はるかな日、きのう今日

毎月書いているエッセイ、身辺雑記を掲載

今月の便り(2012年9月)

2012-09-30 07:36:20 | エッセイ・身辺雑記
 暑い、暑いと嘆いていた今年の夏。けれどいつの間にか秋は忍び寄っていたのです。空には真綿のような雲が流れ、わが家では近所の草むらから虫の声が届きます。皆さんも元気に夏を乗りこえられたと思います。
9月1日
 障害者支援センターの教室はN先生のフラワーアレンジメントの日です。オアシスに花をどんどん突刺して終わりにしたSちゃんは先生にジャングルだねえと笑われ、早速直してもらっていました。私は弱視のT君の手伝い。終わるとゴミがたくさん出ますが、N先生が掛け声をかけて全員が片付けてお掃除。あちこちでお花を教えているというN先生の指導はさすがと感心しました。受講者は花を「お母さんに上げる」などとだれもが笑顔です。みんなに喜ばれている教室の一つです。
9月8日
 2キロ先は神奈川県という広い丘陵地にある八王子霊園で叔母の納骨式はたくさんの参列者のもと無事に終わりました。ここは東京都が開発したという墓地で、同じ形(背が低く、少し横長)のお墓(素材はそれぞれに違うようですが)が芝生のような広大な、なだらかな斜面に何百あるいは何千もが整然と並んでいるという風景には驚きました。出来た時(昭和49年)の様子を撮った写真もありましたが、親戚の人たちは故人になった人が多いのは当然です。墓誌には叔父さんと5歳で亡くなったという男の子に名前がありました。納骨は和尚さんの読経の中、2,30分で終わり、その後、料亭で精進落としがありましたが、叔父、叔母の親戚の人がそれぞれ20人ほどと賑やかでした。私にとっては「いとこ」会という感じもありました。
9月15日
 チラシを見ていたカミさんが「これ見に行ってみようよ」というので出かけたのが、駅前の小さい空き地で開かれている「アート市」。行った時間が早かったせいかお客さんはまばら。それぞれのテントには若い人たちが手作りの品々を並べています。それはアクセサリー、ポストカード、木の端材で作った可愛い玩具、革の財布や小さい鞄など。買いたいものはなく、近くのデパートで買い物、「王将」で昼食をして帰りました。こんな日もあるものです。
9月某日
 公民館の「自分史を作ろう会」は10周年を迎え、記念文集を作ることになりました。各自が選んだマイ・ベスト・エッセイを幹事さんが集めるのですが、私のパソコンには何人もの原稿があります。というのは、自作をメールで送ってくる人は私のパソコンで添削し、原稿を原稿用紙に手書きで送ってくる人はパソコンで添削しながらPCに入力しているからです。というわけで6人分は私のPCにありますので、それを編集、プリント、校正と忙しいことです。
9月29日
 障害者支援センターの創作教室はS先生の「写真立て」作りです。部品はすべて寸法に切ってあって、貼り付けるだけになっていましたが、十数人分を用意するのにはかなり時間がかかったことでしょう。教室では段取りが飲み込める人、そうでない人といろいろで先生は大忙し。私も「仕事」が遅れ勝ちの人の手伝い。今回は糊が乾くまでということで終わり、来月に飾りつけをするということになりました。

 来月になれば、秋は本格的になるでしょう。食欲の秋、芸術の秋などといいます。この秋を存分にお楽しみになりますように。では、また。

今月の本(2012年9月)

