はるかな日、きのう今日

毎月書いているエッセイ、身辺雑記を掲載

今月の便り(2019年1月)

2019-01-30 06:52:48 | エッセイ・身辺雑記
今月の便り(2019年1月)
 昨夜は国民的行事「紅白歌合戦」を見終わり続いて「ゆく年くる年」で年がかわりました。例年ですと東京の息子一家5人が来るのですが、今年はわれわれ夫婦の二人。少し淋しいのですが静かなことこの上ありません。
 1月1日
 毎日のようにラジオ体操に出席してから帰り、お正月のお膳、カミさんが用意してくれたお節料理と御雑煮で新年を祝いました。久しぶりに頂く日本酒の美味しいこと。
年賀状も多く後からきたのを加えると五十数枚。出してない人のもあり、また一仕事?
 1月4日・14日
 久しぶりに地元の鎮守様の熊野神社に初詣。参拝客は二、三人。昨年のお札を持ってきたのですが箱には施錠がしてあって14日の左義長までお預けだって。14日に行ってみたら一か所にお札やお正月の飾りがどんと積んでありました。
 1月9日
 「自分史」の例会の日。朝から雪が降って幹事のNさんの車で送り迎え。今月の作品は「新春特集」という感じの作品ばかり。Nさんは「平成を送る」という題で、会社で働いていた時代、退職後の民生委員などの経歴などに触れ、会社時代の苦しい思い出も今は懐かしい思い出になったという箇所に共感を覚えました。Iさんは小品ながら年賀状を書くまでに至った心境を書いていましたがよくまとまっていて新聞のコラムにもなりそうでした。Kさんはお節料理について書いていましたが、過去、世間、自分の家の準備などといつもながら流れの良い構成で文章も達者でいつもながら感服。女性のNさんは病院通いを嘆きながらも亡くなった画家の最後までの生き方、プロスキーヤーの三浦雄一郎氏の挑戦への準備などに励まされたというエッセイでした。Aさんは中東での造水プラントのサイトマネージャーとしての活躍と日本での仕事のためにこの地を去るまでを書いていましたが、帰国を思い止まるように言われながら仕事や後継者が仕事を進めやすいようにとの準備など慌ただしい様子が伝わってきました。男性のIさんは私たちが世話になっている公民館(現在は市民センター)の館長を勤めるまでの経緯を述べていましたが、「自分史」という講座を作り、それが今まで十数年続いていることに触れてくれたのはたいへん嬉しく思いました。
 1月21日
 草津市コミュニティー事業団の刊行物「コミュニティーくさつ」の取材に同行。事務局の提案「平成を振り返る」の一環で1994年に開始されたボランティアによる「オリーブ」という在日外国人に日本語を教えるグループの代表者恩地美和さんから始まりから現在に至る経過やエピソードを聞きました。中でも印象に残ったのは在日外国人の子どもの教育における政府の冷たさで、この子たちに義務教育はないので民間の教育機関や人の善意に頼っているという現状です。就学不明者が1.6万人に上るという理由が分かりました。
 1月8日~22日
 年末から入れ歯の具合が悪くなり片方の歯だけで食事という悲惨な状況になりましたが歯医者は年末年始で休み。1月7日を待ちかねて今まで行っていたO医院に行ってみたら休診というので近くのA歯科医院で入れ歯の調整、15日にも調整してもらい22日に終了という運びになりましが、勧められて歯のお掃除を予約してきまし
た。
 1月23日
 草津市コミュニティー事業団の「コミュニティーくさつ」の取材に同行。今回は常盤地区の読書グループ松葉会(代表北脇恭子さん)の取材です。この会は昭和25年に地域の子どもたちに本を読まそうと発足し、現在に至っています。その間、子どもたちに本の読み聞かせ活動で文部大臣賞を受賞。昭和60年にはこの地の民話や伝説、歴史などを地区の人々の協力で『ふるさとのかおり』大集を出版しさらに地域の人から「聞き取り」をして『常盤の民話集 ふるさとのかおり 復刻版』が発行されました。また、この本を基にたくさんの紙芝居が作られそのDVDも作られています。
話は3人の方から伺いましたが、皆さんの熱意、特に郷土に対する情熱には感嘆しましました。また帰り際にこの復刻版を頂きました。
 1月29日
 カミさんの誕生日。私は例年どおりワインレッドのバラをプレゼント。弟夫婦に来てもらいミートパイで昼食。お喋りで過ごしました。ハッピーバースデーツーユー。
 [今月の本]
 多田富雄『免疫。「自己」と「非自己」の科学』NHKブックス、日本放送出版協会
2006年(第5刷)
 先月からの続きです。後半ではアレルギーとは何か、自己免疫の恐怖、移植、がん、妊娠、エイズなどについての免疫学的のアプローチについでの解説がありましたが、その詳細が分かっていない点も多々あるようです。最後の章では免疫の仕組み全体をスーパー(超)システムととらえ言語や都市、国家、民族といった文化もスーパーシステムと理解できるのではないかといい、その例として言語を取り上げていますが、免疫が如何に生体は自己を守っているかという論の数々からも推察できるなどと読む価値があったように思いました。

