嶽南亭主人 ディベート心得帳

ディベートとブラスバンドを双璧に、とにかく道楽のことばっかり・・・

今日のBGM: P.ヒンデミット「ウェーバーの主題による交響的変容」

2006-02-27 23:44:21 | ブラスバンド
今日は、これを聞きながら、地下鉄で家に帰った。演奏はサンフランシスコ響、ブロムシュテットの指揮。

第2楽章、トゥーランドット、スケルツォの中間部のシンコペーション、とりわけ金管群とティンパニとの掛け合いとか、

第3楽章、アンダンティーノの後半の主題再現部、主旋律のまわりを鳥のように飛び交うフルート(何が大変かって、実は息継ぎが大変なんだぁ、とフルート吹きの畏友はのたまったが)とか、

なかなかに聴きどころは多いが、ホルンとしてはやっぱり・・・

第4楽章、マーチですね。ウィンドアンサンブル用に編曲もされており、高校の頃、演奏がしたことがある。終わり10小節のあたりのB-D-Bの繰り返しにかなりの体力を要したっけ。それにしても、トロンボーンと弦のピチカートに導かれて入る金管のクライマックスの華麗なこと、エンディングのかっこいいこと。

あしたも仕事、がんばろーという気になってくる。

いまからちょうど70年前

2006-02-26 22:13:18 | 追憶
のこの日、マイ・ヒーローである高橋是清翁が凶弾、凶刃に倒れた。

享年、83歳。

軍部からの予算要求に抗い、蔵相として、36時間をかけて閣議で説得を図った3ヶ月後、青年将校のテロにより、赤坂表町の私邸にて落命。

結局、国家予算に占める軍事費は:

1936年度予算で、47.2%であったものが
1937年度予算は、69.0%にまで跳ね上がることになる。

農村の荒廃を憂いた青年将校の心情がわからぬ訳でもない。しかし:

【どんなに政治が腐っても、政治家の命まではとってはならぬ】

政治家も人の子であって、自らの命が危なくなると「びびる」のである。そして、自らの保身のために、とんでもない政策決定に迎合するようになるのである。

政治が軍部をとめられなければ、国は誠に危うい。

2.26事件は、たかだか70年前の出来事である。

「意見と事実」について考える(2)異論を見出す【力量】とそれを受け入れる【度量】

2006-02-22 02:44:57 | ディベート
「ディベートは【意見の自己修正機能】を阻害する。何故なら、試合中に意見の変更が許されないからである」

とする意見がある。

前回の続きとして、今日はこの意見を検討してみよう。

***

今回の説き起こしは、「五箇条の御誓文」といこう。

その一に曰く:

「一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」

社会的選択において「万機公論に決すべし」を実践しようとするならば、そのプロセスは、こうなる。

ステップ1) 我々各人が、暫定的に「意見」を持つ。

ステップ2) 自ら議論する。あるいは人の議論を聞く。(←ここにおいて、自らの意見を論理的に主張する、あるいは他人の意見を論理的に評価する能力が、我々に求められる)。

ステップ3) 議論が、一旦終わる。ディベートの試合が終わると言い換えても良い。

※大事なのはここからだ。

ステップ4) 3の中で、さまざまな角度から提出された事実、価値観、意見に接して認識を新たにし、自分の意見を「見直す」。場合によっては自らの意見を「変える」。

ステップ5) 次に議論が尽くされているかどうかをみる。まだ議論の余地があるなら、ステップ1にもどる。そろそろ、決定しないと不都合が出る(決定することの利益>先延ばしすることの利益)なら、ステップ6)に進む。

ステップ6) 社会的選択を決定する(←これは通常、多数決による)。

米国の大統領選挙における候補者ディベートや、英国議会の党首討論は、2)を制度化するものであり、当然、6)が大統領選挙や下院議会の総選挙ということになる。

そして、ステップ4は、健全な民主主義に欠かせない、市民による「選好・意見の自己修正」に他ならない。

なお、ステップ2)とステップ4)は、相互に拒否しあう関係にある訳ではない。ディベートを活用して行う「公の議論」と、良識ある市民による自己の意見の修正機能は、問題なく整合している。

***

ここで冒頭の問題提起、

「ディベートが【自己修正機能】を阻害する。何故なら、意見の変更が許されないから」

に立ち返ってみる。

●そもそもディベートは、あくまで「結論に至るプロセスとして、多面的な角度から【議論】を実践する方法の一つ」にすぎない。誰も、ディベートを「結論の決定方法そのもの(=勝った方を結論とする)」にせよなどとは言っていない。

そうであれば、個人の選好の再検討/自己修正は、ディベート(およびそれを通じた論点整理)が終わった後、社会的選択に臨むまでに間に、各人が存分に行えばよいだけの話である。

●また、ディベートにおいて、一方のサイドにコミットすることは、議論の進め方形式における「役割分担」に過ぎない。それを勝手にある種の「自己修正不可能な主義主張」と同一視されては困る。はっきり言って、それはただの誤解であり、その誤解を喧伝するのは迷惑である。

