嶽南亭主人 ディベート心得帳

ディベートとブラスバンドを双璧に、とにかく道楽のことばっかり・・・

関東大会雑感: ネット資料にも、玉あり石あり

2008-07-31 23:35:21 | ディベート
ネット上の資料には、玉もあれば石もある。発言の責任を回避できる可能性が高い分だけ、内容において不確かな石は少なくない。教室ディベートの学習に取り組む生徒諸君におかれては、玉と石とを見分ける術を身につけて欲しい。

先の関東大会の中学の部、決勝の講評で申し上げたかったのはそのことである。

さて、当日言い尽くせなかったこの点について、以下、補足的にお話したい。

例によって、問題をお示しする。

問: 以下の参考資料(ちなみにすべてインターネット上の資料です!)を読んだ上で、鶴見事故がどのような事故であったかについて、第1の事故、第2の事故、第3の事故に分けて、説明してください。

第1の事故: 
第2の事故: 
第3の事故: 

(参考資料)

●資料1 はてなダイアリー

1963年11月9日21時40分頃、東海道本線鶴見-新子安間で発生した鉄道事故。脱線して停車していた貨物列車に横須賀線下り電車が衝突、脱線し、上り線をふさぐ形で停車。その電車に更に横須賀線上り電車が衝突したという二重衝突事故。死者161人。

●資料2  特集-鉄道事故と安全への取り組みの歴史(個人HP)
 
鶴見三重衝突事故: 昭和38年(1963年)11月9日21時51分、東海道本線(3複線で現在は横須賀線となっている線路)鶴見~新子安を走行していた下り第2365貨物列車(45輌 換算不明・牽引EF15)の43輌目のワラ501(ワラ1形式・2軸車)が進行方向左側に脱線し、続く2輌も脱線して旅客線(東海道本線、当時は横須賀線の列車もここを走行)に支障したまま引きずられ架線柱に衝突した。直後この旅客線に上り第2000S列車(横須賀線70系電車 12輌)がやってきて脱線貨車と衝突。同時期に下り第2113S列車(横須賀線70系電車 12輌)が架線異常を察知し、非常制動をかけながらやってきた。上り電車の1輌目は貨車と衝突後下り電車の4輌目と5輌目に衝突して上り電車の2・3輌目も貨物線側に脱線し、死者162人負傷者120人を出す大惨事となった。

●資料3  鶴見歴史の会 副会長、 横浜市鶴見区HP、「鶴見歴史の会」が語る鶴見の歴史(第10回) 大本山總持寺境内にある鉄道事故関係慰霊碑等について

鶴見事故とは、昭和38年(1963年)11月9日午後9時40分、国鉄(現・JR)東海道線新子安・鶴見間の滝坂不動踏切から、鶴見寄り約500m地点で、脱線転覆した下り貨物列車に衝突した上り横須賀線電車が脱線し、さらにさしかかった横須賀線下り電車が衝突した三重衝突事故である。この事故により死者161名、重軽傷者119名の犠牲者を出す大惨事が起きた。

●資料4 事件史探求HP

昭和38年11月9日午後9時40分頃、東海道線の鶴見駅と新子安駅の間で国鉄(現在JR)の下り貨物列車が脱線転覆した。そこへ、上りの横須賀線の電車が貨物列車に衝突脱線した。さらに下りの横須賀線の電車が衝突し付近は騒然となった。この3重衝突で死者161人、重軽傷者119人の犠牲者を出す大惨事となった。

●資料5 国鉄鶴見事故&幕末の生麦事件―ワイワイマップ Yahoo地図

昭和38年11月9日午後9時40分頃、東海道線の鶴見駅と新子安駅の間で国鉄(現在JR)の下り貨物列車が脱線転覆した。そこへ、上りの横須賀線の電車が貨物列車に衝突脱線した。さらに下りの横須賀線の電車が衝突し付近は騒然となった。この3重衝突で死者161人、重軽傷者119人の犠牲者を出す大惨事となった。

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正解は、もうしばらくしたら、申し上げる。鉄道ファンの方は、難なく正解にたどり着けるかもしれないが。お試しくだされたく。

