はるかな日、きのう今日

毎月書いているエッセイ、身辺雑記を掲載

2009年12月の本

2009-12-31 09:18:00 | エッセイ・身辺雑記
Mike Morwood マイク・モーウッド  Penny van Oosterzeeペニー・ヴァン・オオステルチイ【著】馬場悠男【監訳】仲村明子【翻訳】『ホモ・フロレシエンシス 1万2000年前に消えた人類(上)(下)』NHKブックス 1112~1113、日本放送出版協会2008年
本書はインドネシアのフローレンス島で発見された新種の人類、ホモ・フロレシエンシス、通称ホビットの物語である。ホビットは身長1メートル、脳の容積は400ミリリットルしかないのに石器を作り、縄文時代と同じ1万2000年前まで生きていたわれわれには遠縁の人類である。読み始めると、次々と現れる問題と解決はスリルに満ちていて楽しく読み進められ、最初の部分の発掘に当たる現地の人々が、目的を理解し、様々な工夫を凝らす様子には感心した。賃金の話も出てくるが、高くても低くても協力を得られないというのも興味深い。また、発掘現場の崩落などの危険、発掘方法の工夫、骨などの選別、年代測定など専門家の協力が大きかったようだ。
その後、科学論争の基礎知識はじめ人類の進化について詳しく述べられていて、少々戸惑ったが、これについて馬場氏が「解説」の章で説明してくれている。
そして問題の骨は発見された。そして、その特徴の分析、ホモ属かアウストラピクテス属(猿人)かなどの見極め、傍証固めなどの後、権威のある「ネイチャー」に投稿することが決定される。
発見が公表されると、大騒ぎになり9万8000のウエブサイトに書かれ、およそ7000の新聞に見出しになり、テレビの取材が殺到した。一方、この骨は小頭症の現生人類であるとの反論が持ち出され、今も論争が続いているという。また、反対する陣営にこの人骨が奪われるという事件も生じ、返却はされたが、ひどく損傷されていた。
下巻の「解説」の中に「人類進化という大きな謎を追い求める調査・研究の中で生臭い人間ドラマが展開されていたことに、ついつい引き込まれ・・・・・」とあるが、学問の世界、学会という世界の一面について触れられたような気がするのも確かである。

マイク・モーウッドはホモ・フロレシエンシスを発見したオーストラリア・ウーロンゴン大学の教授、ペニー・ヴァン・オオステルチイはサイエンスライター、監訳に当たった馬場悠男氏は国立科学博物館人類研究部部長である。

奈良貴史『ネアンデルタール人類のなぞ』岩波ジュニア新書、岩波書店2003年
上の「ホモ・フロレシエンシス」のほかに3万年前まで現世人類と同じ地域で暮らしていた人類がいたのは知っていたので、この際に読んでおこう、それには簡単なのがよかろうと選んだ本。ところが、その内容の豊富でレベルの高いのに一驚。岩波新書のフアンになってしまった。
著者は「何百万年も前の猿人から江戸時代の人骨まで、あらゆる時代の出土人骨をもちいて人類の進化、生活、病気、寿命などの、あらゆる歴史を生物学を基礎とした自然史学的手法と歴史学の一分野である考古学的手法の双方から再現することを「考古人類学」とよんでいる。
本書はこの考えにしたがうように書かれている。最初に出土した骨格と現世人類の骨格の違いからネアンデルタール人類の特徴を調べ、彼らは20万年前から3万年前までこの地球に生存していたと結論付けられている。彼らは主に洞穴に暮らし、大いに火を使い、動物の肉を食べていたようであるが、マンモスのような大型動物は食べていない。また、石器を作る技術をもち、木製の槍も発見されている。ネアンデルタール人類が暮らしていた時代は寒く、皮なめしの石器が見つかっているところから、毛皮をまとっていたのかもしれないとされている。言語はあったかどうか分かっていないが、仲間を埋葬する文化はあり、人骨とともに花粉のかたまりが発見されていて、死んだ仲間に花を捧げるやさしい心の持ち主だったようだ。どのような病気があったかは推測するしかないが、骨折のあとは数多く発見されている、そして、彼らは35歳くらいに死んでいたと思われる。このようなネアンデルタール人類は現世人類と同じ時代に、同じところに住んでいたが、なぜ消滅したのかは謎として残っているといるそうだ。面白い本であった。

今月の便り(2009年12月)