●さらに「自分の意見に反することを議論する/させるのは良くない」との意見も聞くが、そういう方にはこのように反問することにしよう。

→「その意見は、もう全く変更・留保の余地がないほどまでに、固まってしまっているのですか?」
→「異論に耳を傾ける心の余裕も、おありにならないのですか?」 
→「そもそも、異論の存在にお気づきですか?」


「盗人にも三分の理」は、必ずある。そうであるなら、盗人の立場に立ってみて(=肯定側から否定側へと議論の立場を取り替えて!)、その「三分の理」(=異論)を・・・

1)自ら考え付き、
2)その存在を認め、
3)さっきまであったと思っていた自分の「理」をも見直してみる


そういった「思考習慣」が身につくのが、ディベートの効用なのである。

どんな意見にも、異論は必ず存在する。そして、どんな意見に対しても、【異論を見出す力量】と【寛容の精神をもって、成立した異論を受け入れる度量】こそが、【自己修正能力】の構成要件である以上、

むしろディベートを体験し、鑑賞することが、【自己修正能力】の向上の早道なのだ

と言える。

健全な市民社会の形成、公論によって動く公共選択を実現していく上で、ディベートが果たす役割が大なる所以である。





今日のBGM: 深井史郎「パロディ的四楽章」 第4楽章・ルーセル(1936)

2006-02-21 23:26:41 | ブラスバンド
演奏は、秋田南高校(LegendryⅠ)。編曲は天野正道。

幸運なことに、私はこの演奏をライブで、普門館で聞いている。

冒頭のtuttiの部分、決してうるさくないが迫力のフォルテ、厚みのあるサウンドを聞いた瞬間に「こりゃ、金賞を持ってくだろうなぁ」と思った。

第1回新響(現在のN響)邦人作品コンクールの入選作であり、彼の出世作。初期の作品ゆえに、作曲技術的に荒削りさが否めないとの評はその通りであろう。でも、私は、この第4楽章「ルーセル」のみならず、第1楽章「ファリャ」、第2楽章「ストラビンスキー」、第3楽章「ラベル」、どれも大好き。いずれ劣らぬ秀逸ぞろいである。

「ストラビンスキー」など聴いていると、不思議と笑いがこみ上げてくるのをおさえきれなくなる。清水義範のパスティーシュ小説が、音楽に化けたという風情である。

しかも作曲年が、なんと1936年。

つまり昭和11年。2・26事件のあった年である。戦前の日本、まして世の雲行きが一層怪しくなってきているこの時期に、このように華麗で愉快な作品が生み出されたことは、驚嘆の一言。

***

天野氏の巧みな編曲によるこの演奏も、ブラスバンドの演奏としては名演といって差し支えない。しかし、この曲になくてはならぬ楽器が、編曲の中で別の楽器に置き換えられてしまっている。それは・・・

【ピアノ】である。

天野編曲では、マリンバに置き換えられている。コンクールの楽器制限か何かがあって止む無しだったのかもしれない。が、第4楽章でピアノなしは、少々寂しい。

この楽章、ピアノの演ずる役回りには、特別の重みがある。たとえて言えば、喜劇の狂言回し役。舞台上を縦横無尽、かつドタバタと動きまわるかのうようなピアノの音がないと、わさび抜きの刺身、辛子ぬきのおでん、唐辛子ぬきのかけそば、茗荷ぬきの冷やしそうめん、山椒ぬきのうなぎ、しょうがぬきの甘酒、ホースラディッシュぬきのローストビーフ、スジャータぬきのコーヒー、オリーブぬきのマティーニ、ブルーチーズソースぬきのバッファローウィング、香菜ぬきの清蒸鮮魚と同じくらい、いやそれ以上に寂しいのである。

という次第で、お聴きになりたい向きは、オケ版からどうぞ。例のNAXOSが、すでにCD化してくれている(しまった、まだ買ってないや・・・)。

***

普門館から帰って、この曲の「元ネタ」を探し当てようと、入手できるルーセル作品を手当たり次第に聴いた(そのおかげで、「バッカスとアリアーヌ」にめぐり合うことができたのは、もう一つの幸運ではある)。

しかし、どれもこれも、それっぽくない。腑に落ちないまま、3年が過ぎた。

謎が解けたのは、石田一志先生の「音楽」の授業の参考文献を、図書館で読んでいた時だ。この曲の作品解説によると、もともと5楽章の作品だったものが、4楽章の作品に改作・改題され、その時に、副題が、

「バルトーク」 から 「ルーセル」 へ

と改められたとのこと。

そう言われてみればよく分かる。第4楽章の冒頭の主題は、B・バルトークの舞踊組曲の冒頭、ファゴットによって演奏されるメロディーのバリーションである。

なにゆえこれが「ルーセル」なのか。泉下の深井氏に、ぜひ伺いたいところだ。

***

なお、秋田南高校の全国大会金賞は、この演奏が最後。以降も、全国大会常連校ではあるものの、金賞にいま一歩手が届かないでいる。古豪の復活が切に待たれる。


「意見と事実」について考える(1)証拠資料の引用と引用終了

2006-02-20 23:58:04 | ディベート
NAKO-Pさん、NAOさんの論考に触発されて、以下、私見(=個人的な「意見」)を述べる。

学生の頃、英語の競技ディベートで、叩き込まれたことの一つに、

証拠資料を引用する際には、「引用(QUOTE)」と「引用終了(UNQUOTE)」を、必ず言え

というものがあった。

初学者である私は、先輩に問うた。なぜ、そのようなことをするのか、と。

先達は、答えて曰く:

