嶽南亭主人 ディベート心得帳

ディベートとブラスバンドを双璧に、とにかく道楽のことばっかり・・・

重要性の重要性③:ぼくのおとうさん

2006-01-25 23:56:49 | ディベート
ピタゴラスイッチは、お気に入りの番組である。

年末と年始に、ピタゴラスイッチ・デラックスとして総集編が複数回、放映されたが、正月3日のデラックスの1の再放送が、スポーツ番組の延長で放映されなくなったのが、いまだに腹立たしい。

そのデラックス1で再放送された(らしい)のが、名曲「ぼくのおとうさん」である。

歌詞の大要をご紹介すれば、

♪おとうさん おとうさん 
 ぼくのおとうさん

 会社へ行くと 「会社員」
 仕事をするとき 「課長さん」
 食堂入ると 「お客さん」
 歯医者に行くと 「患者さん」
 歩いていると 「通行人」
 学校行けば 「生徒さん」
 電車に乗ると 「通勤客」

 おとうさん おとうさん 
 うちに帰ると 「ぼくのおとうさん」♪

「うたのコーナー」で、数ある歌のうちでも秀逸だと思う。

最近、朝、ピタゴラスイッチ・ミニとしてこま切れで再放送されているが、オンエアが待ち遠しい。

***

その行為の帰結が私にとって望ましいなら、「私はその行為を行うべきである」といえる。(念のため申し添えるが、その行為を私が実際に行うかどうかの意思は、かならずしも問題ではない。私は、おそらく禁煙「すべきである」が、私はいまのところ絶対に禁煙を「しない」ことにしている、という例からも、そのことは明らかであろう)。

同様に、日本にとって、利害得失の比較検討の結果、ある政策行為の帰結が「望ましい」のであれば、日本はそれをすべきであろうし、「望ましくない」のであれば、それをすべきではなかろう。

メリット・デメリットの重要性を議論するとは、論題上の行為主体にとって、その行為の帰結が「【いかに】望ましいのか」あるいは「【いかに】望ましくないのか」を論ずるということに他ならない。

ディベート甲子園の論題は、おおむね「日本は、」で始まる。

よって、メリットやデメリットを議論する際には、「どうしてそれが【日本】にとって望ましいか/望ましくないか」を意識して議論を組み立てて頂きたい・・・・

ということを、先の第3回東北ディベート研修交流会で、皆さんにお伝えし、ちょうどそのあたりで時間切れとなった。

今日は、その続きを論じてみよう。

***

「日本にとって・・・」という際、その「日本」とは、いったい【誰】のことか。プラン提示のための論題解釈として「日本」を「日本政府」と定義できるとしても、日本政府が奉仕すべき「我々の社会」は【どんな人によって構成されているのか】。

社会にはさまざまな人がいる。そしてさまざまな立場がある。

・「個人」や「家族」がいる。「営利法人」もいるし、「非営利法人」もいる。
・「日本人」がいる。「外国人」もいる。
・「男性」がいる。「女性」もいる。
・「高齢者」がいる。「未成年者」もいる。
・「金持ち」がいる。「貧乏な人」もいる。
・「資産家」がいる。「無産者」もいる。
・「生産者」がいる。「消費者」もいる。
・「勤労者」がいる。「失業者」もいる。
・「現に生きている人」がいる。「将来、社会の一員になる予定の人」もいる。

等々。

さらに、ここで冒頭にご紹介した「ぼくのおとうさん」を想起すれば、問題はさらに複雑になる。

ぼくのおとうさんは、「会社員」で、「課長さん」で、お店の「お客さん」で、「患者さん」で、「生徒さん」で、「通勤客」で、「お父さん」でもある。

同様に考えれば、「金持ち」で「現在も働いている」「高齢者」もおられれば、「失業中」だが「20代」の「ちょっとした資産家」もおられることになる。

プランのメリットやデメリットは、社会の構成員に均等に関係することもあるし、不均等にふりかかることもある(むしろその方が多いはずだ)。そうなったとき、いったい【誰の、どの】利害を優先することが、日本にとって、よりマシな選択になるのか。

ディベーターの皆さんに分析し、メリット・デメリットの重要性の議論を構築する際に検討して頂きたいのは、まさにこの点である。

換言すれば、ディベートの準備の具体的作業として、

とりあえず作成したメリットやデメリットについて、「プランによって、我々の行動や利害関係、社会構造はどう変化するのか。それらの変化で望ましい社会の姿に近づいたのか、あるいは望ましい姿から遠ざかったのか」、それを【理由・根拠をつけて論理的に説明できるかどうか】、自ら振り返って点検して頂きたいということ

なのである。

その先に「説得力のある重要性」の議論が見えてくるはずである。


重要性の重要性②:膳所高校に学ぶ

2006-01-20 19:06:56 | ディベート
1.

