はるかな日、きのう今日

毎月書いているエッセイ、身辺雑記を掲載

今月の便り 2010年10月

2010-10-30 08:13:20 | エッセイ・身辺雑記
木犀のかおりが漂っていましたが、もう花は散ったようです。朝晩など寒いような季節になりましたが、元気に秋を楽しんでおられますか。
10月9日
少々熱っぽいのとひどい雨なので障害者支援センターの教室の手伝いを休みました。長い間、休まずに行っているので、このように休むのは至極残念。
10月11日
所用でカミさんの叔母が住む東京・青梅へ。新幹線は久しぶり。岐阜から名古屋にかけての田んぼにはまだ刈っていない稲。遅くに刈る「初霜」という品種だといいます。珍しいことに富士山は上から下まで雲一つなし。
その夜は息子のマンションへ。上の子は習っている最中のピアノ曲を披露してくれ、孫娘はカミさんに絵本を読んでと言っています。末の子は幼稚園の運動会でもらったメダルを自慢しています。夜は団地のゲストハウスに宿泊。
10月12日
帰宅の途へ。新幹線は旅行の高校生。途中からは外人の団体。この日も富士さんはばっちり。外人たちはカメラ(買ったばかりのも?)を向け大興奮。シンカンセンを経験し、フジヤマも見て大満足ではなかったかしら。この人たち、は名古屋で下車しましたが。どこへ行くのでしょう。お年の方ばかりのようでしたが、皆さんとても仲良さそうでした。
10月14日
午前は排尿困難と排尿痛のため、いつも行っている泌尿器科の医院へ。午後、もうれつな悪寒で震えが止まらないので近くのクリニックへ。体温は今までになく高い。診察の後、血液検査の採血と点滴。頓服、咳止め、葛根湯をのみ、寝室をエアコンで暖房し、ふとんを3枚かけて就寝。夜中に大汗かいて寒気は収まりました。
<その後>2日間熱はありましたが、徐々に低下。排尿困難や排尿痛はうそのように消失しました。
10月20日
ついにわが家にも液晶テレビがやってきました。液晶テレビというものは電器店で見ていましたが、その大きいのにびっくり。その画面のきれいなのにしばらく呆然と眺めていました。たまたまNHKの木造の駅という短編のシリーズを放映していましたが、このような風景の画像はことに美しいように感じました。故障もしていましたが、長い間付き合ったブラウン管テレビが運び去られて行くのを見ているといくぶん心が痛みました。
10月27日
11月7日に開催される地域のお祭りの際、われわれのサークルは希望者に文集を進呈していますが、この日は公民館で印刷、製本。メンバーがたくさん集まったので、62部の文集も早々と完成し、ほっと一息して昼食。大いに語り合ったという次第。仲間というのは良いものです。
今年は早くから寒くなったように思います。風邪をひいたりなさいませんように。お元気で。では、また。

2010年10月の本

2010-10-29 08:09:30 | エッセイ・身辺雑記
小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集 第三巻』岩波文庫31-037-3、岩波書店1979年
未だ第三巻を読んでいる最中です。映画をあまり良くは書いていなかった寺田寅彦氏ですが、「映画雑感(Ⅰ)」を読むと、いろいろな映画をたくさん観ているのに感心するやら呆れるやら。それも、その映画の細部までに目が届いていて、紙上に詳しく記しているのにはびっくりします(ビデオはないし、メモを取るにも映画館内は暗いし)。私も観た映画だと「モロッコ」。この随筆は昭和6年に発表されていますから、私が生まれて間もない頃、この映画の古いのも、自分が歳をとったのも再認識した次第。この映画についても詳しく書かれていて、かつて観た場面を思い出すことができました。当時のことですから「有声映画」という言葉が使われていますが、「この映画の独自な興味は結局太鼓の音と靴音(くつおと)とこれに伴う兵隊の行進によって象徴された特異なモチーフをもって貫かせた楽曲的構成にあると思われる」と書いています。私がこの映画を観たのは50年以上前のことですが、かつての印象が間違っていなかったような気がします。
もう一つ書いておきたいのが「からすうりの花と蛾」です。この随筆にも寺田寅彦氏に特有な世界が展開されています。まず、氏の庭のからすうりが短時間にいっせいに咲く様子やそのメカニズムの推測、からすうりが咲くといっせいにたくさんの蛾が飛んでくるが、蛾がどこにこの花が咲くのか、そこへの通路を前もって研究しているのだろうと感心しています。最後に、将来、からすうりの花に蛾が集まるように敵国の飛行機が飛んでくる日があるかもしれないし、一機には千発の焼夷弾が積めるというから仮に半分が無効になるとしても五百箇所に火災が起こる。十機飛んできたら五千箇所で火災が突発し、全市が数時間で火の海になるにちがいないといい、氏独自の防火法について述べられていますが、昭和初期に敵機による大規模な火災にについての発想には驚嘆のほかありません。

