大変長らくお待たせしました。それでは、高校の部・決勝の講評判定を申し上げます。
ディベートって・・・・
という台詞に対する期待があることは、よく承知しています。ですので、今年は考えてきております。では行きます。
ディベートって、「公民教育」だと思います。大人に求められる必修科目と言い換えてもよいかもしれません。
で、そのココロは? ・・・について、まず少々申し上げたいと思います。
今回の論題、言い方を変えれば、18歳、19歳の諸君を政治の担い手に加えてよいのかを問うものでした。
政治には、いろいろな定義がありますが、「自分の望む方向に、他人を動かす営み」という広い意味で政治を理解する場合、― いわゆる「あの人、政治的なひとだから」というような意味ですがー その手段には、3つあります。
1つは、「おどす」こと。すなわち、暴力による恫喝です。
確かにその威力にはものすごいものがありますが、相手を傷つける、ひどい場合には命を奪ってしまいかねません。また、目には目をということで、同じやり方で報復されても文句は言えません。よって、実際にはほとんど発動できない下策とされています。
2つめは、「つる」こと。すなわち、利益による誘導です。
金でつる、モノでつるということは、相手を傷つけない分、恫喝よりはマシですが、札びらで人のほっぺたをひっぱたくというのは、少々品がありません。さらに、金の切れ目が縁の切れ目ということも、よく言われるところです。また、どうしても財布の厚い人に有利になってしまうので、不公平です。
そして3つめ。最上策とされているのは、「その気にさせる」こと。つまり、コミュニケーションによる説得です。ここでいうコミュニケーションには、態度やしぐさ、あるいは白旗を掲げるといったものを含む広い意味ですが、とりわけ重要なのは「言葉によるコミュニケーション」だというのは、申し上げるまでもありません。
この3者、おそらく未来永劫、政治の手段として存在し続けるだろうとは思います。ただその一方で、我々の先人は、「武器を言葉で置き換える」という努力を、政治において地道に試み続けてきたという歴史を、我々は決して忘れるべきではないと思います。
この大会を通じてディベートに接した生徒の皆さん、特に今回の論題に取り組んだみなさんは、幸いです。対話を通じて理解を深める、そうして、お互いが納得のいくような公の決定を導き出す上で必須の力量を、皆さんは経験的に体得なさったからです。
試合では、学校における政治教育の限界に関する議論が聞かれました。私は、学校の政治教育の実態は詳しくは承知してはおりませんので、その有効性についての論評はここでは差し控えますが、今回、ディベート甲子園に参加された皆さんは、まちがいなく日本の政治のあり方、ひいては有権者・被有権者となることの意味を十分に学習なさったと確信しています。その意味で、今回のディベートは、誠に効果的な政治教育の機会だということは間違いないと思います。いかがでしょうか、皆さん?
前回総選挙における我が国の有権者は、1億327万人。有権者ひとりひとりが、そのようなコミュニケーション能力を研鑽していくことは、実に迂遠な話のように見えますが、これこそが、良き政治にいたる近道でもあり、王道なのだということを、まず申し上げておきたいと思います。
さらに政治の手段から、目的へと目を転じます。
目的を含めて考えれば、政治とは、他人を動かそうとするやりとりを通じて、公益を増進する、あるいは良き社会を実現するために行われる営みです。
この「良き社会」というのが一筋縄でいかない ・・・先験的・一義的には決まらない・・・ というのが、政治の悩ましいところでもあり、またそうであるがゆえにディベートによって、お互いの認識を磨きながらアプローチしていくことに意味が生ずるという、面白いところでもあります。
【しかしながら】
人間、命には限りがある中で、現在の社会に生きる我々は、いつかは次世代にバトンを渡さなければなりません。そのバトンタッチのときに、後から来る世代に、「ありがとう」と感謝されながら、バトンを渡せるのか、あるいは、「ばかやろう」と悪態をつかれながら、バトンを渡すことになるのか、
その差は決して少なくないと私は思います。
少しでもマシな社会を次世代に引き継ぐことは、今を生きる「大人」のつとめです。
そうであるならば、――ここは「大人とは?」をこれまで探求してこられた池田先生にぜひご指導を賜りたいところですーー、馬を乗りこなせる年頃になったかどうかが、元服する、つまり大人の武士として認められる目安になったという説がありますが、武士にとっての乗馬のスキルと同様に、「良き社会」を求めて行われる公の議論に参加するコミュニケーションの力量を高めていくということは、これから有権者になる「こども」のみならず、むしろ、いま現に有権者である「おとな」にこそ求められる必修科目なんだということになります。
「議論文化の定着」を定款第3条に掲げているところの全国教室ディベート連盟なる団体の使命は重い、とつくづく感じる所以です。(そうですよね、理事長!)