2012-09-28 09:09:01 | エッセイ・身辺雑記
福岡伸一『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』、木楽舎2009年(第6刷)
 この人の著作はかつて『生物と無生物のあいだ(講談社現代新書 2007年サントリー学芸賞)』を読んだことがあり、難しい科学のことを分かりやすく書いているのに感心したのを覚えていますが、今回も非常に分かりやすい筆致で現代の生物学に関する諸問題を説いているのには感服しました。その論点は広範にわたっていて、ここで論じたり、要約したり紹介すことはできませんが、「動的平衡」ということは<われわれを含め、生物は瞬時も休むことなく分解、合成を繰り返していて、先ほどの私は今の私ではない>というように要約されると思います。
 この本を読んでいて印象に残った点を二つ上げますと、一つは膵臓の働きのことです。「私たち人間は、一日60グラムのタンパク質の摂取を必要としている。一方、糞中に排泄されるタンパク質量は約10グラムである」「このデータから、人間は差し引き50グラム、すなわち摂取した食品タンパク質のうちおよそ80%を消化管から吸収している。果たしてこのように結論していいのだろうか」に対して「まったく否である」とし、膵臓の働きにについて述べています。膵臓はトリプシン、アミラーゼ、リパーゼというような消化酵素を合成分泌していますが、消化酵素はタンパク質であり、1日60~70グラム、食べた食品タンパク質とほぼ同量か、それ以上の量の消化酵素が膵臓から消化管内に放出されているのです。これほど「大量の消化酵素が一斉に食品タンパク質に襲いかかって、くんずほぐれつしながら、食品タンパク質をその構成単位であるアミノ酸まで分解する」。「これくらい大規模の消化活動をしないと、私たちが日々食べる動物性あるいは植物性のタンパク質を十分栄養にすることができない」そうです。「そして消化酵素もまたタンパク質なので最終的に消化酵素は消化酵素自身も消化され、アミノ酸になって再び消化管壁から吸収される。消化管内でひとたびアミノ酸にまで分解されると、それはもともと食品タンパク質だったのかは見分けはつかない。つまり私たちは食べ物とともに私たち自身も食べているのだ」。「糞中に排泄される10グラムのタンパク質はこのなれ果て」だそうです。
 私は膵臓のこのような働きを知りませんでしたので驚きましたし、動的平衡の一部が分かったような気になりました。
 もう一つは食べ物などに関する様々な話題です。
 最近よく宣伝されているものにコラーゲンがありますが、コラーゲンは細胞と細胞の間を満たすクッションの役割を果たす重要なタンパク質で、肌の張りはコラーゲンが支えていると言われています。しかし、肌に良いからとコラーゲンを食べ物として摂っても消化酵素の働きでバラバラにアミノ酸に消化されて吸収されてしまい、コラーゲンとしては吸収されません。また、コラーゲンを配合しているという化粧品もたくさんありますが、コラーゲンが皮膚から吸収されることはありません。皮膚がコラーゲンを作り出す時は皮膚の細胞が血液中のグリシン、プロリン、アラニンというようなありきたりの(非必須)アミノ酸を取り込んで必要量を合成するだけでコラーゲンをいくら摂っても利用されることはありません。また、「関節が痛いからといって、軟骨の構成成分であるコンドロイチン硫酸やヒアルロン酸を摂っても、口から入ったものがそのままダイレクトに身体の一部に取って代われることはありえない。構成単位まで分解されるか、ヘタをすれば消化されることもなくそのまま排泄されてしまう」のだそうです。
 以上のように高分子化合物はそのまま体内に入ることはなく、コマーシャルに踊らされているだけと言ってきた私は大いに意を強くしました。
グルタミン酸ソーダを食べれば頭が良くなると言われたことがありますが、摂取したグルタミン酸ソーダがそのまま脳に入っていくことはありませんし、どんな食品にでも多量に含まれているアミノ酸で、自分の体内で他の材料から合成できるので、不足することはありえないのです。トリプトファンが不足すれば生命に危険を及ぼすこともありえますが、通常の生活をしている限り、現代の日本人にトリプトファン欠乏症がおこることはありえないといいます。というように普通の暮らしをしている限り、何かを摂らなくてはならないものはあまりなさそうです。

