はるかな日、きのう今日

毎月書いているエッセイ、身辺雑記を掲載

今月の便り(2020年11月)

2020-11-30 06:26:09 | エッセイ・身辺雑記
今月の便り(2020年11月)
 朝の吐く息が白くなるまでもありませんが寒くなり、朝晩のエアコンが欠かせなく
なりました。これから先もっと寒くなるでしょうが今月は紅葉という楽しみもあります。
 11月7日
 エアコンを使うと寝室の乾燥が気になり濡れたタオルを掛けておくなどしていましたが乾くのも早くこれではいけないと加湿器を買いました。湿度が高いと暖かく感じるといいますがその通りでエアコンだけでは得られない暖かさがあります。
 11月11日
 自分史の会の例会です。Mさん(散歩②)は先月に続き散歩についてですが、体に促されて続けているようです。この文章では散歩しながら浮かんでくる過去の記憶やこれからなどを披露していますが、最後の私の夢を述べそこに「私がいる」と結んでいました。Iさんはご主人が残されたカメラからスタートしたカメラマンとして経歴を書いています。次々と獲得した賞の数々もさりながら講座できいた文言をたくさん並べているのも見事。Sさん(新聞を読んで)は欠席でしたがこの一文は新聞に記事を引用しながらコロナ禍の現状を正確に述べていました。後半の「感染怖くて打ち明けられない」は女子大学生の経験を述べながら社会は優しい目で感染者に注いでくれることを願うと結んでいます。Aさん(テニスの友人)は長い付き合いのある友人、認知症のある友人のエピソードを紹介していますがその適切な対応、思いやり、強さそしてそのユーモアには感動、感服しました。Iさん(体験 GOTOトラベル)は政府の推奨するGOTOトラベルを利用して行った東尋坊Kホテルやそこへ行くまでのサンダーバードやホテルでのとられていた感染予防策に触れながら快適な旅行だったといいますがその費用の一部が税金だと思うと何だか複雑だと言っています。Nさん(片付け)はホームに入っている従姉の家の片付け(ほとんど遺品整理)を見せていますが、忙しそうでしたがやはり悲しい仕事だったろうなと思いました。「カビがうっすらとかかる食器棚」という文末が立派。Kさん(手紙が来た)はコロナ禍の一日、平穏な一日を穏やかな語り口で書いていますがやはりコロナの終息の日を待ち望んでいるのが私も同感。画家のNさん(花の色香の漂っているときに)は届いた大学の会報を見て同期に亡くなっている人が多いのに驚くと同時にこれから先、特にアトリエにたくさんある作品に思い悩んでいるが自分の最後を考えなくてはとため息をついています。
 11月25日
 地元の老人会のバスツアーで比叡山の山麓、坂本にある西教寺に行ってきました。バスに乗る前には検温、手指消毒、バスも二人がけのシートに一人という感染予防は万全です。駐車場からお寺に通じる「紅葉のトンネル」は少し最盛期を過ぎた感もありますが見事。私はいちばん見たかった鬼の顔から手足が四方に伸びているという不思議な仏元三大師像は角大師という名前でした。猿の顔をした仏、真盛上人「身代わりの手白猿」というユニークな仏像、諸仏の鎮座する本堂に私達の外に参拝客のいない広大な本堂、お焼香の煙が流れ、時折響く鉦の音が響くという一時、西教寺に来たのをしみじみ味わうことができました。
 午後になると光秀大博覧会に来るたくさんの人、人、コロナは大丈夫なのでしょうか。
[今月の本]
 井伏鱒二『屋根の上のサワン』角川文庫、角川書店平成六年(第四版)
以前著者に詩集に「サヨナラダケガジンセイだ」に触れたのを機会に読んだ本。登場する時代は江戸時代から戦前あたりまで。短編ありかなり長いものあり、文体もさまざま。しかし、この本のタイトルにもなっている「屋根の上のサワン」は独特のユーモアとペーソスに満ちた短編でした。貧しい人達の暮らしを描いた「川」も読み応えがある小説。小説を読む楽しみはこういうことかと思いました。

 今や晩秋を越えて初冬。寒くなりました。ウイルスは寒さと乾燥が好きだと言いますが、そのせいか新型コロナウイルス感染者が急増し第三波襲来かといわれています。何とか早く収まり普通の暮らしにもどりたいものです。寒さに向かいます充分お気をつけて師走をお迎えになりますように。では、また。

