嶽南亭主人 ディベート心得帳

ディベートとブラスバンドを双璧に、とにかく道楽のことばっかり・・・

「意見と事実」について考える(3)他人の人生を左右するあなたの意見

2006-03-01 02:22:47 | ディベート
前回、ディベートはあくまで議論を生産的かつ効果的に行う形式のひとつであって、それが議論のプロセスとして位置づけられ、その後にそれとは独立して決定を行う限り、ディベートにおける立場の固定と自己の選好の修正作業とは全く矛盾しないと論じた。

ここで、大きな但し書きがつく。ディベートそのものを「社会的決定の方法」として採用、制度化している重要な例外がある。

裁判制度である。

「ディベート」とは、1)論題、2)それを肯定・否定する役割分担、3)どちらの主張がより説得的であったかを判断する第三者という3つの構成要件から成立する議論の一形式であるという定義を採用する限り、裁判は立派な「ディベート」である。アメリカの学生ディベーターの多くが法曹界を志すというのも、故なきことではない。

裁判では、原告(およびその利益の代弁者)と、被告(およびその利益の代弁者)とが、主に事実認定に関する【議論】(=主張と論拠・証拠の集合体)を正面から戦わせる。冒頭で罪状認否が行われ、スタンスが形成されると、両サイドとも途中でスタンスは変えない。そして裁判官の判定によって、どちらかが必ず「勝つ」。付言しておくが、刑事裁判には「和解はない」のである。

数年後、一般市民が刑事裁判に参画する裁判員制度が始まると聞き及ぶ。「その時、自分ならどうする」(相田みつを)と大書した啓蒙ポスターが、地下鉄の駅のそこかしこに貼り出されている。

いよいよ、「相対立する主張を聞き、どちらがより説得的であったかを導出する」という「議論を評価する能力」が、我々のような一般市民に、のっぴきならないシチュエーションで要求されるようになる訳だ。

私は刑事事件の被告になるつもりはさらさらないが、【議論を論理的に評価する力量】をお持ちでない方には、正直、私は裁かれたくない。判決が、論理的に納得できるものでなければ、死んでも死にきれないではないか!

実は、いま、とある刑事事件の公判をモニターしている。殺人事件などとは異なり、物証はほとんど出てこない。唯一の物証は、アリバイを証明するためのパスポートの写しのみ。その他の証拠はすべて供述調書、および証人の証言だけである。否認事件であるので、検察側と弁護側の主張は、真っ向から対立している。この判決が被告人の人生を決定的に左右するのはまちがいなく、「一票の重み」はとてつもなく大きい。

その一票を職業裁判官ならぬ我々が持つ日、すなわち我々の意見が他人の人生を直接的に左右する機会が、現実にくるのである。

百歩譲ろう。

その技量の学習方法は、問わない。なんらかの理由でディベートをお好みにならないのなら、その他の方法でもかまわない。自由に選択して頂いて結構。

しかし、裁判員制度が導入される以上、ディベートの実践や見学を繰り返し体験することで身につくところの・・・

「論理的に考え、意見を形成・検証するスキル」

の習得が、一般市民にあまねく要求されるようになったという事実には、いよいよ議論の余地がなくなってきたのである。

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