「意見と事実とを峻別するためである」と。

競技ディベートのスピーチは、「証拠資料の引用部分を除いて」、すべて発言者の意見の集合体である。

一方、証拠資料は、公刊された資料であり、誰でもアクセスが可能な資料の中で、ディベーター以外の誰かが、

「←(引用)、これこれ、このようなこと(引用終了)→」を、現に「言っている」

という【事実】を証明するツールとして機能する。

もちろん、引用された内容において、その当否や信憑性の有無は、大いに争われる。その内容が、真偽の判断において「偽」と判断されることだって、当然ある。

しかし、「引用」「引用終了」という語句を、資料引用の際に付すことによって、その部分は、

すくなくともディベーターの「意見」ではなく、第三者の発言であるという「事実」なのだ

ということが、はっきりと聞き手に伝わるのである。

ちなみに、学術の世界においては、引用は著者に無断で行ってよい。しかし、先達の著作からの引用であることを【明示せずに】内容を借用した場合、それは、剽窃と呼ばれる重罪になる。他者の「意見」を、あたかも自らの意見であるようにみせかけることは、人の意見を「盗んだ」とみなされるのである。

なお、競技ディベートにおいて、いちいち「引用」「引用終了」と発話しなくても、適当な「間」をおけば、どこからどこまでが引用かわかるので、わざわざそこまでしなくてもよい、とする考え方もある。

私は、この考えに、強硬に反対する。

まず、第一に、その「間」が、本当に引用開始・終了を示すものかどうかを判断するのは、その「間」の長さによっては微妙な判断になる。ということは、聞き手が誤解する余地が必ず残される。

引用文は通常「だ・である調」で表記されているから、「です・ます調」のスピーチとは明らかに違うというような反論もあろうが、証拠資料が「です・ます調」である場合も少なからずあるので、それでは万全を期せない。

第二に、悪用する輩が必ず出てくる。下手をすると「間」をほとんど置かずに、続けざまに自分のスピーチを重ねてくる。こうして、自分の「意見」が、さも「引用の一部であるかのように見せかけようとする」。残念ながら、そのような実例を、少なからず目撃した経験がある。「間」による識別では、意図的に聞き手の誤解を誘うのが容易に可能である以上、やはり「引用」「引用終了」と言うやり方の簡明さには及ばない。

話が少々脱線した。ディベートにおける主張とは本質的に「意見」であるという点に同意しつつ、私がほんとに言いたかったことについては、稿をあらためて検討する。

今日のBGM: 別宮貞雄「交響曲第1番」(1961)

2006-02-19 23:02:09 | ブラスバンド
お目当てだったオブローのクラのアンサンブルCDがなかったんで、流し歩いていたら、これがあった。

NAXOSの日本作曲家選輯を買うのは、大栗裕、伊福部昭についで3枚目になる。このシリーズ、なかなか選曲が憎い。事実、このCDも、World Premiere Recordingとなっている。

第4楽章を聴いていてふと思った。

「これ、なんとなくルーセルっぽいなぁ」

例えて言えば、「バッカスとアリアーヌ・第一組曲」の冒頭部分が、それに近い。が、ルーセル好きの私にとっては、問題なし。

欲を言えば、このエネルギッシュな楽章が、予想に反して、美しく、静かに終わっていくところ。これはこれで良いのだが、圧倒的な大音響で終わってくれていたらなぁ、とも思う。

NAXOSのこのシリーズの今後が待たれる。浦田健次郎とか取り上げてくれるなら、速攻で買いに行きますので、NAXOSさん、ぜひよろしく。

今日のBGM: S・プロコフィエフ「スキタイ組曲」

2006-02-18 15:16:12 | ブラスバンド
はじめて聞いた演奏は、確か北陸の方の高校だったように思うが、失念してしまった。その後は、亜細亜大学吹奏楽団(LegendaryⅡ)、大植えいじ指揮のミネソタ響と進み、今日聞いているのは、アバドのLSO。

コンクールの自由曲では第1楽章「アラーとヴェレスの崇拝」と第2楽章「チュジボーグと悪霊の踊り」のみが取り上げられることがほとんどだが、第4楽章「ロリーの栄光ある出発と日の出」も捨てがたい。

あのホルンのサウンドを目を閉じて聴いていると、山の頂きから幾条も差し込んでくる朝日の光線が脳裏に浮かぶ。

かつて、第2楽章・悪霊の踊りの冒頭部分が、

【いかの塩辛】

のTVコマーシャルのBGMに使われたことがあったと記憶する。

イカ釣り船が夜の海で漁をする様が、この曲に妙にマッチしていた。不思議なものだ。


重要性の重要性【完】:社会の眼から議論を考える 2006

2006-02-17 02:24:44 | ディベート
「重要性の重要性」についての一連の論考をしめくくるにあたり、そもそもこの問題を考えようと思いたって書き起こし、NADEに投稿した一文を、補筆してここに載せておこうと思う。長文になるが、ご容赦頂きたい。

