ネット上の資料には、玉もあれば石もある。発言の責任を回避できる可能性が高い分だけ、内容において不確かな石は少なくない。教室ディベートの学習に取り組む生徒諸君におかれては、玉と石とを見分ける術を身につけて欲しい。
先の関東大会の中学の部、決勝の講評で申し上げたかったのはそのことである。
さて、当日言い尽くせなかったこの点について、以下、補足的にお話したい。
例によって、問題をお示しする。
問: 以下の参考資料(ちなみにすべてインターネット上の資料です!)を読んだ上で、鶴見事故がどのような事故であったかについて、第1の事故、第2の事故、第3の事故に分けて、説明してください。
第1の事故:
第2の事故:
第3の事故:
(参考資料)
●資料1 はてなダイアリー
1963年11月9日21時40分頃、東海道本線鶴見-新子安間で発生した鉄道事故。脱線して停車していた貨物列車に横須賀線下り電車が衝突、脱線し、上り線をふさぐ形で停車。その電車に更に横須賀線上り電車が衝突したという二重衝突事故。死者161人。
●資料2 特集-鉄道事故と安全への取り組みの歴史(個人HP)
鶴見三重衝突事故: 昭和38年(1963年)11月9日21時51分、東海道本線(3複線で現在は横須賀線となっている線路)鶴見~新子安を走行していた下り第2365貨物列車(45輌 換算不明・牽引EF15)の43輌目のワラ501(ワラ1形式・2軸車)が進行方向左側に脱線し、続く2輌も脱線して旅客線(東海道本線、当時は横須賀線の列車もここを走行)に支障したまま引きずられ架線柱に衝突した。直後この旅客線に上り第2000S列車(横須賀線70系電車 12輌)がやってきて脱線貨車と衝突。同時期に下り第2113S列車(横須賀線70系電車 12輌)が架線異常を察知し、非常制動をかけながらやってきた。上り電車の1輌目は貨車と衝突後下り電車の4輌目と5輌目に衝突して上り電車の2・3輌目も貨物線側に脱線し、死者162人負傷者120人を出す大惨事となった。
●資料3 鶴見歴史の会 副会長、 横浜市鶴見区HP、「鶴見歴史の会」が語る鶴見の歴史(第10回) 大本山總持寺境内にある鉄道事故関係慰霊碑等について
鶴見事故とは、昭和38年(1963年)11月9日午後9時40分、国鉄(現・JR)東海道線新子安・鶴見間の滝坂不動踏切から、鶴見寄り約500m地点で、脱線転覆した下り貨物列車に衝突した上り横須賀線電車が脱線し、さらにさしかかった横須賀線下り電車が衝突した三重衝突事故である。この事故により死者161名、重軽傷者119名の犠牲者を出す大惨事が起きた。
●資料4 事件史探求HP
昭和38年11月9日午後9時40分頃、東海道線の鶴見駅と新子安駅の間で国鉄(現在JR)の下り貨物列車が脱線転覆した。そこへ、上りの横須賀線の電車が貨物列車に衝突脱線した。さらに下りの横須賀線の電車が衝突し付近は騒然となった。この3重衝突で死者161人、重軽傷者119人の犠牲者を出す大惨事となった。
●資料5 国鉄鶴見事故&幕末の生麦事件―ワイワイマップ Yahoo地図
昭和38年11月9日午後9時40分頃、東海道線の鶴見駅と新子安駅の間で国鉄(現在JR)の下り貨物列車が脱線転覆した。そこへ、上りの横須賀線の電車が貨物列車に衝突脱線した。さらに下りの横須賀線の電車が衝突し付近は騒然となった。この3重衝突で死者161人、重軽傷者119人の犠牲者を出す大惨事となった。
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正解は、もうしばらくしたら、申し上げる。鉄道ファンの方は、難なく正解にたどり着けるかもしれないが。お試しくだされたく。
先の関東大会の中学の部、決勝の講評で申し上げたかったのはそのことである。
さて、当日言い尽くせなかったこの点について、以下、補足的にお話したい。
例によって、問題をお示しする。
問: 以下の参考資料(ちなみにすべてインターネット上の資料です!)を読んだ上で、鶴見事故がどのような事故であったかについて、第1の事故、第2の事故、第3の事故に分けて、説明してください。
第1の事故:
第2の事故:
第3の事故:
(参考資料)
●資料1 はてなダイアリー
1963年11月9日21時40分頃、東海道本線鶴見-新子安間で発生した鉄道事故。脱線して停車していた貨物列車に横須賀線下り電車が衝突、脱線し、上り線をふさぐ形で停車。その電車に更に横須賀線上り電車が衝突したという二重衝突事故。死者161人。
●資料2 特集-鉄道事故と安全への取り組みの歴史(個人HP)
鶴見三重衝突事故: 昭和38年(1963年)11月9日21時51分、東海道本線(3複線で現在は横須賀線となっている線路)鶴見~新子安を走行していた下り第2365貨物列車(45輌 換算不明・牽引EF15)の43輌目のワラ501(ワラ1形式・2軸車)が進行方向左側に脱線し、続く2輌も脱線して旅客線(東海道本線、当時は横須賀線の列車もここを走行)に支障したまま引きずられ架線柱に衝突した。直後この旅客線に上り第2000S列車(横須賀線70系電車 12輌)がやってきて脱線貨車と衝突。同時期に下り第2113S列車(横須賀線70系電車 12輌)が架線異常を察知し、非常制動をかけながらやってきた。上り電車の1輌目は貨車と衝突後下り電車の4輌目と5輌目に衝突して上り電車の2・3輌目も貨物線側に脱線し、死者162人負傷者120人を出す大惨事となった。
●資料3 鶴見歴史の会 副会長、 横浜市鶴見区HP、「鶴見歴史の会」が語る鶴見の歴史(第10回) 大本山總持寺境内にある鉄道事故関係慰霊碑等について
鶴見事故とは、昭和38年(1963年)11月9日午後9時40分、国鉄(現・JR)東海道線新子安・鶴見間の滝坂不動踏切から、鶴見寄り約500m地点で、脱線転覆した下り貨物列車に衝突した上り横須賀線電車が脱線し、さらにさしかかった横須賀線下り電車が衝突した三重衝突事故である。この事故により死者161名、重軽傷者119名の犠牲者を出す大惨事が起きた。
●資料4 事件史探求HP
昭和38年11月9日午後9時40分頃、東海道線の鶴見駅と新子安駅の間で国鉄(現在JR)の下り貨物列車が脱線転覆した。そこへ、上りの横須賀線の電車が貨物列車に衝突脱線した。さらに下りの横須賀線の電車が衝突し付近は騒然となった。この3重衝突で死者161人、重軽傷者119人の犠牲者を出す大惨事となった。
●資料5 国鉄鶴見事故&幕末の生麦事件―ワイワイマップ Yahoo地図
昭和38年11月9日午後9時40分頃、東海道線の鶴見駅と新子安駅の間で国鉄(現在JR)の下り貨物列車が脱線転覆した。そこへ、上りの横須賀線の電車が貨物列車に衝突脱線した。さらに下りの横須賀線の電車が衝突し付近は騒然となった。この3重衝突で死者161人、重軽傷者119人の犠牲者を出す大惨事となった。
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正解は、もうしばらくしたら、申し上げる。鉄道ファンの方は、難なく正解にたどり着けるかもしれないが。お試しくだされたく。