2009-12-30 07:56:18 | エッセイ・身辺雑記
今年は暖冬といっていましたが、暮れが近づくにつれて寒くなりました。お元気のことと思います。
12月になり、弟は中国に日本語の先生として出発しました。メールには中国の若い青年たちの目は輝いているとありました。例年と違うのはこれくらいで、今年も例年どおり、岩手の従弟、福島と長野の友人からはリンゴ、親戚からは洋ナシ、息子の嫁の里からはミカンと果物が溢れるようです。リンゴなどは5人家族の息子のところへクリスマスプレゼントと共に送るのも例年どおりです。
私は伸ばし伸ばしにしていた大腸の内視鏡検査を大きい病院で受けました。いつもだと1時間ほどかかる検査ですが、今回担当してくれたT先生の検査は15分ほどで終ったので驚きました。そう言うと「私は15分で終わることにしていますし、後進の医師にはそのように指導しています」とのこと。このような先生ばかりだと助かるのですが。私には小さいポリープがあったものの、病理検査でも問題なく無罪釈放。
今月のエッセイグループは早々と終りましたが、例年の忘年会はそれぞれの予定が詰まっているとか何とかの都合で来年に延期。皆さん忙しいようです。障害者支援センターの第1週は干し柿作り、私も作り、ベランダに吊っています。第2週は絵画教室。O先生の声でそれぞれクリスマスをテーマにした大きい絵ができました。最終の26日はクリスマス会。これにはカミさんも出席し、サンドウィッチ、ケーキで楽しいパーティー。参加者の楽しそうな顔をみているとこちらも幸福感でいっぱいになります。
お正月は東京の家族が来ないというのでがっかりしましたが、毎年台所仕事で忙殺されるカミさんには久し振りにゆっくり休めるお正月になり、それも良いかと思っています。息子の仕事で忙しいのと、年末年始の休日の配置が良くないのだそうです。
早いもので、今年も終りです。皆さんお揃いで良い年をお迎え下さい。

ぱそこん10年

2009-12-30 07:02:42 | エッセイ・身辺雑記
パソコン10年
 私の部屋の机にパソコンを置いてからちょうど10年になります。その間にパソコンを動かす基本ソフトは世の中の変遷に従って3回か4回変わっていますし、画面を見る装置もテレビのようなブラウン管から液晶になりました。プリンターは故障が多く、何回か交換しています。一度も買いなおしたことのないのは、絵のコピーなどに使うスキャナーだけです。3年前にはご多分のもれず、ウイルスにやられたこともありました。
 私は毎月、手製の小さいカレンダー、その月に書いたエッセイ、絵は私が、文面はカミさんが書いた絵葉書の三つを40人近くに送っています。せっかくの絵が手元に残らないのは惜しいので、スキャナーでコピーをとり、パソコンで処理して残しています。私のホームページはこのような絵、以前に作ったカレンダー、その月のカレンダー、エッセイのほか、その月の主なできごとをまとめたものを載せています。このホームページ、「ほっこりタイムズ」は2003年6月からと早くから始めましたので、今年の末に発行するのは96号になります。
開設して3年目になるのがブログです。政治家や芸能人をはじめ主婦などが大いに利用していて、評論や主張、個人的な日記などを公開しています。ブログを利用している人のことをブロガーというそうですが、私が利用しているプロバイダー(接続業者)だけでも130万人以上いますから、全国では何千万人にもなることでしょう。ホームページを作るにはソフトが要るし、操作も複雑ですが、ブログはソフトの必要もなく、普通の文書を作っていくような感覚で書き進められます。
ブログは私のほかに妹と弟が公開しています。妹のブログは妹の孫、中学1年生が作ったといいます。彼は学校のパソコン部員だそうですから当たり前かもしれませんが、今の子ども(?)たちの知識というか才能には感心するばかり、子どものいじめが問題になった時に話題になる「学校裏サイト」を作るなど簡単なことなのでしょう。弟も今年の9月にブログを開設し、大いに楽しんでいるようです。
私のブログは二つあって、一方の「私の絵葉書」は毎日のように描いている絵葉書に短文を添えたものです。どんな人かは分かりませんが、私のブログを見にきてくれる人は平均して一日約70人、コメントは少ししかありませんが、「毎日楽しみにしている」というのもありましたし、先月、息子の家に行き、ブログを更新できなかった日には「今日はお休みですか」とか「どうしたのか」というコメントが入ってきてびっくりし、休めないなと思ったものです。
もう一方のブログは「はるかな日、きのう今日」といいます。このブログには毎月書いているエッセイのほか、「今月の本」、「今月のお便り」というのが入っています。「今月の本」というのは、その月に読んだ本の読後感だったり、内容の紹介だったり、とあまりまとまったものではありませんが、自分用の記録として書いています。「今月のお便り」は、その月の主な出来事をまとめたものです。もう一つ、このブログで進行中なのは、私のエッセイ集『風が梢を渡るとき』以後からブログを開設した2007年7月までのものを入れています。このブログには一日およそ60人、多い時には80人が読んでくれているようです。このように、ブログで公開しなければ、そのままになったエッセイがたくさんの人の目に触れたのは幸いなことでした。
パソコンを始めて10年。パソコンそのものをはじめ、使い方まで面倒を見てもらったわが家の隣のUさんはじめ、たくさんの人に助けてもらいながらメールの交換、インターネットによる調べもの、ホームページやブログ、文章を書いたり、絵を描いたり、写真の整理など、と私の暮らしにパソコンはなくてはならないものになっています。今後、どのような展開があるのか、その前にパソコンの操作法を忘れてしまうのか、これはだれにも分かりません。
2009年12月