***

“社会における正しい決定というのは、ひとりひとりが自らのうちに「社会の眼」をもつことによってのみなしうるということである。この社会を「わたしたち」がどうするかという観点で自らの意見を表明し、その観点からの選好を示し、その観点にもとづく意見統合の合理的ルールを社会に求めることである。”出典:「『きめ方』の論理」佐伯胖 東京大学出版会 1980年
 
 これからお話することは、第8回ディベート甲子園の決勝トーナメントでジャッジを行った際に、コメントとしてお話したことを再構成したものです。より深い分析とは何かを考えたいディベーターの皆さん、またこれからディベートをはじめる初心者の指導にあたる皆さんには、じっくり読んで頂けたら幸いです。

●「法的に認める」とは?

 今回の論題は「日本は積極的安楽死を法的に認めるべきである。是か非か」というものでした。地方予選から、全国予選、それに決勝トーナメントと、審判をさせて頂きましたが、この論題上の「法的に認める」という語句に対して、そのチームがどれだけ理解を深め、分析を行なえたかが、強い立論か、そうでないかの一つの分かれ目になったように思います。

 では「法的に認める」という語句は、何を含意していたのでしょうか。

 「法的に認める」とは、「我々が住む社会の法的なルールを変更する」ということに他なりません。ルール変更が「社会をより良くする」ことを目的として行なわれる以上、「法的に認める」ということを議論する際には、それによって「社会がよくなる」かどうかが、第一の関心事になるということです。

 要するに、今回の論題は、「患者にとって」でも、「医者にとって」でもなく、「社会にとって」積極的安楽死を実施することは望ましい(実施のための条件をどう設定するかは、もちろん議論の余地があります)ことなのか、はたまたそうではないのか。まさにそのことを「法的に認める」というフレーズが、ディベーター諸兄に問いかけていたのです。

●「個人にとっての望ましさ」≠「社会にとっての望ましさ」

 「社会がよくなる」ということが、「プランの採択後の日本社会が『よりよい社会』の姿に近づくこと」として、暫定的に定義できるとしましょう。

 ここで、「社会にとっての望ましさ」を議論しようとする際に注意して頂きたいのは、個人のレベルの望ましさと社会のそれとは、レベルが異なるということです。例をとって、具体的に考えてみましょう。

◆「ある人にとって良い行為は、他の人にとっても良い行為だ」・・・

 とは限らないのは、言うまでもありません。「果物を畑から盗む」という行為は、捕まりさえしなければタダで美味しいスイカを入手できるのですから、泥棒にとっては為すべき行為かもしれません。しかし、盗まれる農家にとっては、手塩にかけて育て、収穫を目前に控えていたのに、スイカが跡形もなく消えるのは、許し難い行為でしょう。

 このように、盗人にとって合理的な行為であっても、農家にとっては良くない行為です。

◆ 「ある行為が、社会のメンバーの誰にとっても望ましいのであれば、みんながその行為を行えば良い社会がもたらされる」・・・

 とも、限らないことがあるのが悩ましいところ。このことを端的に示す例が、「共有地の悲劇」です。

 あるところに、共有地の草を牧草にして、みんなが一人一頭ずつ牛を飼っていた村がありました。あるとき、利にさとい人が気付きました。

「私一人がもう一頭牛を飼っても、牧草はなくなるまい。だったら牛を二頭飼えば儲かるなぁ」

 そうしてこの人が牛を二頭飼い始めたところで、他の村人は考えます。

「あ、そうか。私もそうしよう」

 雪崩をうつように、他の村人すべても、自分の牛の数を増やし始めました。

 ところが牧草は無尽蔵ではありません。増えた牛の数に牧草の量がついていかず、あっという間に牧草は食い尽くされ、この村の牛は全部餓死してしまったのです。

 この事例は、政治学や公共政策学の教科書に出てくる古典的な事例です。その教訓は、「一個人として合理的な行動であっても、それが集積されると社会全体の損失につながるということがある」ということです。

→ちなみに、「共同体の成員が遵守すべき行動規範を定めて、このような問題の解決を図ること」が、すなわち【公共政策】です。

 たとえば・・

1)何らかの基準にもとづいて、共有地を分け合って、私有地にする(←暴力的にこれを行うなら、それを「戦争」と呼びます)。
2)皆でお金を出し合うこと(←これが「税金」なのです)を決めて、そのお金で肥料を買い、ちょっとやそっとではなくならないくらいに、牧草を増やす。
3)共有地の牧草が再生可能な水準にまで、一人当たりで飼うことのできる牛の数をルールとして決めて(←これが「法律」ですね)、それを取り締まる。

