ピタゴラスイッチは、お気に入りの番組である。
年末と年始に、ピタゴラスイッチ・デラックスとして総集編が複数回、放映されたが、正月3日のデラックスの1の再放送が、スポーツ番組の延長で放映されなくなったのが、いまだに腹立たしい。
そのデラックス1で再放送された(らしい)のが、名曲「ぼくのおとうさん」である。
歌詞の大要をご紹介すれば、
♪おとうさん おとうさん
ぼくのおとうさん
会社へ行くと 「会社員」
仕事をするとき 「課長さん」
食堂入ると 「お客さん」
歯医者に行くと 「患者さん」
歩いていると 「通行人」
学校行けば 「生徒さん」
電車に乗ると 「通勤客」
おとうさん おとうさん
うちに帰ると 「ぼくのおとうさん」♪
「うたのコーナー」で、数ある歌のうちでも秀逸だと思う。
最近、朝、ピタゴラスイッチ・ミニとしてこま切れで再放送されているが、オンエアが待ち遠しい。
***
その行為の帰結が私にとって望ましいなら、「私はその行為を行うべきである」といえる。(念のため申し添えるが、その行為を私が実際に行うかどうかの意思は、かならずしも問題ではない。私は、おそらく禁煙「すべきである」が、私はいまのところ絶対に禁煙を「しない」ことにしている、という例からも、そのことは明らかであろう)。
同様に、日本にとって、利害得失の比較検討の結果、ある政策行為の帰結が「望ましい」のであれば、日本はそれをすべきであろうし、「望ましくない」のであれば、それをすべきではなかろう。
メリット・デメリットの重要性を議論するとは、論題上の行為主体にとって、その行為の帰結が「【いかに】望ましいのか」あるいは「【いかに】望ましくないのか」を論ずるということに他ならない。
ディベート甲子園の論題は、おおむね「日本は、」で始まる。
よって、メリットやデメリットを議論する際には、「どうしてそれが【日本】にとって望ましいか/望ましくないか」を意識して議論を組み立てて頂きたい・・・・
ということを、先の第3回東北ディベート研修交流会で、皆さんにお伝えし、ちょうどそのあたりで時間切れとなった。
今日は、その続きを論じてみよう。
***
「日本にとって・・・」という際、その「日本」とは、いったい【誰】のことか。プラン提示のための論題解釈として「日本」を「日本政府」と定義できるとしても、日本政府が奉仕すべき「我々の社会」は【どんな人によって構成されているのか】。
社会にはさまざまな人がいる。そしてさまざまな立場がある。
・「個人」や「家族」がいる。「営利法人」もいるし、「非営利法人」もいる。
・「日本人」がいる。「外国人」もいる。
・「男性」がいる。「女性」もいる。
・「高齢者」がいる。「未成年者」もいる。
・「金持ち」がいる。「貧乏な人」もいる。
・「資産家」がいる。「無産者」もいる。
・「生産者」がいる。「消費者」もいる。
・「勤労者」がいる。「失業者」もいる。
・「現に生きている人」がいる。「将来、社会の一員になる予定の人」もいる。
等々。
さらに、ここで冒頭にご紹介した「ぼくのおとうさん」を想起すれば、問題はさらに複雑になる。
ぼくのおとうさんは、「会社員」で、「課長さん」で、お店の「お客さん」で、「患者さん」で、「生徒さん」で、「通勤客」で、「お父さん」でもある。
同様に考えれば、「金持ち」で「現在も働いている」「高齢者」もおられれば、「失業中」だが「20代」の「ちょっとした資産家」もおられることになる。
プランのメリットやデメリットは、社会の構成員に均等に関係することもあるし、不均等にふりかかることもある(むしろその方が多いはずだ)。そうなったとき、いったい【誰の、どの】利害を優先することが、日本にとって、よりマシな選択になるのか。
↑
ディベーターの皆さんに分析し、メリット・デメリットの重要性の議論を構築する際に検討して頂きたいのは、まさにこの点である。
換言すれば、ディベートの準備の具体的作業として、
とりあえず作成したメリットやデメリットについて、「プランによって、我々の行動や利害関係、社会構造はどう変化するのか。それらの変化で望ましい社会の姿に近づいたのか、あるいは望ましい姿から遠ざかったのか」、それを【理由・根拠をつけて論理的に説明できるかどうか】、自ら振り返って点検して頂きたいということ、
なのである。
その先に「説得力のある重要性」の議論が見えてくるはずである。