また、そのような社会的使命に向かって努力を重ねる連盟の活動、とりわけディベート甲子園に対して、理解・参加・支援を様々な形で提供してくださった皆さんに、連盟の代表者でもない私がここで御礼申し上げるのは少々筋違いだということは承知の上で、連盟の一会員として、心から御礼申し上げます。どうか、今後とも、日本における議論文化の定着に向けて、倍旧のお力添えの程、あわせてお願いいたします。
それでは、判定理由の説明に入ります。
ディベートって・・・・
という台詞に対する期待があることは、よく承知しています。ですので、今年は考えてきております。では行きます。
ディベートって、「公民教育」だと思います。大人に求められる必修科目と言い換えてもよいかもしれません。
で、そのココロは? ・・・について、まず少々申し上げたいと思います。
今回の論題、言い方を変えれば、18歳、19歳の諸君を政治の担い手に加えてよいのかを問うものでした。
政治には、いろいろな定義がありますが、「自分の望む方向に、他人を動かす営み」という広い意味で政治を理解する場合、― いわゆる「あの人、政治的なひとだから」というような意味ですがー その手段には、3つあります。
1つは、「おどす」こと。すなわち、暴力による恫喝です。
確かにその威力にはものすごいものがありますが、相手を傷つける、ひどい場合には命を奪ってしまいかねません。また、目には目をということで、同じやり方で報復されても文句は言えません。よって、実際にはほとんど発動できない下策とされています。
2つめは、「つる」こと。すなわち、利益による誘導です。
金でつる、モノでつるということは、相手を傷つけない分、恫喝よりはマシですが、札びらで人のほっぺたをひっぱたくというのは、少々品がありません。さらに、金の切れ目が縁の切れ目ということも、よく言われるところです。また、どうしても財布の厚い人に有利になってしまうので、不公平です。
そして3つめ。最上策とされているのは、「その気にさせる」こと。つまり、コミュニケーションによる説得です。ここでいうコミュニケーションには、態度やしぐさ、あるいは白旗を掲げるといったものを含む広い意味ですが、とりわけ重要なのは「言葉によるコミュニケーション」だというのは、申し上げるまでもありません。
この3者、おそらく未来永劫、政治の手段として存在し続けるだろうとは思います。ただその一方で、我々の先人は、「武器を言葉で置き換える」という努力を、政治において地道に試み続けてきたという歴史を、我々は決して忘れるべきではないと思います。
この大会を通じてディベートに接した生徒の皆さん、特に今回の論題に取り組んだみなさんは、幸いです。対話を通じて理解を深める、そうして、お互いが納得のいくような公の決定を導き出す上で必須の力量を、皆さんは経験的に体得なさったからです。
試合では、学校における政治教育の限界に関する議論が聞かれました。私は、学校の政治教育の実態は詳しくは承知してはおりませんので、その有効性についての論評はここでは差し控えますが、今回、ディベート甲子園に参加された皆さんは、まちがいなく日本の政治のあり方、ひいては有権者・被有権者となることの意味を十分に学習なさったと確信しています。その意味で、今回のディベートは、誠に効果的な政治教育の機会だということは間違いないと思います。いかがでしょうか、皆さん?
前回総選挙における我が国の有権者は、1億327万人。有権者ひとりひとりが、そのようなコミュニケーション能力を研鑽していくことは、実に迂遠な話のように見えますが、これこそが、良き政治にいたる近道でもあり、王道なのだということを、まず申し上げておきたいと思います。
さらに政治の手段から、目的へと目を転じます。
目的を含めて考えれば、政治とは、他人を動かそうとするやりとりを通じて、公益を増進する、あるいは良き社会を実現するために行われる営みです。
この「良き社会」というのが一筋縄でいかない ・・・先験的・一義的には決まらない・・・ というのが、政治の悩ましいところでもあり、またそうであるがゆえにディベートによって、お互いの認識を磨きながらアプローチしていくことに意味が生ずるという、面白いところでもあります。
【しかしながら】
人間、命には限りがある中で、現在の社会に生きる我々は、いつかは次世代にバトンを渡さなければなりません。そのバトンタッチのときに、後から来る世代に、「ありがとう」と感謝されながら、バトンを渡せるのか、あるいは、「ばかやろう」と悪態をつかれながら、バトンを渡すことになるのか、
その差は決して少なくないと私は思います。
少しでもマシな社会を次世代に引き継ぐことは、今を生きる「大人」のつとめです。
そうであるならば、――ここは「大人とは?」をこれまで探求してこられた池田先生にぜひご指導を賜りたいところですーー、馬を乗りこなせる年頃になったかどうかが、元服する、つまり大人の武士として認められる目安になったという説がありますが、武士にとっての乗馬のスキルと同様に、「良き社会」を求めて行われる公の議論に参加するコミュニケーションの力量を高めていくということは、これから有権者になる「こども」のみならず、むしろ、いま現に有権者である「おとな」にこそ求められる必修科目なんだということになります。
「議論文化の定着」を定款第3条に掲げているところの全国教室ディベート連盟なる団体の使命は重い、とつくづく感じる所以です。(そうですよね、理事長!)
また、そのような社会的使命に向かって努力を重ねる連盟の活動、とりわけディベート甲子園に対して、理解・参加・支援を様々な形で提供してくださった皆さんに、連盟の代表者でもない私がここで御礼申し上げるのは少々筋違いだということは承知の上で、連盟の一会員として、心から御礼申し上げます。どうか、今後とも、日本における議論文化の定着に向けて、倍旧のお力添えの程、あわせてお願いいたします。
それでは、判定理由の説明に入ります。