安野光雅、森毅、井上ひさし、池内紀編『ことばの探偵』(ちくま文学の森14)、筑摩書房1988年
私の本棚には装丁が気に入って買ったという本が少なからずあります。「ちくま文学の森」も安野光雅氏の装本が気に入って買ったシリーズ。本書はその中の一冊です。
いろいろな作品が目白押しに並んでいますが、私は年寄り。「がまの口上」のような落語、中田ダイマル・ラケットの漫才「家族混線曲」などに現れるかつての日本語に懐かしさを感じます。また、江戸川乱歩の「二銭銅貨」で使われている言葉にはもちろん、そこに広げられている世界に少年の日を思い出します。芥川龍之介の「藪(やぶ)の中」は再読することになりましたが、人間の心理の微妙なことにはあらためて感心。驚いたのが三田村鳶魚の「佐々木味津三の「旗本退屈男」」でした。この小説に使われている江戸時代の言葉や習慣についての誤り、例えばこの小説の舞台になった時代より百年後に使われるようになった言葉、江戸時代には決して行われなかった習慣が書かれているなどが指摘されていますが、このような文章には出会ったことがないので驚きました。時代考証というのは難しいものですね。
 

鉛筆からパソコン

2010-10-28 07:56:54 | エッセイ・身辺雑記
 私はぎっちょ、鋏やナイフのような刃物は左、茶碗も左手で、何かを蹴っ飛ばすのも左足ですが、書くのだけは右手です。小学校1年生の時に親がやかましく言って直したのだそうです。昔も小学生は鉛筆を使っていたにちがいありませんが、多分、今でも売っている緑色のトンボ鉛筆だったろうと思います。
 低学年の時には、親が鉛筆を削ってくれますが、男の子なら高学年になると切り出し(小刀)や肥後守(折りたためる小刀)くらいは持っていて、それで削っていました。女の子、特にきれいな子はなぜか、3Hなどという硬い芯を針のように尖らせていましたが、あれはどうやって削っていたのでしょう。戦中だったか戦後だったか、鉛筆の芯の品質が悪く、突然書けなくなることがありましたが、その内、細かい砂粒のようなものが出てきて、また書けるようになるという経験をしました。あの時のハラハラ感は楽しかったですね。そんな鉛筆はもうありませんが。
 後年、手回しの鉛筆削り器、電動の鉛筆削り器などというものが出ましたが、私は左利きのせいか、手回しの鉛筆削り器はうまく使えませんでしたし、電動の機械は音が大きいのにびっくり、削りかすが多く、これでは鉛筆1本などすぐなくなってしまうだろうと思ったものです。この鉛筆削り器が流行ったころ、鉛筆を機械で削るのではなく、鉛筆をナイフで削りながらこれから書く文章をどうするかと考えるべきだなどという議論もありましたが、やがてボールペン、シャープペンシルの時代になり、今ではそれも通り越してケイタイかパソコンの画面に向かう時代になりました。
 昔からあった筆記具には万年筆がありました。私の父親の姉妹はいつも万年筆で書いた葉書をくれました。どの字も達筆でありながら優しい感じに溢れていましたが、文面は最初から終わりまで同じ大きさ、余白もなくきっちり埋まっていました。きっと、書き出す前に書き終わった時の文面が頭に浮かぶからではないでしょうか。叔母に万年筆で書いた葉書のことを話したことがありますが、「私の万年筆は女学校からのセーラー万年筆、セーラーの人がいくらでも出しますから譲って下さいと言ってくるけど、私は売らないの」と笑っていました。
 私がパーカーの万年筆を買ったのは30代半ばだったと思います。その頃の万年筆、ことに外国製は高く、一種のステータスシンボルでした。そのペン先は滑らかで故障一つなく、長い間使いました。その後、永年勤続の記念品としてシェーファーの万年筆をもらいましたが、カミさんに貸したらどこかでなくしてきました。シェーファーの万年筆といえば、事務所の人にボールペンを借りにいったところ、引き出しの筆箱にシェーファーの万年筆が見えたので、「良いもの持っていますね」と言ったら「使ってないので上げます」と言うのでもらい、クロスのボールペンといっしょにペンケースに入れていましたが、ペンケースともどもどこかに置いてきてしまいました。
 ボールペンを何かの景品か記念品としてもらった時には、こんなものがあるのだと感心し、使ってもみましたが、ペン先から黒い油のようなものが出てきて書いたものが汚れたり、定規で線を引いたりすると、定規は黒い油でベトベト。結局使い物にならなくて何本も残っていたものです。法定の書類にも使えるようになったのは昭和40年代の後半だったといいます。この頃から、何を書くにもボールペンの時代になりました。国産品も良くなりましたが、書き味の良いのはパーカーやクロスのものでした。ただ、外国のものは何故か持ちにくいのです。カミさんは何十年も前に渡したパーカーのボールペンの芯を替えながら未だに愛用しています。
 昭和五十年代になると、コンピューター化が進んでペーパレスの時代となり、会議資料なども手書きは禁止、プリントしたものを使うようになり、私たちの部屋にも机一台分もありそうなワープロが配置され、同室の女性社員が書類を作ってくれるようになりました。おじさんたちはこういうのが駄目で、私もこわごわ触ってみるのですが、さっぱり分からんと諦めるばかりでした。若い女性は上達が早く、入力コンクールで優勝してくる人も現れました。
 第二の職場に移った時には困りました。小さい会社では、それまでのように同室の女性に書類を作ってもらえるわけでもないのでワープロを始めましたが、それは卓上型、よくできた器械になっていましたので、いつの間にか使えるようになっていました。ワープロに慣れると、パソコンに移るのもあまり抵抗なく、自宅にも置くようになり、すっかり筆記用具として定着しました。手紙もこのような文章もパソコンで書きますが、入力ミスが多いので、カミさんにチェックしてもらうという手間がいります。
手で書くのは毎晩の日記だけになりました。使うのは鉛筆型、油性インクのボールペン。パソコンを使うせいで字を忘れ、カナだらけの日記になっていますが。
1010年10月