年末と年始に、ピタゴラスイッチ・デラックスとして総集編が複数回、放映されたが、正月3日のデラックスの1の再放送が、スポーツ番組の延長で放映されなくなったのが、いまだに腹立たしい。
そのデラックス1で再放送された(らしい)のが、名曲「ぼくのおとうさん」である。
歌詞の大要をご紹介すれば、
♪おとうさん おとうさん
ぼくのおとうさん
会社へ行くと 「会社員」
仕事をするとき 「課長さん」
食堂入ると 「お客さん」
歯医者に行くと 「患者さん」
歩いていると 「通行人」
学校行けば 「生徒さん」
電車に乗ると 「通勤客」
おとうさん おとうさん
うちに帰ると 「ぼくのおとうさん」♪
「うたのコーナー」で、数ある歌のうちでも秀逸だと思う。
最近、朝、ピタゴラスイッチ・ミニとしてこま切れで再放送されているが、オンエアが待ち遠しい。
***
その行為の帰結が私にとって望ましいなら、「私はその行為を行うべきである」といえる。(念のため申し添えるが、その行為を私が実際に行うかどうかの意思は、かならずしも問題ではない。私は、おそらく禁煙「すべきである」が、私はいまのところ絶対に禁煙を「しない」ことにしている、という例からも、そのことは明らかであろう)。
同様に、日本にとって、利害得失の比較検討の結果、ある政策行為の帰結が「望ましい」のであれば、日本はそれをすべきであろうし、「望ましくない」のであれば、それをすべきではなかろう。
メリット・デメリットの重要性を議論するとは、論題上の行為主体にとって、その行為の帰結が「【いかに】望ましいのか」あるいは「【いかに】望ましくないのか」を論ずるということに他ならない。
ディベート甲子園の論題は、おおむね「日本は、」で始まる。
よって、メリットやデメリットを議論する際には、「どうしてそれが【日本】にとって望ましいか/望ましくないか」を意識して議論を組み立てて頂きたい・・・・
ということを、先の第3回東北ディベート研修交流会で、皆さんにお伝えし、ちょうどそのあたりで時間切れとなった。
今日は、その続きを論じてみよう。
***
「日本にとって・・・」という際、その「日本」とは、いったい【誰】のことか。プラン提示のための論題解釈として「日本」を「日本政府」と定義できるとしても、日本政府が奉仕すべき「我々の社会」は【どんな人によって構成されているのか】。
社会にはさまざまな人がいる。そしてさまざまな立場がある。
・「個人」や「家族」がいる。「営利法人」もいるし、「非営利法人」もいる。
・「日本人」がいる。「外国人」もいる。
・「男性」がいる。「女性」もいる。
・「高齢者」がいる。「未成年者」もいる。
・「金持ち」がいる。「貧乏な人」もいる。
・「資産家」がいる。「無産者」もいる。
・「生産者」がいる。「消費者」もいる。
・「勤労者」がいる。「失業者」もいる。
・「現に生きている人」がいる。「将来、社会の一員になる予定の人」もいる。
等々。
さらに、ここで冒頭にご紹介した「ぼくのおとうさん」を想起すれば、問題はさらに複雑になる。
ぼくのおとうさんは、「会社員」で、「課長さん」で、お店の「お客さん」で、「患者さん」で、「生徒さん」で、「通勤客」で、「お父さん」でもある。
同様に考えれば、「金持ち」で「現在も働いている」「高齢者」もおられれば、「失業中」だが「20代」の「ちょっとした資産家」もおられることになる。
プランのメリットやデメリットは、社会の構成員に均等に関係することもあるし、不均等にふりかかることもある(むしろその方が多いはずだ)。そうなったとき、いったい【誰の、どの】利害を優先することが、日本にとって、よりマシな選択になるのか。
↑
ディベーターの皆さんに分析し、メリット・デメリットの重要性の議論を構築する際に検討して頂きたいのは、まさにこの点である。
換言すれば、ディベートの準備の具体的作業として、
とりあえず作成したメリットやデメリットについて、「プランによって、我々の行動や利害関係、社会構造はどう変化するのか。それらの変化で望ましい社会の姿に近づいたのか、あるいは望ましい姿から遠ざかったのか」、それを【理由・根拠をつけて論理的に説明できるかどうか】、自ら振り返って点検して頂きたいということ、
なのである。
その先に「説得力のある重要性」の議論が見えてくるはずである。