節分

2009-12-29 07:23:13 | エッセイ・身辺雑記
間もなく節分。どの神社でタレントのだれそれが豆を撒いたとか、参拝客が何万人だったとか、テレビや新聞を賑わすのが各地の神社での節分会です。関西だと、京都の吉田神社などがよく登場しますが、豆撒きが盛んな神社は、土地ごとに決まっているのでしょう。
「鬼は外、福は内」。「もっと大きな声を出しなさい」、と枡を持たされたぼくは言われたものです。玄関には、鰯の頭をさした柊の枝も飾ってあったはずです。昔の家は暗く、外はなおさら真っ暗で、目をこらしてみれば、本当に鬼がこちらを窺っているような気がしたものです。
豆も食べました。年の数だけ食べるのだと言いますが、子供だとわずかです。「あ、ごまかした。年の数よりたくさん食べた。」などと兄弟喧嘩をしながらの夜は、一体、何十年前のことだったのでしょう。
柊の木も近くには見当たりません。あっても、かつてのように黙ってもらってくるわけにもいきますまい。その小枝に鰯の頭をさすなどということは、だれもが忘れてしまいました。炒った大豆だと掃除に困るというので、殻に入ったピーナッツを投げる時代です。豆も味付けしたり、海苔をまぶしたのがあったり、といろんなのが売っているそうです。節分も商売の種になったということでしょうか。
鰯をむしりながら、テレビのニュースで各地の派手な豆撒きを見るというのが例年です。子供の時には、奪い合うように食べた豆も、年の数といわれても、そんなに食べられるものではありません。豆を撒くといっても、「鬼は外・・・・」という声が聞こえてくることもありません。外に向かって大きな声を張り上げるというわけにもいきません。
「鬼は外、福は内」と呟きながら、5粒ずつあちこちに置いて回るというのが、わが家の節分です。2階の仕事部屋、書斎のデスクから始まって、床の間、リビングのサイドボード、トイレの窓枠、玄関の靴箱の上などと丹念に置いていっても、たくさん残るものです。
机や窓枠に置かれた豆は、湿気を吸って膨れ上がったり、どこへ失せたか、一個だけになっていたりしています。掃除の手が及んだ場所から豆たちは姿を消していきますが、節分の名残が暖かくなるまで残っている場所もあります。袋にたくさん残った豆がどこからか出てくると、春は間近です。
節分のころが、冬でもいちばん寒い時です。どうか風邪などおひきになりませんように。暖かくして、柔らかい春の光を待つことにしましょう。では、また。
2001年1月



