はるかな日、きのう今日

毎月書いているエッセイ、身辺雑記を掲載

今月の本(2012年9月)

2012-09-28 09:09:01 | エッセイ・身辺雑記
福岡伸一『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』、木楽舎2009年(第6刷)
 この人の著作はかつて『生物と無生物のあいだ(講談社現代新書 2007年サントリー学芸賞)』を読んだことがあり、難しい科学のことを分かりやすく書いているのに感心したのを覚えていますが、今回も非常に分かりやすい筆致で現代の生物学に関する諸問題を説いているのには感服しました。その論点は広範にわたっていて、ここで論じたり、要約したり紹介すことはできませんが、「動的平衡」ということは<われわれを含め、生物は瞬時も休むことなく分解、合成を繰り返していて、先ほどの私は今の私ではない>というように要約されると思います。
 この本を読んでいて印象に残った点を二つ上げますと、一つは膵臓の働きのことです。「私たち人間は、一日60グラムのタンパク質の摂取を必要としている。一方、糞中に排泄されるタンパク質量は約10グラムである」「このデータから、人間は差し引き50グラム、すなわち摂取した食品タンパク質のうちおよそ80%を消化管から吸収している。果たしてこのように結論していいのだろうか」に対して「まったく否である」とし、膵臓の働きにについて述べています。膵臓はトリプシン、アミラーゼ、リパーゼというような消化酵素を合成分泌していますが、消化酵素はタンパク質であり、1日60~70グラム、食べた食品タンパク質とほぼ同量か、それ以上の量の消化酵素が膵臓から消化管内に放出されているのです。これほど「大量の消化酵素が一斉に食品タンパク質に襲いかかって、くんずほぐれつしながら、食品タンパク質をその構成単位であるアミノ酸まで分解する」。「これくらい大規模の消化活動をしないと、私たちが日々食べる動物性あるいは植物性のタンパク質を十分栄養にすることができない」そうです。「そして消化酵素もまたタンパク質なので最終的に消化酵素は消化酵素自身も消化され、アミノ酸になって再び消化管壁から吸収される。消化管内でひとたびアミノ酸にまで分解されると、それはもともと食品タンパク質だったのかは見分けはつかない。つまり私たちは食べ物とともに私たち自身も食べているのだ」。「糞中に排泄される10グラムのタンパク質はこのなれ果て」だそうです。
 私は膵臓のこのような働きを知りませんでしたので驚きましたし、動的平衡の一部が分かったような気になりました。
 もう一つは食べ物などに関する様々な話題です。
 最近よく宣伝されているものにコラーゲンがありますが、コラーゲンは細胞と細胞の間を満たすクッションの役割を果たす重要なタンパク質で、肌の張りはコラーゲンが支えていると言われています。しかし、肌に良いからとコラーゲンを食べ物として摂っても消化酵素の働きでバラバラにアミノ酸に消化されて吸収されてしまい、コラーゲンとしては吸収されません。また、コラーゲンを配合しているという化粧品もたくさんありますが、コラーゲンが皮膚から吸収されることはありません。皮膚がコラーゲンを作り出す時は皮膚の細胞が血液中のグリシン、プロリン、アラニンというようなありきたりの(非必須)アミノ酸を取り込んで必要量を合成するだけでコラーゲンをいくら摂っても利用されることはありません。また、「関節が痛いからといって、軟骨の構成成分であるコンドロイチン硫酸やヒアルロン酸を摂っても、口から入ったものがそのままダイレクトに身体の一部に取って代われることはありえない。構成単位まで分解されるか、ヘタをすれば消化されることもなくそのまま排泄されてしまう」のだそうです。
 以上のように高分子化合物はそのまま体内に入ることはなく、コマーシャルに踊らされているだけと言ってきた私は大いに意を強くしました。
グルタミン酸ソーダを食べれば頭が良くなると言われたことがありますが、摂取したグルタミン酸ソーダがそのまま脳に入っていくことはありませんし、どんな食品にでも多量に含まれているアミノ酸で、自分の体内で他の材料から合成できるので、不足することはありえないのです。トリプトファンが不足すれば生命に危険を及ぼすこともありえますが、通常の生活をしている限り、現代の日本人にトリプトファン欠乏症がおこることはありえないといいます。というように普通の暮らしをしている限り、何かを摂らなくてはならないものはあまりなさそうです。

