エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

偶然手にした 中村久子著「こころの手足」

2009-01-27 | 文芸
           【ケラー女史に贈った最初の人形とともに  ネットより】

 偶然に書店で手にした 中村久子著の「こころの手足」を読んだ。
 これまで62年間、中村久子女史の存在を知らなかった。もっと早くに知っていたなら、我が人生観に多大なる影響を及ぼしたに違いない。
両手両足の切断という重い障害を抱え、ひたむきに読書、裁縫、書道等に打ち込み、少しずつ自立していく。辛かった少女時代、厳しく優しく育てた両親、父や母の死、夫との別れ、弟や祖母の死と、波乱の人生にこれでもかこれでもかと次々に起こる不幸、また周囲の悪い人たち・・・ 時代的にも大変な辛い人生だが、それらが自分への試練だと言う。「天は何処まで試練を与えた給うか。」と書くように、かつてこれほど切ない人生を知らない。読み進み涙は止まらなかった。この苦闘の人生をみつめ、強く生き抜いた、強靱なこころに感動した。
 糾える縄のごとしと言うが、こんなにひどい神の仕打ちがあろうかと思いながら、後半生は、それまでの不幸せの数だけの幸せであったと思いたい。
 レンケラー女史と出遇い、口で作った日本人形を贈ったとき、ヘレンケラー女史は“私より不幸な、そして偉大な人”と呟いたという。
 後になり知る人々への感謝の念。「手足のないわたしが、今日まで生きられたのは、母のお陰です。生きて来たのではない、生かされてきたのだと、ただただ合掌あるのみです。」と語っている。
 読了して、《ちぎれ雲》の項にあるいくつもの短歌に、久子の美しい尊いこころを見つめている。
 ○母として母のつとめの足らざるを朝な夕なにわびつすごしぬ
○宿世にはいかなるつみををかせしやをがむ手のなきわれはかなしき
○手足なき 身にしあれども生かさる いまのいのちはたふとかりけり。


 この本との偶然の出会いが嬉しかった。これからも女史の心を「こころの手足」にしていきたい。