嶽南亭主人 ディベート心得帳

ディベートとブラスバンドを双璧に、とにかく道楽のことばっかり・・・

【今日のBGM】 R・ニクソン「パシフィック・セレブレーション」

2006-04-27 01:45:48 | ブラスバンド
演奏は、オランダ王立軍楽隊バンド。

CDを手当たり次第で聞いていると、こういうことがおきる。

まず、Aを聞く。Aが終わって、BのCDケースを開け、BのCDを取り出して、「AのCDをBのケースに収める」。←これが良くない。

こうして、Bが終わってC、Cが終わってDと同じオペレーションを続けていくと、ケースと中身とが順送りにずれまくっていく。

一段落して、元にもどせばよいのだが、ずぼらをするとそのまんま。後で、相当に往生することになる。

日付的には昨日、以前のずぼらのあおりを食ってカラのケースだったこの曲も、ようやく半年振りにもとの鞘にもどった。めでたい、めでたい。

第1楽章「パレード」、第2楽章「祈り」、第3楽章「ページェント」と、R・ニクソンのテイストに満ちた、我が愛するサンフランシスコの周年記念を祝す、華やかな曲である。

この演奏も、軍楽隊らしきびきびとした演奏なのであるが、高岡商業の全国大会での演奏の方が、メリハリが利いている分だけ、印象的かも(ただコンクールの自由曲なので、第2楽章と第1楽章のみ。これはホントに残念)。

R・ニクソンには、もうひとつ「平和の祭」という名曲があって、こちらの原題は「Fiesta del Pacifico」。英語にすると「Pacific Festival」。なんだか紛らわしい。

◆(道州制論題) 道州制下の市町村についての考察その2

2006-04-27 01:17:36 | ディベート
この論題、「プランの採択後であっても、市町村の権限の範囲は変わらない。なぜなら、道州制は単に都道府県を道州におきかえるものだから」として理解しておられる向きもあろう。

確かに、そのように受け取るのも、ひとつの論題解釈である。が、それは、あくまで「道州制」の解釈における一つのバリエーションに過ぎぬ。このことを、これから論じてみたい。

論題の付文1をもう一度よく、見てみる。

>1. 現行の都道府県制を廃止して全国に7~11程度の道・州をおき、外交・防衛・通貨以外の権限を基本的にすべて国から道・州に移すものとする。

ここで言われているポイントは、

1)都道府県を廃止する
2)全国に道州を設置する
3)外交・防衛・通貨以外の権限を基本的にすべて国から道州に移す

の3点。

「都道府県が廃止される」のはまちがいない。1)が確かにそう言っている。とはいえ、1)と2)を併せて考えてみたとき、「プラン前の都道府県の事務事業は、すべて道州に引き継がれなければならない」などということはない。そのようにしなければならないとは、どこにも言われていない。

ということは、従前、都道府県が担当していた事務事業の権限は、プランによって

A.すべて道州に移管される(=この場合は、市町村の権限はプラン前後で変化はない)
B.すべて市町村に移管する
C.道州と市町村とに分けて、移管する
(「D.道州制を機に、都道府県のしていた仕事を廃止してしまう」というオプションも、論理的には無くはない)

というパターンが、「道州制の導入」の一環として、いずれもありうるということである(私見を申せば、実際の制度設計の見地から考えるに、C.が一番自然に見える)。

このうちどれが良いのかは、即断はできない。B.ないしはC.の解釈を採用したとして、その昔、都道府県の権限だったものを市町村に下ろした時、メリットが発生することもあろうし、デメリットも発生するだろう。

皆さん、ここが検討のしどころである。立論構築およびプラン設定の中で自由に検討して頂きたい。どのような権限配置が望ましいのかを検討する際、以前お示しした「道州制エクササイズ表」が、ここでも参考になるはずである。

【今日のBGM】 F・マクベス「神の恵みを受けて」

2006-04-25 00:46:35 | ブラスバンド
演奏は、1980年全国大会の市立川口高。例によって週末のBGM。

わが社にISさんという同僚がおられるのだが、この方の仕事ぶりたるや、その手堅さと手際の良さ、仲間の仕事への心配りと目配りの加減の絶妙さ、わけても「すいすい」と振舞う立ち居といったら、昭和の日本語でいう「職業婦人の鑑」といっても過言ではなく、いつも助けてもらっている身としては、ありがたい限りである。

その彼女がクラ吹きだということは、3年前に、ひょんなことから知った。

となれば例のクラ8は、ぜひ聞いていただきたくて、過日、MDに落として差し上げたのであった。

ただ、MDをお渡ししているそばから、「あ、しまった」と思った。

いま、彼女はObに新規参入しておられるところであった。さらには、旦那さまはラッパ吹きであった。となれば、Obとラッパの聞き所の多い曲をも、あわせてお渡しするべきではなかったか?