福岡伸一『動的平衡2 生命は自由になれるのか』、木楽舎2011年
 まず、「美は、動的な平衡に宿る-まえがきにかえて」を始め著者の博覧強記には驚かされます。現在の知識に至るまでに果たした著名な科学者のエピソードには知らなかったことが多く、また、話題は二酸化炭素排出権取引にまで及ぶなどと多岐にわたり、前編に続き楽しく読み進めました。
 前回同様、興味を感じた箇所を紹介してみますと、第3章の「植物が動物になった日」があります。「人体の構成成分の約20パーセントは20種類のアミノ酸が結合してできたタンパク質だ。人はアミノ酸を摂るために食べているのである」。「なぜ、体はタンパク質をタンパク質として吸収せず、わざわざ分解と合成を繰り返すのだろうか。それは、生命には「時間」があるからだ。いかなる生命も行き着く先は死である。しかし、分解と合成を繰返し、自分の体の傷んだ部分を壊しては作り直すことで生命は一直線に死へ向かうことに抵抗しているのである。」と著者は述べていますが、死生観の一面を明確に示しているように思います。さて、学校で習ったように20種類のアミノ酸のうち、11種類のアミノ酸はヒトの体内で作れる非必須アミノ酸ですが、残りの9種類はヒトの体内では作れない必須アミノ酸です。では、ヒトを含む動物ではなぜ必須アミノ酸を作る能力を捨ててしまったのでしょうか。著者は次のように考えています。すなわち、20億年ほど前、原始地球の海に浮遊していた植物性プランクトンのうち、何かの原因で「ある種のアミノ酸を作れない者たちが発生した。彼らはどこかでそのアミノ酸を手に入れたいのだが、波に漂っているだけではなかなか難しい。必要とするアミノ酸を求めて自ら移動しなければならない。というわけで、移動のための手段を身につけた」のが鞭毛でした。このように植物だった彼らは動くことのできる動物になったのです。そして、その「移動先は餌(栄養素)のある場所であった。こうして、彼らはある種のアミノ酸を自ら作るのではなく、外部から取り入れることを覚えた。つまり、「食べる」ようになったのである。「食べる」ことを覚えた彼らは、ある種のアミノ酸を体内で作る機能を捨てることにしたのである」。このように動物に外部から取り入れる必要のあるアミノ酸(必須アミノ酸)を生じたのです。
 もう一つは第8章の「遺伝は本当に遺伝子の仕業か?」の「ヒトとチンパンジーの違い」です。「ヒトとチンパンジーのゲノムを比較すると、98パーセント以上が相同で、ほとんど差がない。では、残りの2パーセント足らずの情報の中にヒトを特徴づける特別な遺伝子があり、その有無がヒトとチンパンジーとは異なる生物にしているのだろうか」。著者は「それはおそらく遺伝子のスイッチがオン・オフされるタイミングの差ではないか」といいます。遺伝子はあくまで情報で、作用をもたらすのは遺伝子が作りだすタンパク質である。「脳でスイッチがオンになる1群の遺伝子は、チンパンジーよりヒトで、作用の遅れる傾向が強い。つまり、脳のある部位に関していえば、ヒトはチンパンジーよりゆっくり大人になる。ヒトはチンパンジーより長い期間、子どものままでいる。脳だけでなく」、「ヒトは、チンパンジーの幼いときに似ている。体毛が少なく、顔も扁平だ。生まれたばかりは無力で、そのあと長い育児期間が必要だ。数年で性成熟するチンパンジーに較べて、ヒトは第2次成熟を経て、生殖可能年齢に達するまで少なくとも十数年を要する。つまり、チンパンジーが何らかの理由で、成熟のタイミングが遅れ、子ども時代が長く延長され、子どもの身体的な特徴を残したまま,性的にも成熟する。そして、それがヒトを作りだした」という仮説を述べています。私はヒトとチンパンジーの遺伝子は98%以上同じというのは知っていましたが、この説明で何となくすっきりしました。
 以上、読み応えのある2冊でした。

蒲松齢作 立間祥介編訳『聊斎志異(上)』岩波文庫、岩波書店1997年
 何十年か前というと、中学生の時だったか、父親の書棚にあったのを読んだことがありますが、面白かったという記憶はありません。このシリーズで記しているように最近、江戸時代の随筆や怪談集をよく読んでいますし、怪談集では種本に中国の話も使われているようなので取り上げてみました。この本の内容を私がいろいろ書くよりも、本書の表表紙は専門家が買い書いたものだけに実に要領を得ていますのでそれを引用します。
「全編ことごとく神仙、狐、鬼、化け物、不思議な人間に関する話。中国清初の作家蒲松齢(1640-1715)民間伝承から取材、豊かな想像力と古典籍の教養を駆使した巧みな構成で、怪異の世界と人間の世界を交錯させながら写実的な小説にまさる「人間性」を見事に表現した中国怪異小説の傑作」。
 日本の怪談集に較べると写実的なせいか、1編が長いものが多く、文初に登場人物の名前、出身地、官職などが詳しく紹介されています。また、科挙に成功して役人になれたかどうかは大事なことのようです。そして、科挙をあの世の人に手伝ってもらって合格したというような話も出ています。
 妖怪、怪異はしつこく災い及ぼし、親戚や孫子まで巻き込んでいくのも中国かなと思います。登場する男性たちは美女が現れるとすぐ胸元や下袴の下に手を入れたり、一儀に及ぶなどとお盛んなのも日本の話とちょっと違うように思います。動物では狐が主役、なかなか狡猾だったり、あとあとまで仕返したりなど日本の狐と違って可愛気がありません。ストーリーの紹介は止めておきますが、どの一編を読んでも、中国の匂いが横溢していて日本の怪談集とは違う雰囲気を感じます。もう一つ加えれば、当然のことながら挿絵は中国風、日本の怪談が蕎麦ならば、中国生まれはやはり油っこいラーメン、ワンタンメンというところでしょうか。