嶽南亭主人 ディベート心得帳

ディベートとブラスバンドを双璧に、とにかく道楽のことばっかり・・・

【ディベート甲子園2010】安楽死論題(8)インターネット選挙を「法的に認める」事例を考える(前編)

2010-07-31 02:35:59 | ディベート
主人、この問題については、直接の利害関係者であったこともあり、もう15年来、不満を抱えている事象であって、語るだけでも不愉快になるのであるが。

この問題、それを「法的に認める枠組み」がないばっかりに、極めて不合理な状況が出来している、あるいはそのような現状が放置されている典型例である。

加えて腹立たしいのは、去る6月初頭、与野党の合意ができて、先の参院選からインターネット選挙を解禁するための公職選挙法改正がなされるはずだったところ、終盤国会のゴタゴタで、法改正が吹っ飛んでしまったこと。

次の法改正のチャンスは、来年春の統一地方選をにらむ時期になるであろうと観測するが、国政選挙が迫ってこないと国会議員の方々が本気にならないかもしれない。

まったくいつになったら、インターネット選挙が解禁されるんだろう。これだけWebが普及した世の中になったというのに。海外の友人に我が国の現状を説明する折、「なんで、そんな馬鹿げたことを日本はやっているのか」と言われても、返す言葉が見当たらない。全く恥ずかしいったらありゃしない。

前回の事例と同様に、「現状分析」→「プラン」という形式で事例紹介を行いたいが、選挙マニア以外にはご関心が薄いと思われる用語が飛び交うので、まず、現状分析のための用語解説に特化して、お話を進めたいと思う。

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●ここでいう「インターネット選挙」とは、インターネットのHPやブログを選挙運動で活用すること、を指す。投票そのものを電子回線や機器を通じて行う「電子投票」のことではない。

●「選挙運動」とは、公職選挙法(18歳選挙権・被選挙権論題を経験した方は、よく御存じであろう)の用語であるが、その意味するところは、「特定の選挙」において、「特定の候補者の当選もしくは落選を意図して」、「有権者に対して働きかけて投票を勧める行為」を指す。街頭演説会でビラを配るのも、あの喧しい街頭宣伝カーで連呼するのも、電話で投票を依頼するのも、すべて選挙運動になる。

●また選挙運動は、告示から投票日の前日までの選挙運動期間以外に行うことが固く禁じられている。告示前の選挙運動的な行為は「事前運動」として処罰の対象となる。

●選挙運動には、ポスター(投票所の前のベニヤ板に貼ってあるアレがその典型)やビラがつきものだが、これらは、選挙運動で使用することが許されている「文書図画」である。

●公職選挙法上の「文書図画」は、非常に広い意味が総務省の解釈によって与えられており、「文字や形による視覚的な表象の一切」が含まれる。例えば、砂浜に候補者の名前を書いたものですら、公選法上は、りっぱな「文書図画」である。候補者がかけるタスキも「文書図画」だと言われると妙な気もするが、法文上、そう解釈されるので仕方ない。

●選挙運動として使用が許されている「文書図画」は、厳しく制限されている。上記のビラ、ポスター、選挙ハガキ、選挙公報、新聞広告、選挙事務所や個人演説会のカンバン、それにタスキ等、許可されているもの以外は【一切ダメ】である。

●さらに許された文書図画であっても、掲示・頒布の方法にまで、制限が加えられている。選挙ビラなどは、街頭演説や個人演説会で渡すことはできても、ヘリコプターで空から歩行者天国に集う歩行者にばらまくなどは、言語道断である。

●その上、法定ビラ等には、厳密な数量管理がなされる。例えば、参院選の比例代表区の候補者に許された法定ビラは15万枚である。どうやってその数を取り締まるのかと言うと、その方法は極めて原始的であって、選挙管理委員会が交付したシール(証紙と呼ばれる)をビラに1枚1枚貼ることによって、初めて選挙運動で使えるようになる。そのシールが貼付されていないビラは、「違反文書」となる。

●この伝でいくと、インターネットのホームページやブログ、電子メール、ツイッター等で、「選挙運動」を行ったとすると、もれなく「違反文書による選挙運動」となる。いわゆる「文書違反」という選挙違反である。

●なお、「文書図画」は、あくまで視覚的な表象であるので、インターネットのホームページから流れる音声は、制限の対象とはならない。たとえば真っ黒な画面から「今度の参院選では、凸山凹男をよろしくお願いします」という音声が流れていたとしてもOK。ただし、その画面に誘導するリンクが表示されている画面は違反文書とされる。

●ここから、話はややこしくなるが、選挙期間中であっても、選挙運動にわたらない政治活動は、一定の制限を受けるものの、許されている。なので、「選挙運動にわたらない純粋な政治活動として、インターネットのホームページを利用することは自由にできます」(出典:東京都選挙管理委員会HP)。

●その一方で、「純粋な政治活動として使用するホームページであっても、候補者が選挙運動期間中に開設したり、又は書き換えをすることは、新たな文書図画の頒布とみなされ、選挙運動の禁止を免れる行為として公職選挙法に違反することがあります」(出典:同上)。

●となると、「どこまでが『政治活動』、どこからが『選挙運動』なのか」という境界線が問題になる。

●ところが! これが全くの【グレーゾーン】なのである。総務省や選挙管理委員会は、あくまで公職選挙法の条文の標準的な解釈を示してくれるだけであって、個別事案の違法性については、所管外ということで、一向に回答してくれない。「ホームページでこれをしても、だいじょうぶですか?」と問い合わせても、「お答えしかねます。が、止めといた方がいいんじゃないですか」などと言うばかりである。