・・・というような思いにかられ、去る週末の床掃除のかたがた、聞き流しで追加的な選曲を練った。

そして結論として至ったのが、これ。

前半最終部のObのソロ、後半部の魅せ場たっぷりのラッパ。コンクールのカット版という物足りなさに目をつぶっても、OB+ラッパのお二人に楽しんで頂ける「かみめぐ」はこいつだろう。上昇機運の市立川口のはじけっぷりを堪能する意味でもこれ、もしくは語り草になっている翌年の「無言の変革・問い」がオススメである。

ただ、この他に

Jagerの「ダイヤモンド・バリエーション」と
真島俊夫の「『シェルブールの雨傘』によるジャズの歴史」と

を入れても、まだMDには余白がある。残りは思案中である。

◆(道州制論題) 道州制下の市町村についての考察その1

2006-04-24 23:57:42 | ディベート
道州制論題、肯定側の立論で、

「行政サービスが地域のニーズに、より的確に合致するようになる」

といった主張をよく聞く。

ちょっと待った。その場合の「地域」とは何か、「地域」におけるどの行政主体を想定しておられるのか:  道州なのか、基礎自治体(市町村)なのか、あるいはその両方なのか?

通常、道州制の下での「地方政府」は、道州政府と基礎自治体(市町村)政府になる。

このとき、プランの導入後、「地域」レベルでの行政サービスの質や効率が改善するということを主張したいのならば、その改善がプラン後の世界における「何の、どのような変化・変更」に由来するのかを説明してくれないと、聞いている方としては、「サービスの改善が、何のおかげによって現実化するのか」が、ようわからんのである。

同様に「サービスが住民に身近になる」という根拠は、よく言及されるところであるが、プラン前とプラン後では、何がどのように「身近になった」のかを言ってもらわなければ、ピンとこない。例えば、ある種の証明書を入手するために、「いままで県庁にいかなければ届出ができなかったものが、プランのおかげで市町村の役所に行けば済むようになる」という風に。

この意味で、

オンDで、「地域のニーズに差があるかどうか」が1つの争点になってましたが、これは市町村レベルか道州レベルか分けて考えないといけないと思うんで。

という指摘は、全く正しい。


◆5月7日の「道州制モデルディベート」

2006-04-19 02:37:45 | ディベート
その名も「ディベート実験室」という、競技ディベートの可能性を、実践を通じてとことんまで追求しようという尊敬すべき人々の会がある。

その彼らが、来る5月7日に、今年のディベート甲子園の高校論題「道州制導入の是非」を論題として、モデル・ディベートの会を開催するとのこと。場所は、ご存知代々木のオリセン。

その会に、解説者としてお声がけを頂いた。公園を行ったり来たり、もとい、光栄の至りである。解説とはいうものの、当の主人が、深い分析を楽しませてもらうつもりである。

そうそう、この論題について、現役諸君に申し上げたいことがある。

3年前の中学論題「住民投票」をご記憶であろうか。もしその時の地区or全国大会に出場し、今年、高校生として「道州制」論題で大会に臨もうという皆さんは、幸いである。なぜなら・・・

●道州制の理念的バックボーン、すなわち「地方自治の本旨」というものについて、皆さんはすでに十分に調べ上げ、かつ学んでおられるからである。

ぜひ、今回の立論・反駁でそれを存分に活用、表現していただきたいものである。


【今日のBGM】 J・イベール「交響組曲・寄港地」

2006-04-14 02:56:33 | ブラスバンド
演奏は、Legendaryの習志野高校、といきたいところだが、買いそびれているので、今日はデュトアのモントリオール響。

オケ版だかっらて訳でもないのだが、聞いているのは、ブラスでよくやる第二楽章・チュニスからネフタ、第三楽章・ヴァレンシアではなく、

第1楽章・ローマからパレルモ

である。

この曲で、イベールの奔放な色彩感覚を一番楽しめるのは、第三楽章よりもむしろこの楽章だと思うのだけれど、なぜか、ブラスバンドではこの楽章を演奏してくれない。

なんでだろう。楽譜がないのかな。


◆オンラインディベートでの練習会

2006-04-12 02:36:39 | ディベート
オンラインディベートでの、中学・高校論題による練習会のコメントを書いていたら、もうこんな時間になってしまったので、今日はこれだけ。

●BGMで聞いていたコダーイ「ハーリ・ヤーノシュ」

●道州制論題における市町村の権限

について書こうとおもっていたが、機会をあらためさせて頂くしかない。

さて、日曜日に買ってきたワインでも飲んで、寝ようか。

【今日のBGM】 ショスタコービッチ オラトリオ「森の歌」

2006-04-10 23:19:40 | ブラスバンド
演奏は、ロイヤル・フィルハーモニー、指揮はアシュケナージ。

今日、というより、昨日のBGM。家の床掃除をしながら、例によって大音響で、第4曲「ピオニールは木を植える」と、終曲「讃歌」を聞いた。

なぜか実家には、ムラヴィンスキー指揮のこのレコードがあって、いったい誰がそれを買ったのか、まるでわからずにいた。

長じて考えるに、兄がこんなものを買う訳がなく、母の趣味とはいえなく、祖父母でもないことは言うまでもないことから、残すは父しかあるまいとと考えが至り、「これ何?」とさりげなく父にふってみたところ、