昨シーズンのディベート甲子園の高校論題、「日本は炭素税を導入すべきである。是か非か」

全国大会で最も印象に残っている試合はどれかと問われたら、準決勝、肯定側・膳所高校 対 否定側・会津高校 戦だと答えよう。

会津高校は、2人のみのチームながら、その直前の準々決勝、強豪、東海高校を、ジャッジをうならせる議論で破るなど、前評判は極めて高かった。準決勝でも、下馬評に違わぬ力量を見せてくれた。

しかし、その会津高校を、3-2で下し、肯定側・膳所高校が勝った。

さらに決勝戦でも膳所高校は、肯定側を引き、これまた九州の強豪、星雲高校に勝って見事に優勝をとげた。

2.

その強さは、どこにあったのか。当事者の弁を引きながら、じっくり考えてみよう。

(出典: 膳所高校弁論班日記 2005.08.11)

>試合を見て下さった方々もわかっていたとおもいますが、この立論、プロセスとかなにもありません。
>なぜ価格インセンティブでCO2がとつぜん減るようになるのか。
>クリーン開発メカニズムを海外で実施できる立証が無いのにそんな上手く行くのか。
>疑問点が目白押しだったわけですね。
>まず、国内と国外両方を2400字以内で証明するのは実力からして無茶でした。
>立証があまりにお粗末だったため、【重要性を押しまくる】と言う戦法になりました。

主人思うに、これがディベートにおける「戦略=ストラテジー」というものである。

もちろん、論題や議論の組み方によって、戦略のあり方は変わってくる。

あくまでも、この戦法は戦略における一つのパターンに過ぎぬ。それもかなりシンプルな部類に入る。

しかし、膳所高校の肯定側戦略は、見事に機能した。

発生過程は、環境省のシミュレーションに乗っかることにより、「CO2は、プラン採択後の方が減る→京都合意における日本のCO2削減目標の達成確率が上がる」という点を、少なくとも守りきる。

そうなれば、「日本の削減目標の達成に、いかなる意味があるのか」を論じきれば、メリットは成立する。

そして、その意味が「日本にとって、いかに【重要】であることなのか」を徹底的に強めておけば、多少のデメリットが生じても、そのまま相手を土俵の外に押し出せる。

3.

では、「日本の削減目標を達成する意味」とは何か?

→目標達成そのものが、重要。

これでは、聞き手の心に響かない。

「削減目標の達成は手段に過ぎない」とのたまった高名な弁護士の方もおられるように、どうしてそれが重要なのか、説明不足も甚だしい。

→目標達成によって、地球温暖化を【防止できる】から、重要。

ほんとに防止できるのか? 日本だけの努力では、おそらく「否」であろう。

>「日本が炭素税導入したぐらいで、温暖化は止まらないでしょ?確実じゃないでしょ?解決性が見えないでしょ?」

という素朴な疑問に付きまとわれ続けることになる。

これでは弱い。

→目標達成によって、地球温暖化を【遅らせることができる】から、重要。

「防止できる」よりは誠実な説明だが、大同小異。

「どれくらい遅らせることになるのか」、「その遅れのありがたみとは何か」等などまたしても、素朴ながらも、ごもっともな疑問をくらって、返答に窮する。

これでも、まだ弱い。

→目標未達は、京都会議の議長国としての沽券にかかわるから、重要。

個人的には、国際社会に対して恥をかかないで済むと意味で、メリットとして認められるとは思う。しかし、アメリカのように臆面もなく京都合意の枠組みから離脱しておいて、平然としている国もあることを考えると、議長国のプライドって、実はそれほどたいしたことではないという受け止め方も当然出てくるだろう。