●結果として、選挙期間中、ホームページで政治的なメッセージを発するとなると、

【文書違反になるかどうかは、警察につかまってからしか、分からない】

という誠にトンデモナイ状況が、我が国の実状なのである。

●形式犯とはいえ、文書違反も立派な選挙違反である。候補者各陣営は、摘発を恐れる。そのため、公示日にいたるまで、散々政見を訴えてきたというのに、告示日を境に一切ホームページやブログを更新しなくなる。ほとんどそういう慣行になっている。

●某プロバイダーなどは、選挙期間中、政治家ブログが更新されたり、コメントが付されないよう、頼みもしないのにブロックをかけたりしてくれる。げに、余計なおせっかいである。のみならず、政治活動をインターネット上で行う候補者の自由を制約するものであると言わねばならない。

●逆に有権者の側から見ても、選挙期間中には、選挙や候補者に対する関心や情報ニーズが最も高まるというのにもかかわらず、肝心の候補者のHPは、案山子よろしく、まるで動かない。がっかりである。

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導入解説は、ここまで。この続きは、あらためて。

【ディベート甲子園2010】安楽死論題(7) 戸籍上の性別変更を「法的に認める」事例を考える

2010-07-22 22:50:52 | ディベート
○○を「法的に認める」ということについて、参考になる事例をお示ししたいと思う。

【事例研究】戸籍上の性別変更をめぐる制度変更

●制度改正前の”現状”=内因性および重要性

・性同一性障害とは、心と体の性別が一致せず、そのため身体の性別への違和感を訴える症状に対する診断名である。

・この概念が日本で社会的に認知されたのは、それほど昔のことではなく、日本精神神経学会が性同一性障害を医学的に治療対象にすることを決めたのは、1997年のこと。

・当事者には、精神的苦痛に加えて、外見と公的証明書上の性別記載が食い違うことから、差別や選挙の際の本人確認時のトラブル等、社会生活上の不都合が生じた。

・当事者の団体は、まず裁判所に訴えて、戸籍法に基づく戸籍訂正許可を申し立てた。しかし、条文の拡大解釈による措置は認められず、申し立てはいずれも却下。裁判所は「立法により解決されるべきである」とした。

●制度改正の内容=プラン

・この問題に対応する法改正は、2003年、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」によってなされた。同特例法は、2004年7月16日に施行された。初の適用事例は、2004年7月28日の那覇家庭裁判所による20代の戸籍上男性を女性に変更する審判であった、とのことである。

・同特例法では、専門的な知識を有する医師2名以上によって「性同一性障害」の診断を受けている者が、次のような要件を満たすとき、家庭裁判所の審判により性別変更が認められる、とされた。

 1.20歳以上であること
 2.現に婚姻をしていないこと
 3. 現に未成年の子がいないこと
 4.性別適合手術を受けていること(※この点、法文上は、2つの別の要件として記載される)。

・ちなみに、「現に未成年の子供がいないこと」という要件については、「そのような子供が死ねば、許可するということを意味しており、冷酷にすぎる」として、要件緩和を求める声が出てきている。

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さて、お立ち会いのディベーター諸君。

この事例を、積極的安楽死になぞらえたら、どんなことが議論し得るだろうか? 

後は、お任せする。

【ディベート甲子園2010】 安楽死論題(6) 「現状分析」なる議論への不満

2010-07-08 23:21:35 | ディベート
今シーズン、これまでのところ、高校論題の試合を1試合もジャッジしていない。おそらく全国大会前にジャッジをするのは、7月中旬の仙台だけになるかもしれない。

という訳で、以下の見解は、主人がこれまでオンラインや、各種大会で見聞した限りでの印象だと思ってもらいたい。

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見てきた中で、肯定側の立論は、「現状分析」という議論で始まるものが多い。

そのこと自体は、良い。

ただ、その中で、

「耐えがたい精神的・肉体的苦痛に、患者は苦しんでいる」

という議論【だけ】が展開されている例が多く見られるのが気にかかる。

そのような「現状で(解決すべき)深刻な問題が存在している」という論点は、「重要性」の議論である。これはこれで必要なのだが、「現状分析」でジャッジが聞きたい議論は、「内因性」の方なのだ、

ということに、ディベーター諸君は気付いて欲しい。

「内因性」の議論とは、「【現状を変えないと】問題が解決しない/メリットが得られない」ということの論証である。わかりやすく言えば、「現状を否定すべき理由」と言ってもよかろう。

この点を論ずることなしに、いきなりプランとその発生過程、すなわち安楽死の法制化の効果を論じられると、単純に言えば、

「現状の耐えがたい痛みをとるために → 患者の命を奪おう」

という風に聞こえてしまう。なんとなく、

スズメ一羽を撃ち落とすのに、巡航ミサイルを使いましょう

と説かれているような心持ちがする。バランスを欠くこと甚だしく、やりすぎの感が否めない。

そりゃ、痛みはなくなるでしょうよ。でも、普通に考えれば、痛みに苦しむ人がいるとしても、

では、問題は痛みなんですよね。なら、安楽死に及ばずとも、痛みがとれれば問題は解消されるのですよね

という風に、たいていの人は発想するとは思わんのかね、肯定側立論担当のディベーター諸君?




まどろっこしいので、端的に言う。

「現状では積極的安楽死を許容する法制度が【存在しない】」


という点を、立論中で明確化することだ。さすれば、これを起点として、安楽死を行うための法制度がないことによる様々な不都合が説明しやすくなるであろう。

同時に、その議論の裏返しとして、制度化することそのものの「意義」を、メリットとして議論できるようにもなるだろう(ちなみに制度を持つことの意義を骨太に論証できれば、極論として安楽死が1件も執行されない場合であっても発生するメリットを、肯定側は手にすることができるのだよ)。

肯定側を議論する際に、再考されたい。

あわせて、以下の論考を、是非参照されたい。
とある法務博士の論題解説(後編)