福岡伸一『動的平衡2 生命は自由になれるのか』、木楽舎2011年
 まず、「美は、動的な平衡に宿る-まえがきにかえて」を始め著者の博覧強記には驚かされます。現在の知識に至るまでに果たした著名な科学者のエピソードには知らなかったことが多く、また、話題は二酸化炭素排出権取引にまで及ぶなどと多岐にわたり、前編に続き楽しく読み進めました。
 前回同様、興味を感じた箇所を紹介してみますと、第3章の「植物が動物になった日」があります。「人体の構成成分の約20パーセントは20種類のアミノ酸が結合してできたタンパク質だ。人はアミノ酸を摂るために食べているのである」。「なぜ、体はタンパク質をタンパク質として吸収せず、わざわざ分解と合成を繰り返すのだろうか。それは、生命には「時間」があるからだ。いかなる生命も行き着く先は死である。しかし、分解と合成を繰返し、自分の体の傷んだ部分を壊しては作り直すことで生命は一直線に死へ向かうことに抵抗しているのである。」と著者は述べていますが、死生観の一面を明確に示しているように思います。さて、学校で習ったように20種類のアミノ酸のうち、11種類のアミノ酸はヒトの体内で作れる非必須アミノ酸ですが、残りの9種類はヒトの体内では作れない必須アミノ酸です。では、ヒトを含む動物ではなぜ必須アミノ酸を作る能力を捨ててしまったのでしょうか。著者は次のように考えています。すなわち、20億年ほど前、原始地球の海に浮遊していた植物性プランクトンのうち、何かの原因で「ある種のアミノ酸を作れない者たちが発生した。彼らはどこかでそのアミノ酸を手に入れたいのだが、波に漂っているだけではなかなか難しい。必要とするアミノ酸を求めて自ら移動しなければならない。というわけで、移動のための手段を身につけた」のが鞭毛でした。このように植物だった彼らは動くことのできる動物になったのです。そして、その「移動先は餌(栄養素)のある場所であった。こうして、彼らはある種のアミノ酸を自ら作るのではなく、外部から取り入れることを覚えた。つまり、「食べる」ようになったのである。「食べる」ことを覚えた彼らは、ある種のアミノ酸を体内で作る機能を捨てることにしたのである」。このように動物に外部から取り入れる必要のあるアミノ酸(必須アミノ酸)を生じたのです。
 もう一つは第8章の「遺伝は本当に遺伝子の仕業か?」の「ヒトとチンパンジーの違い」です。「ヒトとチンパンジーのゲノムを比較すると、98パーセント以上が相同で、ほとんど差がない。では、残りの2パーセント足らずの情報の中にヒトを特徴づける特別な遺伝子があり、その有無がヒトとチンパンジーとは異なる生物にしているのだろうか」。著者は「それはおそらく遺伝子のスイッチがオン・オフされるタイミングの差ではないか」といいます。遺伝子はあくまで情報で、作用をもたらすのは遺伝子が作りだすタンパク質である。「脳でスイッチがオンになる1群の遺伝子は、チンパンジーよりヒトで、作用の遅れる傾向が強い。つまり、脳のある部位に関していえば、ヒトはチンパンジーよりゆっくり大人になる。ヒトはチンパンジーより長い期間、子どものままでいる。脳だけでなく」、「ヒトは、チンパンジーの幼いときに似ている。体毛が少なく、顔も扁平だ。生まれたばかりは無力で、そのあと長い育児期間が必要だ。数年で性成熟するチンパンジーに較べて、ヒトは第2次成熟を経て、生殖可能年齢に達するまで少なくとも十数年を要する。つまり、チンパンジーが何らかの理由で、成熟のタイミングが遅れ、子ども時代が長く延長され、子どもの身体的な特徴を残したまま,性的にも成熟する。そして、それがヒトを作りだした」という仮説を述べています。私はヒトとチンパンジーの遺伝子は98%以上同じというのは知っていましたが、この説明で何となくすっきりしました。
 以上、読み応えのある2冊でした。