そう思われる可能性があるなら、重要性としては、まだ強くない。

この点、膳所高校は、一風変わった、実のところ「全くの王道の議論」を重要性として掲げてきた。

4. 
彼らは、このように重要性を結んだ。それもかなり良質の証拠資料を添えて。

「日本が京都合意の京都合意の排出削減目標を遵守することで、ポスト京都体制の構築作業の中で、途上国を含む諸外国にバーゲニングパワーを発揮できるようになり、その後の環境外交における交渉でリーダーシップを発揮できるようになる」

つまりは「オレ、ちゃんと約束は守ったし。先進国が先に汗をかけっていう京都会議の議論は、覚えてるよね。だから、ちゃんと汗かいたよ。こんどは、君の番だよー。みんながCO2削減に向けてがんばってるんだから、何にもしないってのはずるいよー」と、国際交渉で他国を誘導し、プレッシャーをかけるカードを日本が手に入れるということだ。

上記3.の議論とは、異質の論理構成になっていることが、理解していただけるであろう。ポイントは、「地球温暖化が防止できる」ではなく、「地球温暖化防止に向けた国際社会の取組みの中で、日本の地位・役割が向上する」と言っているところ。すなわち、環境政策ではなく、「外交政策」として、重要性にアプローチしてきているのである。

国際社会で他国を動かそうとするなら、その力の源泉は、単純に分ければ3つしかない。武力、経済力、それに言語・文化を含む、J・ナイが言うところの「ソフト・パワー」である。

「国際交渉においてリーダーシップが発揮できるようになる」とは、「日本のソフトパワー」の向上、そのものである。

こう言われたら、ジャッジも恐れ入る。何せ、外交は政府の本体業務である。こうすれば日本外交に明るい未来が開けると言われたら、それに抵抗する理由を考えるのはなかなかに難しい。

この重要性の議論が、証拠資料つきで出てきたから、破壊力は抜群になった。そして【重要性を押しまくる】ことで、膳所高校は、ジャッジの納得と優勝とを勝ち取っていった。

いかがであろうか。かように重要性は重要なのである。


重要性の重要性①:ダメな重要性

2006-01-19 19:45:15 | ディベート
先の第3回東北ディベート交流研修会。

3日目の午前中の練習試合、準決勝と決勝の審判をブッチすることになってしまったお詫びとして、試合開始の前に30分ほどお話を頂いて、掲題の話をさせていただくことにした。

以下、その時の内容を編集、再構成しながら、論じてみよう。

*****

「重要性の重要性」を強く意識したのは、2003年の第8回ディベート甲子園、高校の部の試合を見たときだった。

論題は、

「日本は積極的安楽死を法的に認めるべきである。是か非か」
*積極的安楽死とは、延命治療の中止以外の手段により、意図的に患者の死期を早める行為とする。

古典的な論題である。

ところが、全国大会に勝ち上がってきた学校ですら、大方の肯定側の説明は、

「患者が救われるから」
「患者がそれを望んでるから」 云々

で終わってしまっていた。

・・・そうじゃないでしょうに。

立論を聞くたびに、いつもそう感じていた。


要は、

1.このディベートで問われるべきなのは、積極的安楽死に対して「社会的なOKを出していいのか」どうか。

2.しかし「患者のOK」は、必ずしも、「社会のOK」を意味しない。

3.それなのに、どうして、そこで説明止めちゃうのかなー。まったく解せない・・・

ということであった。


●まず2.について。

「当事者がよければ、その行為は社会的に是認・奨励される」とは、限らない。

当事者はハッピーだが、社会としては看過できないことなど、いくらでもある。

 イ、選挙の買収はどうだ。私は、お金をもらえてハッピー。あなたは、一票もらえてハッピー。

 ロ、人身売買はどうだ。私は、お金をもらえてハッピー。あなたは、奴隷をゲットできてハッピー。 

 ハ、売春はどうだ。私は、お金をもらえてハッピー。あなたは気持ちよくなってハッピー。

 ニ、公共の場所への産業廃棄物の投棄依頼はどうだ。私は、ゴミがなくなってハッピー。あなたは金を稼げてハッピー。

・・・じゃ、全部、解禁しましょうか?