関東大会雑感: ネットで拾った不完全な資料

2008-07-30 07:53:35 | ディベート
三河島事故とあわせて「双子の事故」とも呼ばれる鶴見事故は、昭和38年11月9日土曜日の夜9時40~50分に発生した三重事故であった。死者161名、重軽傷者120名。国鉄五大事故の一つに数えられる大事故である。

ちなみに、立て続けに重大事故を引き起こし、批判にさらされた国鉄(日本国有鉄道。JRの前身、と言わねば通じないかもしれないが)は、労使それぞれに事故の再発防止に努力し、事故の教訓を組織に浸透・伝承させようと取り組んだ。その甲斐あって、死者100名を越す大事故は、この鶴見事故を境に絶えてなくなる。その後、100人超の死者が発生する大事故は、皆さんもご存知であろう、平成に入ってからのこと、2005年4月25日、尼崎・塚口駅間で発生したJR福知山線脱線事故である。

ここで皆さんに問題をお示しする。まずは、以下のネットで拾った「資料」をお読み頂きたい。

(出典)事故災害とその周辺のことばを振り返る用語集「WebMagazine月間基礎知識」

◆鶴見事故/競合脱線: 1963(昭和38)年11月9日、国鉄東海道線の鶴見駅と新子安駅の間で下り貨物列車が脱線転覆したところへ、横須賀線上り電車が衝突。161人が死亡、120人が重軽傷を負う事故となった。事故原因は単独要因によるものでなく、車両の老朽化や過積載、過密ダイヤなどの要因が絡み合った競合脱線とされた。

問: この資料の記述に、何かおかしなところはないでしょうか?

冒頭でヒントを述べておいたので、簡単な問題であろう。鶴見事故は「三重事故」のはずなのに、上記の説明には、なぜか「下り貨物列車」と「横須賀線上り電車」しか出てこない。死傷者が多く発生したのは、土曜の夜、東京から横浜、鎌倉方面に帰ろうとする人(その中に、不幸にしてこの事故で落命した横浜市立大学学長、三枝博音先生もおられた。合掌)が乗車していた「横須賀線下り電車」の方である。

それなのに、その存在を書き落とすのでは、記述として不適切である。事故の内容を論証するための証拠資料としても、不適切である。

***

【教訓1】:もしも鶴見事故のことを知らず、この資料【だけ】を見ていた人がいたとしたら、事故の内容を容易に誤解してしまうであろう。粗忽な思い込みを回避するには、「裏をとって確かめる」ということに尽きる。

【教訓2】:ディベーター諸君におかれては、探していた証拠資料が見つかったとしても、ぬか喜びしてはいけない。その資料に弱点はないのか、妥当しない可能性があるとしたらどこか、そもそもその資料を採用してよいのか、念のため「疑ってかかる」心の余裕を持って欲しい。

これは、まだ序の口。ネット資料にかかる問題提起は、まだ続く。

関東大会雑感: ウィキペディア問題

2008-07-29 23:49:47 | ディベート
ディベート甲子園関東大会中学の部の、とある試合。

ウィキペデイアが証拠資料として提出された。

ついに来たかとの思いがした。同時に、これは講評の際に注意喚起をしておこうと思った。

ウィキペディアが証拠資料に「ならない」とは言わない。しかし、使用に際しては、相当の注意が必要な出典であろうと思う。私は、個人的には、お勧めしない。

ウィキは、なかなか重宝する「百科事典」だとは思う。若林豪主演の「快刀乱麻」が、第何回放送分から「新十郎捕物帖・快刀乱麻」に改題されたか、などというニッチ情報が載っているのはウィキならではとも言え、実に「秀逸」だ。充実したリンク機能があるので、ウェブサーチの基点としてはもってこいだとも思う。