ハーシェイのチョコレート

2009-12-28 08:53:17 | エッセイ・身辺雑記
終戦を迎えた時、住んでいた町には日本軍の演習地がありましたから、戦後まもなく、アメリカ兵がやってきました。町の人たちは、遠巻きに眺めていましたが、彼らは陽気な若者でした。休みの日には、どこで借りてきたのか、自転車を連ね、大声で話しながら、走り回っていました。戦争で英語などほとんど習っていなかったぼくでしたが、片言が通じたのが嬉しくて、彼らとはすぐ仲良くなりました。
この町の中学校(旧制)の英語の教師だった父親は、通訳に徴用されました。ある夜、父親はお土産だと言って、板チョコをどっさり持って帰ってきました。「子供は何人いるか?と聞かれたので6人と返事したから、6枚」と並べます。今まで見たこともない大きさでした。甘いものなど口にする機会など全くなかった時代です。貴重品を食べるように口にしましたが、チョコレートというものがこんなに美味しいものだとは知りませんでした。中学3年生にも、それは「ハーシェイ」と読めました。
チョコレートをくれたのはボイルさん。中尉だということでした。何を調べていたのか、ジープであちこち走り回ったということですが、峠道を走っていた時、助手席の父親が「ここは古生代の地層が露出しているところだ」と言ったら、「実は、ぼくもそう言おうと思っていたところだ」とボイルさんが答え、それ以後、話は植物、動物のことと広がり、2人の会話は大いにはずんだそうです。この中尉さん、徴兵されるまでは、ハイスクールの理科の先生だったということです。
やがてアメリカ軍は引き上げることになります。父親は、妹の内裏雛をボイルさんにプレゼントした、と言います。このお雛様は、祖母が妹に買ってくれたものです。ボイルさんにチョコレートばかりか、コーンビーフまでもらったのは確かだけれど、戦争でお雛様どころではなく、節句だと飾ったこともないお内裏さんだったけれど、そんな大切なものを上げることはないと思い、それを口にもしました。しかし、父親は、「日本はアメリカに敗れ、軍隊も進駐してきたけれど、暴行も略奪も受けなかった。そして、この町にもアメリカ軍はやってきたけれど、何のトラブルもなかった。これは、隊長のボイルさんへの感謝の気持ち。個人から個人だけれど、アメリカへの感謝のしるし」と答えます。「そんな大げさな」とぼくは、納得できませんでしたが、後年になって、戦争に負けた国がどんな酷い目に遭うかを知りました。 50年以上も前の話ですが、この時期になると思い出すエピソードです。
今年は例年になく寒かった年、と言われていますが、ほんとうに「寒い、寒い」で過ごした冬でした。けれど、東大寺二月堂の「お水取り」がすめば暖かくなるといいます。それも間近です。もう少しのようです。では、また。
2001年2月


迷子願望

2009-12-27 09:47:50 | エッセイ・身辺雑記
悲しいことに、脳の細胞は毎日十万個ずつ消えていくのだそうです。それも、新しい記憶の詰まっている部分からだそうです。最近のことは忘れていても、昔のことなら昨日のことのように覚えているのが、その証拠です。それで、今回も何十年も前の話になりました。
小学校三年の時に住んでいた町と隣村との境には、大きな川が流れていました。川の向こうは、ぼくたち子供にとっては異境です。遠くへ行ってはいけません、という親の言いつけなど守れるものではなく、すぐ下の弟と冒険に出ました。
大きな橋をおそるおそる渡り、隣村へ行くと、景色が違うのにびっくりしました。いつも遊び回っているところは、桑畑が多く、その少し先には、川の堤を守る森が視界を遮っています。けれど、ここではレンゲ畑がどこまでも続き、そばには放水路だったのか、勢いの激しい水が音を立てて流れています。どちらも見たことのないものでした。少し先まで行ってみても、レンゲ畑と水路ばかりです。三年生と一年生は、遠くまで来てしまったのが急に心配になり、どちらからとなく、来た方向に足を向け、二人がものを言ったのは、いつもの風景に戻った時です。鮮やかなレンゲ畑でした。弟も覚えていると言います。
一人で別の村へ行ったこともあります。小さな町のこと、人家はすぐになくなります。人通りもありません。迷子がみんなからチヤホヤされているのを見て羨ましく思っていましたが、ここでは、とても助けてもらえそうにありません。道はどこまでも真っ直ぐで、埃っぽく、どんな景色だったかを全く覚えていないところをみると、何の変哲もない畑ばかりの風景が広がっているだけだったのでしょう。
暑くも寒くもない季節だったと思いますが、曇った日の午後でした。日がかげり出すのを感じると、心細くなります。暗くなる前には帰らなければと思い、どうしたら早く戻れるかと考えた挙句、思いついたのが線路を辿ることです。そのころのことですから、下駄だったのでしょう。歩きにくいのをこらえ、見なれた家並みが目に入るようになった時には、もう暗くなり始めていました。家に着いても、遠くへ行ってきたとは言えず、家のものも気が付きませんでした。
成人してからも、一人旅を何回か経験しました。もう一人で遠くへ行くこともなくなりましたが、しきりに見るのが一人旅の夢です。それも、どこにいるのか分からなかったり、お金を持っていなかったり、と困っている夢ばかりです。今のところ、途中で目が覚めますが、覚めなくなったら、どうしましょう?
梅は十日ほど遅れたそうですが、桜の開花は例年どおりだそうです。花が咲くと忙しくなります。皆さんは、どこで、どんな花を御覧になるのでしょう。どうぞお元気でお楽しみ下さい。では、また。
2001年3月


