嶽南亭主人 ディベート心得帳

ディベートとブラスバンドを双璧に、とにかく道楽のことばっかり・・・

講評・判定2010(高校決勝)

2010-08-09 22:58:36 | ディベート
今年のディベート甲子園、記念すべき15回目という区切りを迎えました。

まず、この15年間、毎年大会を続けるにあたって払われた、関係するすべての皆さんのご尽力に、深甚なる感謝と敬意を表したいと思います。

そして、先人から引き継いで、何かを続けるということの重さに想いを致しつつ、恒例となりました、例のセリフを申し上げたいと思います。

ディベートって、「社会の眼」で考えることだと思います。

この「社会の眼」という言葉は、認知科学の泰斗、佐伯胖先生の著書にある言葉です。講評の導入として、関係する部分を、引用させて頂きたいと思います。

引用)社会における正しい決定というのは、ひとりひとりが自らのうちに「社会の眼」をもつことによってのみなしうるということである。この社会を「わたしたち」がどうするかという観点で自らの意見を表明し、その観点からの選好を示し、その観点にもとづく意見統合の合理的ルールを社会に求めることである。引用終了)

ちなみに出典は、佐伯胖・著「『きめ方』の論理」 東京大学出版会 1980年 という本です。

今年の高校論題は、積極的安楽死論題でした。ここで、論題を良く見て頂きたいのですが、「積極的安楽死が良いか、悪いか」が問われている訳ではありません。問われているのは、「積極的安楽死を、法的に認めるべきか、否か」です。つまり私たちの社会において積極的安楽死を法的な制度にして良いかどうかが、論点なのです。

合法的に人の命を奪う社会的制度としては、皆さん、死刑制度を思いつくことでしょう。しかし、それ以外にも、殺人を免罪する法制度が、ほかならぬこの日本で運用されていたのです。それは何か。【かたき討ち】です。

時代は、江戸時代にさかのぼります。当時、かたき討つべし、という建前があった。その一方で、人の命が野放図に奪われるのも困る。そこで、江戸幕府は一つの結論を出しました。どうしたか。敵討を「許可制」にしたのです。

基本的に、敵討が許されるのは、武士であることが条件です。運用上の例外もあったのですが、原則として町人には認められません。また、敵討は目上に対するものに限られました。つまり「親の敵討」は良くても、「子の敵討」は認められません。他にも、敵討の敵討を認めてしまうと終わりのない敵討の連鎖になりかねませんので、これは禁止されました。

かたき討ちの応援、いわゆる助太刀ですが、これも事前に登録しておく必要がありました。その場での助太刀に加わるというのは違法だったのです。

また討たれる側にも、正当防衛の権利を保証してあげました。これが返り討ちです。

許可の条件のみならず、実施の手続きも念が入っています。敵討を希望するものは、まず主君に許可を願い出なければなりません。そこでお許しが出れば、台帳に記載されます。そしてその写しを受け取って、はじめて許可が下りたことになります。文書主義なのです。加えて、領地の外にかたきを探しに出る必要がある場合には、さらに幕府の許可も必要になります。

仮に、首尾よく敵を討ったときにも、そのままにしてはイケマセン。終了報告が求められたのです。必要に応じて役人が調査を行いまして、もし正規の敵討と認められなければ、殺人として処罰されたのです。

まぁ、よくもここまで、細かい手続きや約束事を作ったものだと思ってしまいます。ちなみにこの制度は、今から137年前、明治6年、1873年に、明治政府が禁止令を発することで廃止されます。137年前というのは、そんなに昔のことではありません。私の曽祖父、つまり、ひいお爺さんが生まれた頃まで、かたき討ちがまだ制度として運用されていたのです。

ここで、法的な制度をつくるということの意味合いを、今一度考えてみましょう。

江戸の昔ならば、法制度を作るということは、お上に任せておけばよい話でした。しかし、いま私たちが生きている社会は、国民主権の社会です。

ということは、人の命を奪うことを法的に認める制度を持つかどうかは、公の議論を通じた私たちの社会的な選択によってしか、決められないということです。

平成19年2月の東京高裁判決の言い方を借りれば、この問題は、「より広い視野の下で、国民的な合意の形成を図るべき事柄であり、その成果を法律ないしこれに代わり得るガイドラインに結実させるべきなのである」ということであり、「この問題は、国を挙げて議論・検討すべきものであって、司法が抜本的な解決を図るような問題ではないのである」ということなのです。

私たちの取組む教室ディベートは、公の議論の文化を、広く根付かせていこうという取組みです。換言すれば、「社会の眼から考えて、みんなで議論する」ための発想や技術を、広く社会で実践して行こうというプロジェクトです。

繰り返します。佐伯先生曰く、「社会における正しい決定というのは、ひとりひとりが自らのうちに【社会の眼】をもつことによってのみ、なしうるということである」。

そうであるならば、この全国大会も回を重ねて15回となりましたが、教室ディベートの実践の地道な積み重ねのその先にこそ、安楽死の法制化のような一筋縄ではいかない社会的な問題であっても、公の議論を通じて納得のいく選択を導き出すことができるような、今よりは多少マシな社会が実現されていく。

そう、私は確信しています。 

次に、試合全般の感想、それにコミュニケーション点を発表します。

(以下省略)





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