ついでに、お尋ねしておこう。

 ホ、私は死にたい。あなたに手を貸して欲しい。私は、死ねてハッピー。あなたは、人助けをしたのでハッピー。

それ、「手の込んだ自殺幇助=積極的安楽死」を、解禁するに足る十分な理由になってますか?

つまり、

→ 部分にとって望ましくても、全体にとっても望ましいとは限らない。
→ この論題では、安楽死による「患者のハッピー」を論じただけでは、「社会的にOK」を論じたことにはなっていない。


●次に1.について

「社会的にOK」になるかどうかは、その社会の状況や先行して存在する公共哲学との整合性・相互関係に依存する。

A. 古代スパルタでは、「人から物を盗む」ことが、社会的に奨励されていた。物を盗まれたら、間抜けを懲らしめる意味で、窃盗の「被害者」の方が処罰された。

B. 日本でも、江戸時代までは、「仇討ち」であれば人を殺しても罪にはならなかった。むしろ、それは社会的に奨励されていた。

もちろん、窃盗も仇討ち殺人も、現代の日本社会では「法的に禁止」、すなわち社会的に抑止されている。

そして、そこには何ゆえ社会としてそれを禁止行為にしたのか、ちゃんとした【説明・理由】が存在する。

であれば、

→ 「社会的にOKである」と論じるには、肯定側の考える「望ましき社会像=公共哲学」を、できれば明示的な説明、少なくとも暗示する議論が必要になる。
→ この論題では、「(社会の一部たる)患者のハッピー」を「積極的安楽死」によって、実現することがどうして「社会的に望ましい」のかについて、もう一段階、説明が要る。

ということである。


●3.について

重要性が説明不足では、勝つのは難しい。

勝てたとしても、それはたまたま相手が弱かっただけだ。

そもそも、

「なぜ論題を採択すべきなのか」

が納得できなければ、ジャッジは肯定側に投票できないのである。

****

次回は、昨年の炭素税論題を例にとって、「重要性の論証のやり方」をさらに考えてみたいと思う。

今日のBGM 「ルイ・ブージョアーの賛歌による変奏曲」

2006-01-17 23:33:31 | ブラスバンド
作曲者は、C.スミス。演奏は、九州代表、福岡・精華女子高校。


正月2日は、高校のブラバンの仲間と昼から酒盛りをするのが恒例になっている。そこでのBGMとして、今年は、初めてDVDを持って行った。昨年の全国大会の金賞団体、3枚セットである。

淀工の「大阪俗謡」(これを見る+聴くだけでも、損はない。お値打ち品である)も、捨てがたいのだが、全演奏の圧巻としては、これを推したい。

亡くなって久しいC.スミス。彼は、ホルンいじめの曲を書くことで名高い。

なんでも大学時代のライバルが空軍バンドの主席ホルン奏者で、彼に対して

「吹けるものなら吹いてみよ」

という想いをこめて書いたから、そうなったのだそうな。

「フェスティバル・バリエーションズ」などはその端的な一例。

・陰険に難しいメロディー。
・やたらと出てくるハイトーン。
・極めつけはハイF。プロにも稀な音域。アマチュアに吹きおおせる訳がない。

冒頭のホルンのユニゾンの表情の指示が、

「上手に、器用に(吹け)」

となっているとは、何をかいわんや・・・・


さて、「ルイ・ブージョアー」も、ホルンにかなりの無理をさせるところは変わらないが、そのノリがバンド全体に及ぶ、相当の難曲となっている。出だしの部分の細かいパッセージを、よりによってチューバにまでやらせる手は、普通は「ない」。

その困難なパッセージを軽快に吹き上げてしまうのだから、精華女子恐るべし。

さらに、このバンドの真価が発揮されるのは、冒頭のテーマに引き続くコラールの部分。

→実に美しい「オルガンサウンド」が聞こえてくる。

中低音がしっかりと、かつ伸びやかに響くので、高音がいやみなく、さわやかに乗ってくる。

↑この部分を聞いただけでも、「こりゃ、金賞だ」と納得した。

例によって大音響で聴いていると、気分がが明るく、はればれとしてくる。これは、本当に良い買い物をしたものだ。

カードチェックという基本動作

2006-01-16 18:49:52 | ディベート
過去2回、行きたいと思えど日程の都合のつかなかった「東北地区の交流研修会」。3度目の今回、ようやく時宜を得て、顔を出させて頂いた。