しかし、弱点も看過できない。

1)誰が書いているか、わからない。「ウィキペディアはオープンコンテントの百科事典です。基本方針に賛同していただけるなら、誰でも記事を編集したり新しく作成したりできます」ということなので、発言の責任や信憑性を追及したくてもできない。それなら、どうぞ「著作権を侵害しない」、「検証可能性を満たす」、「独自研究は書かない」、「中立的な観点で書く」等の「ウィキペディア」の基本方針に賛同した上で、あなたが自由に編集してください、そうすれば内容が更正されます、とか言われそうだが、そんな義理もヒマも、私にはない。それに、そもそも自説を論証するのに証拠資料を与えようというのに、その証拠資料を自らが「作成」するというのは、適切だとは言いがたい。

2)さらに問題なのは、記述が振幅することだ。ウィキ上で「ディベート」の項目を見たことがある方はお気づきだろうが、掲載内容は、私の知る限りでも3回ほど、大きな変更が生じている。いつ何時証拠資料の内容が変化するかわからないということは、議論を論証する上で、好ましいことではない。

ということは、ウィキを証拠資料として使ってはならないとまでは言わないが、ウィキが証拠資料として活用できるのは非常に限定的なシーンに留まるということだ。対抗資料として、「普通の」別の出典資料が出てきたら、私はそちらの方を採用するだろう。

ディベーターの皆さんにおかれては、そのあたり、十分に注意されたい。

さらに、ことはウィキに限らず、ネット資料一般の問題へと向かっていく。そのことを、鶴見事故の経過をテーマとして考えてみよう。

(追記)

有難いことに、上記の記事を受け、気鋭のディベーターであり、法学の専門家でもある愚留米氏が、このウィキペディア問題について、さらに深い検討を進めてくれている。ディベーター諸君には、一読を強くお勧めしたい。そして、一緒にこの問題をお考え頂きたい。



鉄道博物館のライブラリーに行く

2008-07-27 23:12:41 | ディベート
過日、懸案であった大宮の鉄道博物館にようやく行くことができた。

Suicaで入場できるところから、もうワクワク。車体の展示、ジオラマ、鉄道の歴史、それに「日本食堂」など、それぞれに楽しめたが、お目当てはライブラリーである。

リスク・マネジメントの研究から、畑村先生の失敗学に親しみ、失敗百選の事例にもとりあげられている三河島事故の詳細を調べていたが、ネット上の資料ではどうしてもわからないところが出てきた。これはもう、図書館に行くしかない。

***

昭和37年5月3日、午後9時半頃。貨物列車の運転士は、三河島駅脇の貨物線を常磐線の本線に向けて列車を乗り入れようとしていた。当時のことなので、機関車は蒸気機関車。田端駅方向の貨物線から高架上の常磐線本線に向けて勾配を登りきれるよう、馬力が必要だった。

彼は、信号を見落とした。「青だった」と後に主張し続けるのだが、微妙なカーブの死角に入り、隣の常磐線下り線路の信号の青を誤認したと推察される。異説として、まもなく信号が青に切り替わるだろうとの見込みから信号を無視し、確信的に減速しなかったとの説もある。

いずれにせよ、貨物線の信号は赤。貨物列車は停止しなければならぬ。しかし、その認識のない運転士が操作し、傾斜を踏破するための加速度のついた貨物列車は、止まりようもなく、そのまま冒進する。

こういうときのために、下り線路に侵入しないよう、安全側線という設備が設けられている。貨物列車は、常磐線下り線路に入線する代わりに、安全側線に進入した。

残念なことに、勢いがつきすぎていたのだ。安全側線は用をなさなかった。機関車は、安全側線の行き止まりの砂利に乗り上げて脱線。すぐ右となりの常磐線下り線路を支障。この第一の事故が、悲劇の始まりである。

その数分後、常磐線下り列車が、三河島駅を3分遅れで発車。夜のことで視界が悪く、脱線していた貨物列車に衝突、脱線。すぐとなりの上り線を支障する。これが第二の事故である。

この時点での被害は、実はそれほど多くなく、下り列車の乗客に死者はなく、負傷者が20数名であったとのこと。

国鉄は、昭和26年の桜木町事故の教訓として、車両に緊急時脱出用の非常コックの設置を進めた。桜木町事故は、架線異常による列車火災事故だが、そのときは車両内部からの脱出設備がなく、車両火災に遭った乗客が逃げることができず、車両内に閉じ込められたまま焼死してしまった教訓から、乗客が車両から脱出できるよう非常コックが整備されたのである。第2の事故で停止した下り列車の乗客は、自主的に非常コックを開いて、上り線路に降り立ち始めた。

