では、今回は、第1試合の肯定側のメリットについてのコメントをば。
第1試合の当事者たる愚留米氏がご自身による議論の振り返りを、例の「四日市高校 ディベート日記」で書き進めておられるので、あわせてご覧頂ければと思う。
肯定側立論の説き起こしは「補完性の原理」。
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肯定側の思想を端的に説明するものとして、これに言及したことはとても良い。
が、その背景にある価値規範にまで、説明が及んでいなかったのが、少々残念。
「背景にある価値規範」とは、たとえばこういうことだ(以下、
NAKO-Pさんのご質問を受けて、当日もお話したが、例によって「寸止め」をしてしまったので、今回はもう少し踏み込んで解説させて頂こう)
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郵政民営化が耳目を集めたとき、その推進者は
「民でできることは、民へ」
と絶叫していたことを、皆さんご記憶であろう。
このスローガンは「民の活動領域は大きいほど、政府の活動領域は小さいほど【良い】」という価値判断を含意している。
これは、「誰のお金」を「誰のために使う」かという視点から分析、説明できる。
1)「自分のお金」を「自分のために使う」・・・これは市場で通常に行われる商取引である。
自分のお金であるので、やましいところは一つもない。
また、自分のためにつかうので、お金との交換の結果、欲求を満たす何かが得られるので、その面でも満足度は保証される。
2)「自分のお金」を「他人のために使う」・・・これはチャリティ、寄付行為である。
お金が他人のために使われるということは、社会的には非常に麗しい行為である。
ただ、自分のお金と引き換えにもらえるのは、「ありがとう」という声だけ。物質的な満足を得ることができない。
3)「他人のお金」を「自分のために使う」・・・これはおごり、あるいは「経費による接待」の世界である。
銀座かどこかは知らないが、存分に飲み食いできるのだから、物質的な満足は高い。
ただ、他人の金を横流しするのであるから、やっぱり、後ろめたい。のみならず、自分の財布が傷まないのだから、どうしても気前良くなりがちである。
では、
4)「他人のお金」を「他人のために使う」はどうか?
他人のお金であるから、無駄遣いしたって、自分が困るわけではない。
他人のためにお金を使っており、物質的な見返り(=経済的な効用)が自分にくるわけではないので、しょせんは他人事。もっとがんばって見返りをゲットしようという意欲も湧かない。
→結果、どうしても「
真剣味に欠けるお金の使い方になる」
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かくして、市場原理を信奉する経済学者は言う。
「これこそが【税金(他人の金)による政府(他人のために使う組織)】の運営の本質である」と。
必然的に、「4)よりは1)の方が良い」→「民がやる方が、官がやるよりマシだ」との結論が下されることになる。
そして、この思想が、「郵政事業の官営はよくない。民間企業によって行われるのが良いのだ」という主張の通奏低音として機能していたのである。
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「補完性原理」の底流にも、それとは異なった、ある種の価値判断がある。そして、それが、
「地方でできることは、地方で」
という、もう一つのスローガンを下から支えているのである。
一般にそれは「地方自治の本旨」という言い方で表現されることが多い。が、それでは、行政関係者や研究者のような、「その筋の人」にしか、伝わらない。再三再四になるが、ディベーター諸君には、これを自分の言葉として理解、表現し、審査員に語りかけて頂きたいのである。
→その大きなヒントは、先般ご紹介した地方制度調査会の道州制答申のどこかに書いてある。乞うご研究。ついでに申せば、カトリック教会、ピオ十三世の回勅で「補完性原理」が明確に定義されたのは1931年。イタリアやドイツではすでに独裁政権が成立していたという切羽詰った時期にこの回勅が出たということは、決して偶然ではない。
あ。メリットに対するコメントをするつもりだったのに、肯定側スタンスへのコメントだけで、こんなに長くなってしまった。続きは、改めた方がよさそうだ。