政再建できず、大谷光演の息子の大谷光暢が法主を継いだようだ。大谷光暢は太平洋戦争の後も法主を続けたようだけど、昭和44年(1969年)に教団内で内紛があり、昭和56年(1981年)に法主が門首に変わり、昭和62年(1987年)に真宗大谷派という名称になったようだ。
京都には西本願寺と東本願寺があるようだけど、西本願寺は浄土真宗本願寺派の総本山で、東本願寺は真宗大谷派の総本山らしい。浄土真宗本願寺派も真宗大谷派も教団のトップは親鸞聖人の子孫の大谷家の人ということになってるみたいだけど、親鸞聖人の御廟も西本願寺と東本願寺で別々にあるようだけど、詳しく知らない。
西本願寺と東本願寺ですか・・・。
火をつけるか
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