とはいえ、翌日も、はずせない日程が入り、2日目の夕食から、3日めの朝食後までしか滞在できなったのが心残り。そこはあせらず次の機会を待つとしよう。

会場は、東北学院中学校・高校。夕暮れの小鶴新田駅から、風にあおられながら、徒歩10分で到着。ちょうどお帰りになるところの会津のふじ先生とおめにかかってご挨拶。ふじ先生には、いつか一献差し上げたいと思うが、それもまた次の機会となる。

夕食後、かなめさんの「カードチェック講座」を聴講する。

率直に、感嘆した。すばらしい講座、就中、教材である。

****

カードチェックといえば、ディベートの基本動作である。特に、反駁の作業はこれなくしては考えられぬ。

主張の裏づけとして、証拠資料が出される。

しかし、往々にして、それらの主張は、カード(その昔、証拠資料は、京大式カードに一件ごとにタイプアップしていたことの名残から、証拠資料のことを、別名「カード」と呼ぶ)の含意から逸脱している部分がある。

平たく言えば、

「証拠資料は、そんなことは言ってないぞー」
「証拠資料からは、そうは言えないぞー」

といった現象が生じてくる。

これに対抗し、ジャッジに対し、立証の不十分性を気づかせるために、

・試合中、スピーチでそのような証拠資料の「限界」を適切に示し、
・相手の主張の当てはまる領域、あるいは証拠能力の範囲を制約するという作業

を行う必要が出てくる。

これが、カードチェックである。

そうすることによって、相手にプレッシャーをかけつつ、味方にとって有利な体制を築くという意味では、サッカーで言えばパス、野球で言えばバントに比すべき基本動作であろう。

→で、あれば、練習なくしては、上達しない。
→ウラを返せば、適切な練習で、基本的な素養はしっかり身につく。

良い教材が望まれる所以である。

ここで、カードチェック講座で配布されたレジュメを見てみる。

恐れ入るばかりに念の入った構成である。

●まず、カードチェックの概念と重要性・留意点を説明し、
●数多くの実例による演習問題で着眼点を解説。その上で
●立論→第1反駁→第2反駁にわたるカードチェックに係る議論の流れをフローで示すことで、テキストに沿ってスピーチ練習を行うことまで可能にしている。
●加えて、演習問題での証拠資料の出典を「デタラメ化」することで、証拠資料の安易な流用をできなくさせているという芸の細かさ!

今回の交流研修会でも、参加者がスピーチ練習を行うところを見させて頂いたが、皆、一通りの動作をこなすところまで力をつけていた。

その夜、かなめさんに、この教材が成立した経緯を伺うに、だいぶ以前、東海地区の中学生(!)を対象として、カードチェックの訓練素材として開発されたとのこと。

東海地区の「足腰の強さ」の秘密の一端を、垣間見たような気がした。

また、

これで東北地区がまた一段強くなって出てくるのはまちがいない、と思った。

引かずに、押すべし

2006-01-11 01:48:43 | ディベート
北海道のねこさんの、ディベートの普及と指導とにかけておられる並々ならぬ情熱と労力には、日ごろより感服するばかりであるが、このほど、氏のブログよりトラバを頂戴した。光栄の至りである。(ありがとうございます)

さて、そのトラバを頂いた投稿、「攻撃は最大の防御です」に、実に心配な一節があった。

>相手の議論を潰すのではなく、避ける。

「避ける」ですと?

驚きのあまり、「えっ?」と「げっ!」の中間のような呻き声が漏れた。

>どんどん自分たちの議論を自分たちで削り、小さくしてしまうのです。
>ありがちです。
>なぜこんな議論出すの?と思うことが多々あります。
>聞くと、相手に反論をさせないためだとか。
>これじゃあダメです。全然ダメです。

御意。激しく同意申し上げる。

***

ディベートでの議論のやり取りを「相撲」に見立ててみよう。

自らの議論を立てる・・・これが押し。
相手がそれに反論してくる・・・これが相手からの押し返し。

こうしたとき、どうするか。

当然、「さらに押し返す」のが常道である。

相手の押しを「避ける」のは、「引き技」である。

「引き」は、決して「押し」の代替にはならない。むしろ、基本動作である「押し」が身についてこそ、たまさかに戦術として見せる「引き」が効果的に決まるのであって、押しの力を身につける前に引きに頼るくせをつければ、それは自ら進んで土俵を割る術を身につけているに等しい。

第一、はたきこみだの、突き落としだのが横行する相撲など、見ていて面白くない。

ディベートも同様である。基本は「押し」である。

相手に押されたら、押し返そう。避けることを考える前に!