今月のエッセイ

2020-11-29 06:40:59 | エッセイ・身辺雑記
 お姉さまたち
  昭和の初期、父親は茨城県の県立中学校の教師でした。田舎のことですから学校の先生は町では一目置かれ、少しは裕福な暮らしをしていたのではないかと思います。
 近所には女中さん(今の言葉ではお手伝いとでもいうのでしょうか)のいる家も珍しくありませんでしたが、わが家に女中さんが住み込んだのは四人目の子ども、妹が生まれた時のことからでした。何という名前のお姉さんだったかは知りません。家のものはみな「ねえや」としか言わなかったからです。私は一番上でしたから「上の坊ちゃん」か「おにいちゃま」と呼ばれていたのでしょう。
 それがどういうことだったのか「ねえや」と「おにいちゃま」が二人でお留守番をすることになったのです。暖かい日がいっぱいに降り注ぐ長い廊下で折り紙を教えてもらいましたが若い「ねえや」と二人きりなのが嬉しくて小学四年生の私は胸がどきどきするのです。母親が帰ってくるのが恨めしいのです。あの陽だまりの日は今も忘れられません。やがて父親の転勤に伴って「ねえや」も辞めました。後で聞いたところによると茨城県の人で当時は女性の憧れの的、デパートのエレベーターガールになったそうです。あの「ねえや」何という名前だったのかなあ。
 私が「トオルちゃん」と呼ばれるようになったのは19歳。薬学生だった私は大阪市の水質試験場で一ヵ月間実習をした夏です。居候させてもらった叔父の家には一つ年上の従姉がいました。田舎者の私は映画やプラネタリウム、さらにかつては今の梅田よりも賑やかだった天神橋六丁目の商店街に連れていってくれました。ただし、「お姉さま」の命令には絶対服従で当時流行りだった蓑虫でバッグを作るというので近くの公園に連れて行かれました。その後、「お姉さま」は引っ越しが多かったり私も転勤であちこちに住んだりで付き合いは途絶え勝ちでしたが偶然のことから告別式には出会えました。棺の中の「お姉さま」は初めて会った時、女学生だった時のようなきれいな顔で旅立ちました。
 これは「トオルさん」の話です。大阪の製薬会社の研究所の私達の部屋は図書室の隣にあったので仕事に嫌気がさして一息入れたい時は図書室のカウンターの中の図書室長「ランコさん」、「館長さん」訪問です。横で何人かが到着した学術誌のチェック、忙しそうに落丁や乱丁がないかとページをめくっているのですから長い時間は喋っているわけにはいきませんが、「館長さん」のあだ名は放送局、噂話には精通していますのでつい長居。ちょっと小肥りで私より一つ年上の「館長さん」はなぜか私を「トオルさん」と言います。ある年の夏、突然「トオルさん、祇園祭りの宵宮を見に行こう」と言うので混んだ電車で京都に行き、混んだ通りをどこにも寄らず、何も言わずに帰って来たことがあります。あれは何だったのでしょうね。もう一つ部門の慰安旅行の際、地元の「がんこ寿司」を賭けてゲームしたのですが見事私の負け。何時だか約束の「がんこ寿司」に行きました。この店のある十三(じゅうそう)はラブホが軒を連ねるネオン街です。寿司屋から駅に向かう道で「館長さん」に「横道にそれたらよかったかな」と言ったら「馬鹿ね」と笑われ同じ電車で帰りました。そんなこんなの何十年。彼女は定年で退職し、私も草津に住むようになって長い年月「館長さん」がどうしているのかも知りませんでしたが、ある日、「館長さん」が亡くなった、お葬式はどこそこという電話に駈け付けました。現役の時なら参列者は多かったのでしょうが、式場には親戚側が二人、そこに列席したのは私を含め研究所にいた五人だけ。やたら広い式場のお棺に横たわっているのは「館長さん」、いや「ランコさん」でした。
 鎌倉には私より一つ年上の従姉が住んでいます。時々電話で話しますが話題に上がるのは季節の移り変わり、日々の暮らし、時にはコロナのことなどで笑っています。私を「トオルちゃん」と呼んでくれる「お姉さま」はこの従姉だけになりました。年を取るって寂しいですね。
2020年11月