はるかな日、きのう今日

毎月書いているエッセイ、身辺雑記を掲載

2010年4月の本

2010-04-29 08:09:33 | エッセイ・身辺雑記
加藤周一『日本文学史序説(上、下)』、筑摩書房昭和55年
昔読んだ本のうち、読み応えのあった本をもう一度読んでみようと取り出した本です。30年前の本ですが、当時、サラリーマンだった私はどんな時間にこの厚い本を読んだのでしょうか。現在、私は再読中ですが、今月の本として書きました。ただ、本書の内容を紹介することなどとてもできないことなので、序章に相当する「日本文学の特徴について」からほんの少しだけ拾い上げてみます。

西洋語の文学の起源は14,5世紀までさかのぼらなければならないが、日本の文学の歴史は古く、その起源は8世紀までさかのぼれる。また、「一時代に有力になった表現形式は次の時代にうけつがれ、新しい形式に置き換えられることはなかった」(例えば8世紀の短歌、17世紀以来の俳句)。劇の形式でも15世紀以来の能・狂言、17世紀以来の人形浄瑠璃、歌舞伎のどれも消え去ったものはない。さらに、摂関時代の「もののあはれ」、鎌倉時代の「幽玄」、室町時代の「わび」「さび」、徳川時代の「粋」はそれぞれ、歌人の「あはれ」、能役者の「幽玄」、茶人の「わび」「さび」、芸者の「粋」と次の時代にひきつがれている。そして、著者は伝統的な形式が何世紀にもわたって保存されてきたことは、新形式の導入を容易にしたようであるとし、今日なお日本社会の極端な保守主義(天皇制、美的趣味、仲間意識など)と極端な新しいもの好き(新しい技術の採用、耐久消費財の新型、外来語を主とする新語の乱造など)とは、おそらく楯の両面であって、日本文化の発展の型を反映しているとしている。
日本に表現の方法がなかった5,6世紀、「古事記」と「万葉集」には中国南方の発音が、「日本書紀」には北方音が採用されたといい、7~19世紀の文学には日本語の文学と中国語の詩文があるという特徴がある。また、全体よりも細部に重きがおかれ、源氏物語は「部分の描写は全体のためには十分だが、必ずしも必要でない」とされ、歌舞伎においても「全曲が互いにほとんど独立した挿話と場面の連続から成り、その全体を一貫するすじには大きな意味はない」のである。

先に書いたように現在進行中ですが、理路整然とした論評、驚くべき博覧強記、各作品に対するはっきりした評価、びっくりするようなエピソード等々、本書は決して平易な本とはいえませんが、読み出すと、次の時代での展開はどのようになるかなどと閉じるのが惜しいような気さえします。なお、来月もこの続きを書くつもりです。

2010年4月の便り

2010-04-28 09:59:15 | エッセイ・身辺雑記
先月になりますが、30日の深夜に東京にいる息子の一家がやってきました。子どもたちが春休みだからです。第一日は公園に行き面白自転車や高さ11メートルもあるロープで組んだピラミッド、長い滑り台で大喜び、2日目は水産試験所付属の施設で魚に触れたり、鱒を釣って食べ、3日目には信楽にご飯の茶碗を作りに行くなどしっかり遊んで帰りました。
今年は5月のような陽気だったり冬に戻ったりと変な日が続きましたが、エッセイを書く仲間と花見に行ったのは寒い7日、桜は満開でも中から暖めるしかないないような日。花見の後に繰り出した喫茶店で一息。マスターがオーディオやジャズフアンということで私は一人で大喜び。
9日も花見の日。町内会の高齢者の旅行です。お天気はあまりよくありませんでしたが寒くはなく、大津市の三井寺から長等公園まで散策。公園内の三橋節子の美術館でゆっくり鑑賞。昼食後、びわ湖を渡って草津市の烏丸半島の道の駅でお土産を買うというコースでしたが、いつものことながら、たっぷり時間をとったツアーを堪能しました。
私は私で花見。8日には自転車で15分ほどの神社へ行き、参道の桜並木に腰を下ろしてゆっくり写生。だれも通らないような道で暖かい日を満喫。
10日にはいつも走っているサイクリングロード沿いの果樹園で桃の花や果樹園の様子を描き、セイヨウカラシナに埋め尽くされたような川の堤をスケッチと私にとっては至福の日を過ごしました。
22日には東京の親戚と京都へ行きました。京料理を頂き、どこかへ行こうといっても生憎の雨。歩かなくてもすむ摩利支天を祀ったお寺に参りましたがその広大な枯山水式の庭の新緑と苔の鮮やかさに感嘆し、雨もよいのかと思ったり・・・
25日は地域のお祭りで、私たちは障害者支援施設でボランティア活動。私は2台で綿菓子作りをする二人にザラメを供給する役目で大働き、いささかくたびれました。