Loversの年越しチャットに顔を出す

2006-01-10 20:39:30 | ディベート
一昨年のチャットは、完全に忘れており、正月2日になってようやく思い出すというような有様だったので、昨年の暮れは、待ち構えていた。

さて大晦日。午後8時台に一度入室したものの、賀状の宛名書きなどの些事に手を取られ、10分ほどでやむなく退室。

ふと気づいてみれば、年もあらたまり、午前3時。

家人に訝しがられながら、キーボードへと向かう。良かった、まだ数人が会話を楽しんでおられた。

滑りこみで参入して、ひとしきり、意見を交換すれば、もう4時。そろそろ落ちようかとおもい、別れの挨拶をアップしたちょうどその時のことだった。

「内輪だけだとなかなか想定する議論の幅が広がらない」

といった趣旨のお悩みが、はるか沖縄の方から寄せられたので、見捨てておけずにあわてて復帰し、

○自分たちがつくった議論を、自分で、もしくは仲間と一緒に、「つぶしてみる」練習が足りないのではないかと思われる点
○それに伴い、練習試合も、思い付きの実践の場ではなく、「議論がどれだけ生き残ってくるか/威力を発揮するかを、【テストする場】として位置づけてはどうかという点

を、走り書きで示唆した。とりあえずのご納得を得られたのを確認して、あらためて退室した。


⇒ ここから先は、後日談になる。


またしても、四日市高校ディベート部の「ディベート日記」

愚留米氏が、私の言いたかったことを、丁寧に解説してくれているではないか(■2006年01月05日(木)  練習試合の有効な活用法■)。まったくもって、有り難いことである。半ば手前味噌にはなるが、ご一読をお勧めしたい。

追加的な氏のご指摘である、

「練習試合についてもう一つやるべきことを紹介しておきます。それは、徹底的に感想戦を行うということです。練習試合というと一日で何試合もこなすのがよいというように思われがちですが、一番大事なのはその密度です。試合を終えた後に、そこからどういった教訓を引き出すか。そこに注目すべきなのです。」(出所:前掲)

も、まさにその通り。異存なしである。

と同時に、

この「ディベート日記」が、もしブログであったなら、御礼かたがた、即座にここからトラックバックを打てたものを、との想いをますます強くした。

あたりまえのことについてのテキスト

2006-01-01 19:03:55 | ディベート
【謹賀新年】

新年の挨拶も早々に、本題に入る。

四日市高校の情勢を綴る「ディベート日記」は、欠かさずにチェックしているが、今般掲載された、愚留米氏による下記の論考が、断然良い。続きを心待ちにしたい。

■2005年12月30日(金)  証拠資料について(2:各論1…要件)■
■2005年12月29日(木)  証拠資料について(1:総論)■

特に、「セオリー」と称される、ディベートのルールや議論の構成要件についての解説は、初学者にはピンとこないことが多いであろう。

●主張に論拠を伴わせることが求められているときに、何ゆえに「証拠資料」があることが望ましいのか。

●何ゆえ、「引用」「引用終了」と明示することが求められるのか。

●また、証拠資料の改ざん・捏造が、それほどまでに厳に戒められるのか。

経験的には「あたりまえ」のことであっても、その文脈を共有できていなければ、ピンと来ないどころか、ちんぷんかんぷんかもしれぬ。

ディベート学習のごく初期には、

「そういう風になっているのだ」

と教え込むのも方便かもしれないが、その原初的な点=あたりまえのことを、納得することができなければ、遠からず学習上の壁に突き当たること必定である。

⇒「あたりまえのこと」を、ちゃんと解説してくれるテキストが欲しい!

そこに、この論考のありがたさがある。

唯一、惜しいのは、文体に「ご愛嬌」を発揮している点。語尾を「ですます調」に変えるだけでも、読者に与える印象が相当に違うはずである。