 早いもので年が変わってから一カ月が経ちました。今年も昨年と同じようなことをしながら過ぎていくのでしょうが、それもよし、とにかく病気しないようにを第一に暮らそうと思っています。皆さんもお元気で。では、また。

今月のエッセイ(2019年1月)

2019-01-29 06:43:19 | エッセイ・身辺雑記
   猫の恋
 「寒いのは紀元節(建国記念日)までだ」と父親は言いますが、厳しい寒さが少しばかり和らぐのはもう少し先ですが、やがて「猫の恋」の季節になります。隣の家の板塀の上で唸り声を上げているのは雄。その声はやさしい甘え声のようだったり、時に低く長く咽ぶようだったり、脅すようだったり、猛り狂う声、怒り喚く声、泣き叫ぶ声とまったく千変万化。発情期の唸り声は「猫の恋」として季語にもなっているようです。
この時代、猫は物置小屋で子どもを産んで、仔猫の貰い手を探すのに苦労したなどという話を時折耳にするところから野良猫が多かったようです。塀の上の声の主も野良猫だったのでしょう。
野良猫というと先日こんな話を聞きました。草津には帰帆島という大きな公園、プール、テニスコートなどを備えた島がありますがここには野良猫がたくさん住みついているそうです。ここに捨てられた猫だろうと言います。猫は生活力が強いので野生でも生きていけるけれど、近頃の犬は大切に飼われているので野良犬になる力がないのだと言います。
 話が横道にそれましたが、親の家にいたのは真っ白なのでシロと名付けられた猫。だれかにもらってきたとか、だれかが拾ってきたというのではなく、どこからか迷い込んでいつの間にか住みついた猫で、いつも何十年も前からいるような顔で家の中を歩き回っていました。猫は暖かい場所も涼しいところもよく知っていて、冬ならば縁側、夏には玄関に寝転んでいました。
終戦後間もない頃のことです。今のようにキャットフードなどというものはなく、母親が残り物を皿に盛って置くだけ。シロはどこでどうしていたのか、排泄物で困るようなことは一度もありませんでした。
 家族は猫には無関心。抱いて撫でるということもなく、機嫌の悪いだれかが蹴っ飛ばすくらいです。それでも猫は何事もなかったような顔。寒い時には嫌がりましたが、引っ張り込んで寝ると、しばらくは大人しくしていますが、その内、抜け出して足元の布団の上に座っています。そうなると、重くて邪魔、布団の中から蹴っ飛ばすと嫌々どこかへ行ってしまいます。猫可愛いがりされるのでもなく、ただそこにいるだけという猫でした。
 その後、猫を飼ったことはありませんし高層住宅に住んでいましたのでペットは飼えません。高層の十階に住んでいた時、まだ幼かった息子がピロティーでうろうろしていた仔猫を抱えて帰ってきた晩のことです。ピンポンが鳴って出てみると中年のご婦人が立っていて「猫を返して下さい」と言うのでその猫を渡しましたが、どうしてあの猫がここにいるのが分かったのかとびっくりしてしまいました。後から聞くと、同じ団地内で猫を何疋も飼っている人だそうです。
 それから何十年、草津に住んでいると猫は庭にたびたびやってきて芝生に匂いの強い糞を置いていきますので姿を見るとシッシシッシと追い払っていましたが、何年か前から見なくなりました。
全国の飼い猫の数は953万疋、犬の892万疋よりも多いのだそうです(平成29年)。かつてはわが家にいたシロのようにどこかからか迷い込んできた猫もいましたが、時々入ってくるホームセンターの広告を見てびくり20万も30万円、あるいはそれ以上の値段がついています。ホームセンターにはペットホテルを含む大型ペットショップがあり、スーパーに行くとワンニャンというコーナーにはペットフードの商品棚が所せましと並んでいます。
 かつては2月になると恋に狂う猫の唸り声に若い私は俺だって声を出したくなるような悩みや不安があるのだぞと怒っていましたが、それも遠い昔のこと。「私は昔からここにいたのよ」というような猫、ことさら可愛がることもありませんでしたが、確かに家族の一員だったシロという猫のいた時代です。2月は「猫の恋」の季節でした。2月になるのに気がついて昔のことを思い出しました。
2019年1月