「青春の思い出さ」

とか何とか言って、そそくさと階段を下りていった。図星とはこのことで、私が中学の部活動をブラスバンドに決めたとき、「なんだぁ、チンドン屋かぁ」などと茶化したご本尊が、およそ似合わない合唱の舞台に自ら乗っていたことなど、照れくさくて、「よう言えんかった」のだろうと、今になって思う。

先述の日経の記事をさらに引用する。

「一方、日本のショスタコービッチ受容は戦後本格化した。50年代には『ソ連の現代音楽』が積極的に紹介される一方、うたごえ運動や『ベートーベンの[第九]に続く定番』を探すアマチュア合唱団がオラトリオ『森の歌』にとびついた。

「だが旧ソ連崩壊や日本の左翼運動の衰退を受け、90年代以降は『森の歌』の人気が急落。『革命』の副題をもつ『交響曲第5番』も『権力迎合の作品』と呼ばれるなどショスタコービッチにとって『気の毒な場面』(外山雄三)が相次いだ」

確かに、終曲のエンディングの歌詞は、

 森は深く茂り
 ロシアに歌満ちる
 永遠にはえあれ、われらの祖国
 われら讃えよや、ああーーー

とあるように、「ソビエト、マンセー」と聞こえるものの、

「表向きは大衆的で平明な書式を持った森を讃える『自然讃歌』でありながら、スターリンと共産主義国家ソビエトを讃える政治色の濃い讃歌でもあり、さらに植林計画についてはだけは聡明だった(!)スターリンへの壮大なる皮肉にも聞こえるというこの作品の二重性」(吉松隆)がつとに指摘されるところでもあり、このあたりは考え始めると訳がわからなくなるのだが、

終曲の出だし、7拍子の旋律の透明感は実にえもいわれず、ことに大音響で聞くにふさわしい。

年末の「猫も杓子も第九」に食傷している私としては、カルミナブラーナもしくはこの曲を、年末の新たな定番として定着させることを試みる人々が増えることを、希望してやまないのである。

少なくとも、この曲で、年末の大掃除の生産性が飛躍的にアップすることは、経験的にまちがいない。

【今日のBGM】 D・カバレフスキー コラ=ブルニョンより序曲

2006-04-05 02:54:14 | ブラスバンド
演奏は、モスクワ交響楽団。指揮はV・イェルヴァコフ。

タワーレコードのポイントカードが満点になったので、それでCDを3枚買った。深井史郎、松平頼則、とこれ。

NAXOS廉価版なので、演奏は粗い。が、「道化師」は持っていなかったので、入手できて満足。パントマイム、エピローグは、まずまず良い。ギャロップも期待通りの速さである(この曲を運動会の徒競走のBGMにと最初に考え付いた人に、深甚なる敬意を表したい! これ以上の選曲は思いつきませんな)。

それにも増して速いのが、この「序曲」。秋山和慶の東京佼成WEの演奏も、それなりに速いが、それ以上。いかにもプレスト然としている。

この速度まで来ると、前のめりの歌い方とか、耳に障るフルートのアーティキュレーションも、ご愛嬌として見逃してあげよう。


【今日のBGM】 D・ショスタコービッチ 交響曲第5番

2006-04-04 01:37:43 | ブラスバンド
演奏は、NYフィルのバーンスタイン。79年の東京文化でのライブ録音。

でも、一番よく聞いたのは84年のムラヴィンスキーのレニングラード・フィルと、同じコンビによる73年(だったと思う)のもの。このバーンスタインもなかなかによろしく、多くの人に伝説の演奏として語り継がれているのだそうだ。が、ショスタコの5番は、ムラヴィンスキーに止めをさすように思う。

なんといっても、

むちゃくちゃに「厳格」

である。そこが良い。

去る4月1日の日経の文化面に、「作曲家ショスタコービッチ生誕100年: 人物像と作風に光」との良い記事が出ており、そっかぁと思いながら聴き直している次第。

備忘録として、その記事から抜き書きしておくことにする。


1.
「ポーランド人作曲家、クシトフ・マイヤーは、(略)、師から叩き込まれたのは『音楽とは人々の最高のコミュニケーション手段との理念』だった

2.
「ヤンソンスも『個人と社会体制の闘争の中で生まれた音楽の深み、信念(クレド)に迫るのがショスタコービッチ解釈の鍵』と強調する

3.
生誕百年を機に、純粋な音楽作品として聴き直す機運が国際的にも盛り上がる中、肝心の楽譜が旧ソ連時代のままで放置されていることは問題だ。例えば「第5番」の最終楽章終結部のテンポ設定では、「早く」「遅く」の二節が並存する。


・・・ただし、3.については、いまでは四分音符=188ではなく、四分音符=88がオリジナルのテンポだとの見解が定着しつつあると聞く。オリジナルの検証に基づく正確な校訂譜が待たれるところだが、演奏としては「遅いバージョン」の方が絶対によい。というか、この方が断然かっこいい。

実は、冒頭のバーンスタイン+NYフィル版のカップリング曲は、オーマンディのフィラ管によるショスタコのチェロ協奏曲で、チェリストは若き日のヨーヨー・マ。これも快演。おすすめです。