等々、解決策はいろいろとあります。

◆ 「ある取り引き行為が、その取り引き関係者にとって良いことであれば、社会にとっても望ましい」・・・

 と言えないことは、往々にしてあります。

 確かに、経済学の教えるところによれば、ある取り引きが成立し、その二人の間で何かの交換が成立するならば、取り引き前と比べて、取り引き後には両者は必ず「もっとハッピー(=効用が増大する)」になります。片方でも損する場合には、そもそも交換が成立しませんので。

 そして、社会の他の構成員に影響が及ばない限り、取り引き後の方が「社会全体のハッピーの程度(=社会的効用)」は増大するとされています。

 しかし問題は「他の構成員に対する影響がない」という点です。

 例えば、選挙における買収はどうでしょうか。麻薬の売買はどうでしょうか。不法投棄を平気で行なう悪徳ゴミ処理業者だと知っていて、その業者に産業廃棄物を引き取ってもらうという取り引きはどうでしょうか。いずれも取り引きの当事者は、そうすることでお互いにハッピーなることでしょう。しかしその陰で、社会の他の誰かが悲しんでいる、何かが傷ついているということは明白です。

 ことほど左様に、社会の一部の人にとっての望ましさをいくら訴えても、必ずしも社会全体としての望ましさを論証したことにはならないということなのです。

●問われていたのは「公共哲学」

 ひるがえって、安楽死論題の肯定側立論を振り返ってみましょう。「患者が望んでいるから」、あるいは「患者にとって自己決定は重要な権利だから」このメリットは重要だというような議論は、よく見られました。

 確かに、患者の期待に応えることは意味のあることでしょう。それが重要でない、とは決して思いません。しかし、上で論じてきたことから明らかなように、患者さえ良ければ、それが社会全体にとって良いことだとは限らないのです。「患者を含んだ、社会全体にとって重要」というところにまで説明が及ばなければ、重要性の論証としては説明不足だと言わざるをえないのです。

 つまり「メリット/デメリットの重要性」として、「日本社会から見たときの望ましさ」が、明示的に説明されていなければならなかったのです。

 換言すれば、そうすることが「社会にとって望ましい」が故に、制度を変えるべしと主張したいのなら、そのような制度変更を支える基本となる考え方(否定側から議論する場合、制度維持を支える考え方ということになります)、いわば「制度を支える公共哲学」が、立論の中で主張されるべきであったのです。

 論題が「日本は・・・」で始まる政策論題である限り、安楽死以外の論題であっても、また中学、高校を問わず、「社会にとっての価値」という視点からメリットやデメリットの議論を考えることは、今後とも重要になるでしょう。

●「よい社会」を作る上での必修科目としてのディベート

 さらに申し上げれば、「社会にとっての価値を考える」ことそのものは、教育ディベートの目的に深く関わることでもあります。

 何が私たち一人一人にとって「良いこと」が何なのかは、個々人の考えや感じ方に従って決まります。現代においては、個人の価値観は多様化していますから、それこそ人の数だけ幸福はあり得るでしょう。

 「個人にとっての価値」は、私たちがそれぞれ、心の中で決めれば良いことです。これに対して「社会にとっての価値」は、私たちの日々の行動を通じて自然と「決まる」こともありますが、多くの場合は、ある一定の手続きに従って「決める」ことによって定まります。

 社会を運営していく中で、「共有地の悲劇」のような問題、「安楽死合法化」のような問題、その他「構成員みんなに関わる問題」が次から次へと出てきます。それら問題に対応するための社会的ルールを決定するという作業は、「社会にとっての価値を決める」作業、「望ましい社会の姿を決める」作業に他なりません。

 何をもって「望ましい社会」と為すかは、択一式のペーパーテストのような「正解」を探す問題ではありません。すぐれて「選択」の問題です。すなわち、我々みんなで考えて、こうあって欲しいと思う社会の姿を選び取るということなのです。

 そのような社会的選択の質が上がるかどうかは、我々次第です。

 その成否は、我々ひとりひとりが、「社会の眼」から意見を持ち、議論と決定の手続きに対して、積極的に参画しようとする【意欲】と、建設的に議論に参加できる【力量】を持てるかどうかにかかっているのです。

 私たちが社会の眼にもとづく議論を深めることができれば、

「市民は、公共精神をより多く持ち、寛容になり、知識を深め、他者の利益に対しても注意深くなり、自己の利益に関してもより深く考えるようになる」(出典:田中善一郎  東京工業大学教授 「選挙研究」 木鐸社  1999年)

のです。そのような【市民】が成長していくかどうかが、良い社会を実現できるかどうかのカギなのです。

 ここまでお話すれば、賢明なる読者の皆さんは、私の申し上げたかったことがお分かりでしょう。ディベートを学び、実践するということは、社会的選択の質の向上に不可欠な作業である「議論」について、その作法、技術、マナーを体験学習するということに他なりません。ディベートは、私たちがより良い社会を実現していく上で、すべての人が習得すべき「必修科目」とも言っても、過言ではないのです。