第二の事故から6分後。上り列車が、事故現場にやってくる。現場近くの信号所に列車停止の権限はなく、先に事故を起こした下り列車の乗務員も、対向の上り列車を止める行動を取らなかった。なぜ、対向の上り列車を止めようとしなかったのか。真実はよくわからない。

当然、上り列車は、線路を支障する下り列車に衝突する。運命の第三の事故の発生である。

上り列車1両目は衝突の衝撃で大破して砕け散り、2両目から4両目までが脱線、進行方向左側、高架下の倉庫に突っ込んだ。

上り線路上には下り列車の乗客多数が避難して降り立っていたことは、すでに述べた。第3の事故で、上り列車は、線路上の乗客を撥ね飛ばし、轢いた上で、脱線、停止。事故現場は、凄惨を極めたという。

この第3の事故で、先ほどまで負傷者20数名だった列車事故が、死者161名、負傷者296名の大惨事となった。

事故直後の周辺住民、曰く。

「線路上がざわざわと騒がしくなった。その後、ドーンという音がしたと思ったら、急に『シーン』となった」

三河島駅ホームからおよそ500メートル西側にある事故地点界隈は、オカルト指向の皆さんには「出る」スポットとして有名なのだそうだが、往時の面影をとどめるものは、ほとんど残されていない。下り列車が突っ込んだ倉庫は、いまマンションなどに建て代わっている。

***

この事故後、列車防護の訓練、保安規定の整備、自動列車停止装置(ATS)の設置といった安全対策が進むことになる。

しかし。

その記憶もさめない翌年11月、同様の三重事故である鶴見事故が起きる。鶴見事故については、先の関東大会の講評の折に少し触れたが、ここでもあらためてお話しておこう(という訳で、次回へ)。

(高校論題) 主人、論題充当性問題に決着をつけんとす

2008-07-01 04:23:35 | ディベート
過日、ディベート甲子園の関東大会に審判としておじゃました。

やんぬるかな、肯定側プランの「例の」問題を見受けてしまった。

はっきり申し上げよう。「そのようなプラン」が出てくるのは見たくない。論題の範囲内に収まるプランで、いわゆる「発生過程」を正攻法で論じて頂きたい。

とはいえ、否定側の諸君は、そのような事態に遭遇すれば、手を焼くことであろう、きっと。この種の問題に、慣れてないからね。

であるからして、この際、否定側の諸君に申し上げる。

ポイントは、3つ。

1)もし、「そのようなプラン」が出てきたら、「定義は肯定側に従います」とは、絶対に言ってはならない。

2)「そのようなプラン」を論題の範囲外にキックアウトできる、否定側なりの「定義」を用意されたい。そして、それを試合中の議論として、論じられたい。

3)上記、1)と2)につき、「何を言っているのか、よくわからない」のであるならば、急ぎ、NADEのホームページに行き、トライアングルのバックナンバー「論題充当性」全6回を、すみからすみまで熟読されたい。

とりあえず、申し上げたいのは、以上である。

寝台急行はまなすに乗車する

2008-07-01 04:02:46 | 
荷物をあずけたら、秋田県小坂視察組は、夕食懇談に再集合ということなので、集合場所へと急ぐ。

行き先は、ちょいと縁のある「だるま」という成吉思汗屋さん。

行列の待たされ加減にはうんざりしたが、入ってみてその味に感嘆。

これがラムだとすれば、いままで食ってたやつは何なんだ????

出発は、夜10時。急行はまなす。

あと1時間ほど時間があったので、駅のアイリッシュパブでギネスを3pt.

10分前になったので、おつまみとビールを急いで調達し、ホームへ。

ほどなくして、列車が動き出した。

さあ、寝台急行の旅の始まりだ。

寝台急行に乗車するのは、いまはなき銀河に続いて、2度目。このはまなすも、いつまでもあるとは思われぬ。存分に楽しもうと、ビールをあおりながら、心に決めた。