5年後の10月に再び集う会は、諸般の条件が整わず、残念ながら開催が見送られた。D・グレイ氏は、想いを抑えきれず、7年後にあたる1999年、一人でアトランタから来日し、靖国神社で阿部さんと再会を果たした。
J・ウェスタマン氏は、1992年の式典から1年ほどして、想い出深いアトランタを離れ、生まれ育ったイリノイ州の小さなまちに移り住んだ。何度となく、手紙やパソコン通信を介して連絡をやり取りさせて頂いたが、5年前、氏の訃報に接した。訃報は、アトランタでマシューズ氏から聞いた。
「まったく残念だ」
マシューズ氏は、何度かそう言って、顔を曇らせた。
阿部善次氏は、ご健在とのこと。今年で御年89歳。
伝え聞いて驚いたことに、日米開戦50周年を機に、その後毎年12月、ホノルルのUSSアリゾナ・メモリアルへ弔問に出向いておられた。ご高齢のため、昨年の訪問を最後とされたと聞いた。胸を打たれるばかりである。
*****
私は、いわゆる非武装中立論には与しない。警察と軍隊とに限って、法的に認められる暴力装置は必要なのだと考える。
その一方で、先の大戦における日本の行動を美化したり、その正当化を試みようとも思わない。それらの試みは、相手方の気持ちに想いが至らないショービニズムを助長するに終わるだろう。不健全なショービニズムこそ、国際紛争の遠因になるということを思い知るべきである。
むしろ私は、20世紀の中葉において、日本と日本人が経験した「あの戦争」を、できるだけ深く、多面的に、そして共感をもって理解しておきたい。文字通り、日ごとに喪失されていく、その時代を生きた方々の声に耳を傾けて、記憶に刻んでいきたい。
この営みなくして、アメリカ、アジア諸国のみならず、他国と日本との間で建設的な関係を築いていくことは不可能であると、私は信じる。
加えて・・・
真珠湾はもとより、バターン、シンガポール、南京、ダッハウ、アウシュビッツ、ブーヘンヴァルト、インパール、サイパン、ドレスデン、東京、硫黄島、沖縄、広島、長崎にいたるまで。
第二次世界大戦という困難な時代に生を享けたがゆえに、さまざまな境遇の中で、さまざまな想いを胸に落命した有名無名の軍人、市民、すべての人々への鎮魂として、自分が承継した前世代の経験を次世代に伝えていくことが、いまを生きる我々の務めであると信じる。
最後に、あらためてこの拙文を、故ウェスタマンさん、故木本氏仁さんの霊に捧げる。
以上、木本さんの十三年目の祥月命日に記す
J・ウェスタマン氏は、1992年の式典から1年ほどして、想い出深いアトランタを離れ、生まれ育ったイリノイ州の小さなまちに移り住んだ。何度となく、手紙やパソコン通信を介して連絡をやり取りさせて頂いたが、5年前、氏の訃報に接した。訃報は、アトランタでマシューズ氏から聞いた。
「まったく残念だ」
マシューズ氏は、何度かそう言って、顔を曇らせた。
阿部善次氏は、ご健在とのこと。今年で御年89歳。
伝え聞いて驚いたことに、日米開戦50周年を機に、その後毎年12月、ホノルルのUSSアリゾナ・メモリアルへ弔問に出向いておられた。ご高齢のため、昨年の訪問を最後とされたと聞いた。胸を打たれるばかりである。
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私は、いわゆる非武装中立論には与しない。警察と軍隊とに限って、法的に認められる暴力装置は必要なのだと考える。
その一方で、先の大戦における日本の行動を美化したり、その正当化を試みようとも思わない。それらの試みは、相手方の気持ちに想いが至らないショービニズムを助長するに終わるだろう。不健全なショービニズムこそ、国際紛争の遠因になるということを思い知るべきである。
むしろ私は、20世紀の中葉において、日本と日本人が経験した「あの戦争」を、できるだけ深く、多面的に、そして共感をもって理解しておきたい。文字通り、日ごとに喪失されていく、その時代を生きた方々の声に耳を傾けて、記憶に刻んでいきたい。
この営みなくして、アメリカ、アジア諸国のみならず、他国と日本との間で建設的な関係を築いていくことは不可能であると、私は信じる。
加えて・・・
真珠湾はもとより、バターン、シンガポール、南京、ダッハウ、アウシュビッツ、ブーヘンヴァルト、インパール、サイパン、ドレスデン、東京、硫黄島、沖縄、広島、長崎にいたるまで。
第二次世界大戦という困難な時代に生を享けたがゆえに、さまざまな境遇の中で、さまざまな想いを胸に落命した有名無名の軍人、市民、すべての人々への鎮魂として、自分が承継した前世代の経験を次世代に伝えていくことが、いまを生きる我々の務めであると信じる。
最後に、あらためてこの拙文を、故ウェスタマンさん、故木本氏仁さんの霊に捧げる。
以上、木本さんの十三年目の祥月命日に記す