●ディベートを通じて「よい社会」を考えよう

 ディベートの意義にもいろいろあります。代表的なところでは、論理的思考力、コミュニケーション力、具体的には傾聴力、メモを取る力、論題に関する知識、さらには舞台度胸にいたるまで、さまざまです。これらは、ディベート甲子園を経験した皆さんにとっては、釈迦に説法かもしれません。

 それと同時に、ディベートは「社会の眼から、実際に議論を理解、実践できる」ようになるためのトレーニングの機会を提供するものでもあるということを、あらためて認識して頂きたいのです。

 我々すべて、この社会の一員です。好むと好まざるとにかかわらず、私たち一人一人の行動が、他の人に影響を与え、逆に他の人から絶えず影響を受けるという関係の中に置かれているのです。

 あなたが社会の一員である限り、「あなたにとって、良い社会とはどのようなものか」を考え、意見を表明し、議論を通じて決めていくことが期待されます。そして、我々の未来の社会の姿は、容易に結論を得られないような難しい社会的問題であっても、真摯に議論する努力を重ねるか、あるいは怠慢するかで、いかようにも変わってくるのです。

 未来の社会の姿は、「議論」を通じた「私達みずからの選択」で決まります。このことを踏まえて、お尋ねします。

 あなたにとって、『よい社会』とは、どのような社会ですか?

 この問いへの皆さんなりの答は、今年のディベート甲子園の立論の中で聞かせて頂けることでしょう。

 では、全国大会でお待ちしています。

今日のBGM: アストル・ピアソラ 「フーガと神秘」

2006-02-16 03:18:02 | ブラスバンド
これを、クラリネット8重奏で聞いた(編曲は加藤雅之)。

試聴していて、腰が抜けるほど驚いた。クラのアンサンブルなのに・・・

バンドネオンのサウンドが聞こえてくるんですよー

アレンジャー・加藤氏の才気と執念、恐るべし。

これは即、買い。異論の余地なし。

今日のBGM 「吹奏楽のための民話」

2006-02-15 02:06:36 | ブラスバンド
作曲は、カウディル。演奏は、広島ウィンド。BCLシリーズの第5巻。ご存知、「ばんみん」である。

70年代から80年代にかけて中学・高校で吹奏楽を経験した人であれば、知らぬ人はあるまい。かく言う私も、公式の演奏会プログラムでは一回も経験していないものの、部活の練習では、何度となく、おんぼろ音楽室で合奏した。

吹き手にとっては、特に難しいところはほとんどない。しかし、日本人の琴線に触れる内省的なメロディー。実に「楽しくも、泣ける曲」で、人気は絶大。どうしてここまでCD音源がなかったのか、本当に不思議なくらい。

タワーレコード新宿店に、全国大会のDVDを買いに行ったら、クラシックのコーナーのBGMで、「これ」が流れてきた。タワーで、吹奏楽の曲が「いまかかっている曲」で取り上げられるなど、体験したことは記憶にない。

タワーの店員さん、あなたもブラスバンドのOB・OGでしょ?

発生過程を分析する際の視点: 解説その2

2006-02-08 03:08:32 | ディベート
更新の間隔があいてすみません。前回からの続きです。

***

【第4のチェック】 対象の妥当性のチェック

交通事故の影響として事故死亡者数に着目するのは、確かに意味がある。しかし、規制の効果を、事故による「死亡者の数だけ」で判断するのは、妥当なのだろうか?

たとえば、死亡事故者だけに着目してしまうと、

A) 1名が亡くなる交通事故が100件起きること
B) 100名がなくなる事故が1回発生すること

が、等価になってしまう。その他のダメージ、つまり事故による物損金額、後遺症や入院など事故傷害による損害は、事故死亡者数だけではみえてこない。

さらに、事故防止効果の因果関係を検証する観点で議論すれば、たとえ前年比で事故による死亡者数が少なくなったとしても、もし:

C)昨年の死亡事故の発生件数は1000件、事故死亡者数は324人
D) 今年の死亡事故の発生件数は1000件、事故死亡者数は284人

であったならば、事故死亡者数がC)からD)で60人少なくなっているのは、たとえばバス事故のような多数の犠牲者を生むような事故がD)ではたまたま少なかったからではないか、という合理的な疑問も出てくる(何しろ、死亡事故そのものの発生件数が減っていないのであるから)。この点も、事故死亡者数だけを見ていたのでは見過ごしてしまう。

このように、事故の影響、および政策介入によるその影響の削減効果を正しく認識するには、「影響」の「観測対象」がそれで良いか、またそれで十分かを点検しなければならない。これが、「対象の妥当性チェック」である。

【第5のチェック】 テストの効果性のチェック

学校で、来週テストを行うと「公表」しただけで、生徒達は行動を変える。すなわち、普段よりもより長い時間「勉強するようになる」。

これは、テストが実際に行われて悪い点数を取り、反省してもっと「勉強するようになる」のとは、異なる。

このような政策介入の「公表効果」と、それ以外の政策介入効果は、分けて考える必要があるというのが、「テストの効果性のチェック」の教訓である。

このチェックポイントに留意することによって、スピード規制の例では、厳しいスピード規制が導入されて・・・

イ) 「それを知って、処分を恐れるドライバーがスピードを落とすようになる」(←これが公表効果)
ロ) 「捕まって処分され、次回から反省してスピードを落とす」 および
ハ) 「捕まって免許停止となり、危険なドライバーがハイウエーから追放されて路上が安全になる」

のとでは、効果の発生のパターンが異なる(=発生過程が別!)ということに意識が向くようになる。

【第6のチェック】 多重介入のチェック

学校のテストの例を続けよう。

「近いうちにテストをやるぞ!」といわれて、あわてて生徒は勉強しはじめるとしても、その後一向にテストをやる気配がないとしたらどうだろう。先生にテストを行う意思がないと見透かした、生徒はまたもや勉強しなくなるだろう。

では、スピード規制における「テスト」に相当するものは何だろうか?