神戸、はるかな街

2010-04-27 08:58:20 | エッセイ・身辺雑記
神戸は海の匂いのする街でした。先月行った兵庫県立美術館から見ると、遠くにはビルの群、そのこちらには何本かの高架の道路、その下に並ぶコンテナ、海面には艀なのかたくさんの船、その水面を横切る高速艇。神戸に来て間近に海を見たのは初めてでした。
かつての県立近代美術館へ行くにはJRの灘駅から動物園の近く、山手へ向かっていましたが、今回行った県立美術館は、被災した川崎製鉄や神戸製鋼所があったという地区にあり、林立するビルの間を走る高速道路を越え、うねるような長い陸橋を進んだ先に見えました。
この美術館に来たのは、三十数年前、銅版画を教えてもらった山本六三さんという画家の展覧会が開かれていたためですが、会場には画家の若い時の自画像に始まり、数々の銅版画、後期の油絵、中世の銅版画を思わせる遺作まで約八十点。師事したのは五年ほどでしたが、知っている作品もあり、叱られたこと、褒められた日のこと、先生が淹れてくれるコーヒーを頂きながら聞いた絵の見方などを懐かしく思い出されます。先生は神戸出身、長身でハンサム、いつも黒っぽい服を着ていましたが、何を着てもカッコ良い人というのはこの人のこと。室内でもいつも黒い帽子を被っていましたが、度の強い眼鏡をかけた先生はまさに芸術家でした。
銅版画を勉強している仲間と旧トーマス邸(風見鶏の館)のスケッチに行ったことがありますが、その頃、近くには喫茶店一つない場所でした。やはり、その時期、南蛮美術館を見に行きましたが、壁の雨漏りの跡に驚いた記憶があります。この美術館は神戸市立博物館に吸収合併されたそうです。近年だと、六甲の山を削って作った六甲アイランドに建つ神戸市立小磯記念美術館で小磯良平の絵をたくさん見たことがあります。
山本先生の美術研究所に通っていたのは、私たちが茨木に住んでいた時代。通勤にも買い物に行くにも、阪急電車の京都線を利用していましたが、神戸へ行く時、神戸線の電車に乗ると、がらりと雰囲気が変わるのです。例えば、どこがどのようにとは説明できませんが、沿線の女子高生の制服が瀟洒な感じになるのです。他の乗客も皆、何故か垢抜けた感じ、というより雰囲気が明るいのです。
背に山を負い、南に開けた神戸は、ずっと昔から外国との交流があり、居留民といわれる外国の人が住む街で、異人館街や南京町など異国の香りのする街。トアロードというエキゾチックな名前の通りに多い○○洋行などという舶来品を扱う店で、アメリカ製の大きな冷蔵庫を買ったことがありますし、行くたびにイギリスの食器を少しずつ買い足していたこともありました。神戸三宮のサンチカタウン(地下センター街)の洋品店には知り合いができて、ワイシャツを仕立てたり、洋服を選んでもらったりしましたが、ここのマスターはいかにも港っ子という感じの粋なおじさんでした。
神戸では、戦前からジャズが盛んに演奏されていたといい、今も毎年行われているそうですが、秋のフェスティバル、ジャズストリートでは文字どおりホテルの一室やパブ、ライブハウス、放送局などと町中を会場にして演奏が繰り広げられますが、あちこちの会場に足を運ぶのが楽しいので、何回も参加し、女性歌手のサインの入ったCDが手許に残っています。このように神戸は身近な街、大好きな街でした。
震災から十五年、新しい美術館が生まれたように、神戸の街は大きく変わったことでしょう。けれど、山手にあった大きな洋菓子店、阪急三宮の駅から少し坂を上がったところにあったライブハウス、トアロードの街並み。サンチカタウンの賑わいなどはあまり変わっていないような気がしますが、この日、それを確かめることもなく、神戸を後にしてしまったのはちょっぴり残念なような気がします。
2010年4月