蒲松齢作 立間祥介編訳『聊斎志異(上)』岩波文庫、岩波書店1997年
 何十年か前というと、中学生の時だったか、父親の書棚にあったのを読んだことがありますが、面白かったという記憶はありません。このシリーズで記しているように最近、江戸時代の随筆や怪談集をよく読んでいますし、怪談集では種本に中国の話も使われているようなので取り上げてみました。この本の内容を私がいろいろ書くよりも、本書の表表紙は専門家が買い書いたものだけに実に要領を得ていますのでそれを引用します。
「全編ことごとく神仙、狐、鬼、化け物、不思議な人間に関する話。中国清初の作家蒲松齢(1640-1715)民間伝承から取材、豊かな想像力と古典籍の教養を駆使した巧みな構成で、怪異の世界と人間の世界を交錯させながら写実的な小説にまさる「人間性」を見事に表現した中国怪異小説の傑作」。
 日本の怪談集に較べると写実的なせいか、1編が長いものが多く、文初に登場人物の名前、出身地、官職などが詳しく紹介されています。また、科挙に成功して役人になれたかどうかは大事なことのようです。そして、科挙をあの世の人に手伝ってもらって合格したというような話も出ています。
 妖怪、怪異はしつこく災い及ぼし、親戚や孫子まで巻き込んでいくのも中国かなと思います。登場する男性たちは美女が現れるとすぐ胸元や下袴の下に手を入れたり、一儀に及ぶなどとお盛んなのも日本の話とちょっと違うように思います。動物では狐が主役、なかなか狡猾だったり、あとあとまで仕返したりなど日本の狐と違って可愛気がありません。ストーリーの紹介は止めておきますが、どの一編を読んでも、中国の匂いが横溢していて日本の怪談集とは違う雰囲気を感じます。もう一つ加えれば、当然のことながら挿絵は中国風、日本の怪談が蕎麦ならば、中国生まれはやはり油っこいラーメン、ワンタンメンというところでしょうか。


小さいラジオ

2012-09-27 08:49:29 | エッセイ・身辺雑記
 ある会合で災害時用に何を備えているかという話が出た時、話題がラジオに及び、だれそれは3台、だれは4台とどの家でもたくさんラジオを持っているのを知って驚いたことがあります。その時、わが家にあるのを数えてみたら、ステレオセットに組み込まれているチューナーが1台、ラジカセが1台の2台でした。非常の時にはステレオセットのものは全く役に立ちませんし、単1の電池が6個も要るラジカセは持ち出すことなど出来ない代物。また、東日本大震災の後、単3の電池ならいくらでも買えるのに、単1の電池はかなりの期間、どこに行ってもなく、単1の電池を何本も使うラジカセは使いたくても電池が手に入らないのを知りましたので、単3で使える小さいラジオを量販店で見つけて買いました。
 この小さいラジオは毎日のように使うことになりました。どなたもご存知のように、年寄りは早く目が覚めるものですが、ヘッドフォーンを使えば、隣で寝ている人にも気兼ねなく聞けます。いろんな局に波長を合わせて聞いているうちに、大阪から関西に住んでいるアジアの人に向けて放送しているFMココロの6時からの30分番組に行き当たりました。
月曜日のスリランカ、火曜日のフィリピン、水曜日のタイから日曜日の中国人による漢詩鑑賞まで続きますが、アナウンサーはその国の人、言葉もその地の言語に日本語の部分が少しという構成になっています。もちろん、どの国の言葉も分かりませんが、オリンピックなどという単語を聞くとニュースなのだろうと思います。何語でもずいぶん早く聞こえるものですが、ニュースだからだと思います。タイの日にはただ一つ知っているタイ語、「サワデーカー(お早うのもさようならにも使える)」を聞くのが楽しみで波長を合わせています。どの国の言葉も同じように聞こえますが、やはり国ごとにイントネーションがちがい、それぞれこの言葉で会話を交わしているのだなあ、とその様子を想像しながら聞いています。
 各国ごとの番組の楽しみは音楽です。どの国の音楽や歌にも民族色が反映されているようですが、現代風のアレンジがされていて、国ごとの違いはあまり感じられません。ただ、ベトナムやスリランカの歌にはラブソングなのかスローテンポのものはしみじみとしたものがあって、テープに録っておきたいようです。東南アジアの音楽は日本の音楽と共通の先祖をもっているのか、どことなく心休まるものがあって、耳に快く響きます。そして、どの国でもその地の言葉を賑やかに喋っているのと同時にラジオや店先のスピーカーからその地の音楽が流れているのだろう、と遠い南の国に住む人々の暮らしを思い浮かべるのです。非常用に買った小型ラジオの効用ですが、この小さいラジオが役に立つ日がないことを願って止みません。
2012年9月