それは「取り締まりの実施」である。

「スピード規制を強化する」と言われても、実際の取り締まりが行われなければ、ドライバーは、捕まらないことを見越して、またもとのように安全運転の配慮を怠るようになるだろう。

つまり、規制強化の効果は、実は「罰則強化」と「取り締まり」の合わせ技だったということである。

とすると、ここで疑問が発生する。

「罰則強化」と同時に「取り締まりの強化(=ネズミ捕りの回数の増加)」が同時に行われていたとしたら、事故抑止という成果を、「罰則強化」に一方的に帰することはできない。罰則を【強化せずに】、取締りを強化した【だけ】でも、スピード規制強化と同等の成果を得られていたかもしれない。事実、春の交通安全週間の取り締まり強化で、交通違反の摘発数は増えるではないか!

ある政策介入行為の成果を、他の政策介入行為の成果と錯覚していないかどうかを検証するのが、「多重介入のチェック」の視点である。

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これらのチェック項目のほかには・・・

●その政策効果データが、データ変動における特異な箇所だけに着目していないかどうかを見る「不安定性のチェック」
●データ変動に回帰性があり、その回帰性による変化を政策効果と錯覚していないかどうかを見る「回帰性のチェック」
●政策効果が発現する時間の長さを考慮しているかを見る「寿命性のチェック」
●規制などの政策の対象がそのような政策に慣れてしまっているかを見る「介入慣れ効果のチェック」
●政策対象が特殊で、一般化して考えられないかどうかを見る「対象の特殊性のチェック」
●ある政策介入の成功が、その政策介入の対象の特異な反応に起因しているかを見る「ホーソン効果のチェック」

といったチェックポイントがあるが、ご関心の方は、さらに研究して頂ければと思う。

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前々回の問題への分析視点のご紹介はこれくらいにしよう。ディベートの議論構築に対するおさらいとして、解説編のまとめは、あらためてアップさせて頂くとしよう。


発生過程を分析する際の視点: 解説その1

2006-02-05 03:54:49 | ディベート
前回の問題について、解説編に入る。当初、1回で説明しきろうと思ったが、やたらと長くなると思われるので、分けてお話したい。

これからお話するのは、「擬似実験計画法」と呼ばれる公共政策分析におけるツールである。

自然科学では、論理的に構築された仮説を、実験を通じて検証していく。

しかし、社会科学では、その「実験」を行うことが、一般に困難である。しいて実験を強行すれば、非常に多くの人に迷惑がかかる。

戦争の社会的影響を検証するために、戦争を企画するなどということは、考えるだけでも馬鹿馬鹿しいほど、倫理的に正当化できない。受験制度が学習効果にどのような影響を与えるかを見るために、たびたび制度変更を行えば、指導にあたる先生方や学校で混乱が生じるだろうし、何より一度限りの人生の節目行事たる受験で「実験台」にされる生徒にとっては、たまったものではない。

薬の効果測定などでは、予め「何が起きても、文句は言いません」という一筆をとることで、この問題を回避できるが、社会実験を行おうとすると、その実験を望まない人をも巻き込んでしまうので、そうはいかないのである。

そこで、政策介入の有効性を検証する観点から、政策効果データを分析する際、留意すべき点として体系化されているチェックリストが、この「擬似実験計画法」である。ちなみにこの作法は、1965年、「実験として見た制度改革」というD.キャンベルの論文が基になっている。

擬似実験計画法は、

「ある政策の効果を誤って認識してしまうリスク」
「ある政策の一般的な適用可能性を誤解するリスク」

との2つを回避するのがその目的であるが、ここでは、メリット・デメリットの発生過程の分析の際、特に参考となるチェックポイントについて、説明していくことにしよう。

【第1のチェック】 歴史のチェック

よくみれば、知事が示したデータは、交通事故死亡者数が1955年は324人で、1956年は284人だったという事実しか証明していない。

1955年という年は、昨年から今年にかけてのような寒波が襲来したため、たまたま雪が多い年だったのかもしれないし、同様に、1956年という年は暖冬であまり路面が凍結しなかった年なのかもしれない。

また、1956年には自然とシートベルトの装着率が上がっていたのかもしれないし、死亡事故を起こしやすい車両の通行台数が少ない年だったのかもしれない。

これらのように「その年に発生した特別の事情(=歴史)」というのは、別途、調べて見ない限りわからない。政策効果の分析の際には、政策介入の「前後」の歴史を検証せよという教訓が、この「歴史のチェック」である。

【第2のチェック】 成熟性のチェック

紗於里という3歳になる女の子が、いま、いろはかるたで遊びながら、急速にひらがなを覚えている。

だからといって「いろはかるた」はひらがなを学習する際に他の方法より効果的だとはいえない。ひらがなを急速に覚えるようになったのは、単にその子が成長している、すなわち「成熟したため」であり、その方法は絵本を読み聞かせるということでもよかったのかもしれない。

ここでの教訓は、子供の成熟にあたるもの、つまり時間の経過で動くマクロのトレンドをよく見て、政策介入効果を評価すべきだという点である。

自動車事故の例で「成熟性のチェック」を試みれば、全国レベルでの交通事故死亡者数のトレンドみることが必要になる。仮に、全米の交通事故死亡者数が下降トレンドにあったのであれば、1955年から1956年にかけてのコネティカット州における交通事故死亡者数の減少は、単に全国トレンドの反映にすぎなかったかもしれない。

【第3のチェック】 測定尺度のチェック

プロのトラックドライバーのグループと、私のようなペーパードライバーのグループとでは、どちらが自動車事故死亡者数は多くなるだろうか。

当然、前者である。後者は、そもそも自動車を運転しないからである。

さらに言えば、一定期間における自動車の運転走行距離が長い人ほど、あるいは自動車に乗っている回数が多い人ほど、死亡事故に遭遇しやすい。

ということは、もし1955年の方が、自動車のべ走行台数(より正確には自動車1台あたりののべ走行距離)が1956年より多かったとしたら、事故数が多いのも当然である。

そうならば、政策の成果を測定しようとするとき、事故や死者の「数そのもの」ではなく、「自動車の単位走行距離もしくは自動車1台あたりの事故や死者の数」でみるべきだということになる。

このように、効果の指標、すなわち測定の尺度に問題がないかどうかをチェックするのが、「測定尺度のチェック」である。

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まだ続きます。


発生過程を分析する際の視点: 問題編

2006-02-02 01:18:24 | ディベート
ディベート甲子園フォーマットにおけるメリット・デメリットの構成要素は、プランからの「発生過程」と「重要性」であるというのは、皆さんご存知の通り。

前回までで、重要性についての論考はひとくぎりとして、今回は発生過程について考えてみよう。

メリットやデメリットの発生過程とは、端的に言って、プランの効果の連鎖反応である。連鎖反応の帰結として、ある社会現象が発生し、それが社会的にプラスであればメリットと呼び、逆にマイナスであればデメリットとなる。

ところで、私はいま、公共政策分析を生業としているのだが、分析作業のひとつに「政策評価」がある。これは「政策の効果を定性的・定量的に検証する」作業であり、実はプランの発生過程の分析そのものなのである。

換言しよう。ある社会的な問題を解決することを目的として政策が導入される。その政策介入によって:

・本当に問題が解決されたのか、効いたといえるデータはあるのか。
・解決に至るプロセスに論理上の見落としや落とし穴はないのか。
・その政策介入に不備や副作用はないか、
・介入措置に何らかの改善、あるいは代替策が考えられないか

等、さまざまな角度から政策の効果を分析、検証してみるという作業である。

ここで、練習問題といこう。薬師寺泰蔵・著、現代政治学叢書10「公共政策」(←公共政策学に関心をお持ちの方、必読文献ですよ!)から、「コネティカット・ターンパイクのスピード規制」事例を翻案して、練習問題としてお示ししよう。

【背景】

アメリカにコネティカットという州がある。そこには、コネティカット・ターンパイクという高速道路がある。この道路は、南のニューヨークと北のボストンを結ぶ幹線で、交通量も多く、当然、交通事故、とりわけ死亡事故が多発していた。

1955年、当時のリビコフ州知事は、交通事故の抑制策として、大変に評判の悪い交通規制条例をしいた。それは、一定速度以上を超えて走る車を容赦なく捕まえ、違反者に罰金、長期間の免許停止を課すものであった。

【プランとメリット】

「プラン:州内のスピード違反者に、めちゃくちゃ厳しい罰則・免許停止処分を課す」
「発生過程:プランによって、ドライバーは処分を恐れ、スピードを落とす→事故が減る→命が助かる」
「重要性:人の命は大切」
「証拠資料:この交通規制の妥当性を弁護するために、リビコフ知事は、証拠資料として統計データを示した。

 条例施行前(1955年)の交通事故死亡者数・・・324名
 条例施行後(1956年)の交通事故死亡者数・・・284名

 知事は説明する。

「この条例のおかげで、1年間で40名の人命が助かった。12.3%の死亡者数の削減である。この条例は絶対必要である」

【ディベーター諸兄への問題】

⇒知事の説明に何か欠陥はないだろうか? このスピード規制には死亡事故防止効果があったといえるのだろうか? すなわち「処分をおそれてドライバーがスピードを落としたから、事故が減った」と、本当に言えるのだろうか?


 解説編は次回。ではまた。