カンボジア

2009-12-26 08:51:14 | エッセイ・身辺雑記
アンコール遺跡群が見たくてカンボジアへ行ってきました。どの遺跡も想像を絶する規模で、壁面を飾るレリーフの美しさにも目を奪われました。遺跡は散在しているため、マイクロバスで移動して見て回ります。道の大半は舗装されていませんが、両脇には赤土が積んであり、それを広げている十数人のグループをあちこちで見かけました。雨期を前に土を広げ、道が流されるの防ぐのだ、とガイドは言います。そして、どういう意味なのか、今日は「労働の日」なので、人出が多いのだと加えます。
どのグループもほとんどが女性で、年配の人が多いようですが、若い人も混じっています。三十五度は超えていそうな暑さに、彼女たちは長袖のシャツ、頭に巻いた長い布、足首までのスカートといういでたちです。車の窓を通して撮ってきた写真をよく見ると、頭の布は赤いチェック、シャツは紺の縦縞、緑色のスカートは大きな花柄など、と皆さんなかなかお洒落です。
二日目の最後の寺院を見終わった時、バスが待っていた場所に近い道端の木陰で休憩している女性の一団がいました。道路の手入れをしていた人たちのようです。ガイドに少し待ってくれるように言い、そこへ行きました。一冊の本を渡すためです。
カンボジアの言葉と日本語の両方が書かれた絵本です。この国の民話をモチーフにした絵本で、日本のウサギとカメの駆けくらべと同様、ウサギとタニシが駆けっこをして、タニシが勝つという話です。カンボジアの子供たちに絵本を贈ろうというボランティアのグループが作った絵本で、友人の知り合いがその一員、ということで十年近くも前に買った一冊です。
バスから出てきたぼくを最初に見つけた若いお母さんらしい女性は、遠くから手にした本のタイトルがカンボジアの言葉であるのが分かったらしく、笑顔で迎えてくれました。近寄った時には、そのほかのお母さんたちも気が付いたようです。本を渡し、説明しようとしましたが、全く言葉が通じません。本を開き、両方の国の言葉を指差し、「これはぼくたちの言葉」「ここはあなたたちの言葉」と日本語で言うだけですが、集まってきた人の内、何人かが頷いてくれました。それだけで急いでバスに戻るぼくを追いかけるように、「バーイ」という声がしました。走り出したバスから振り返ると、皆が頭を寄せています。本を見ているのでしょう。死蔵されるだけになったはずの本がカンボジアで役に立つ、とは思いませんでした。
カンボジアは暑い国でした。乾期のためか、荒涼とした風景が広がっていましたが、だれもが人なつこく、多くの人が笑顔を見せてくれました。カンボジアは忘れられない国になりました。また行きたい国になりました。
常夏の国から帰り、花見をして、四季のある国のありがたさを感じました。これからは、緑の季節。どうか心地良い初夏を満喫されますように。では、また。
二〇〇一年四月

水を汲み上げる日

2009-12-25 08:28:32 | エッセイ・身辺雑記
ぼくが小学校から中学の前半を過ごした土地は、琵琶湖が近かったからでしょうか、梅雨時に雨が続くと、田圃の周りの水位はすぐ上がり、冠水することが多かったようです。残念ながら、ぼくはこの目で見たことがないのですが、このような田では、大きな魚がバチャバチャやっていることがよくあるのだそうです。学校へ行くと、今朝見たのは六十センチはありそうな鯉だったなどという話を聞きました。これほどの大きさになると、いくら抱きかかえても、捕まえられるものではなく、大きな鋸を持って歩き、魚の背中を一撃するのだそうです。鋸の歯が食いこんで逃すことはないからだ、と言っていました。
一度だけ、このような大きな魚と格闘したことがあります。戦時中、ぼくたち中学生は、動員という名で干拓という仕事をしていました。食糧増産のため、大きな沼を田圃にしようという工事です。まず、沼の周りに堤を築きます。そして、沼の水をポンプで汲み出します。
その日がきました。脛(すね)の半ばあたりまで水が減ると、大きな魚がウロウロしているいのが見えます。中学生といっても子供です。それは賑やかなものです。大きな魚が捕まるたびに歓声です。ぼくも足元にきた六十センチもありそうな鯉に抱きつきましたが、相手は必死です。体を左右に振ってもがきます。しかも柔らかい泥でヌルヌルです。たちまち逃げられてしまいました。
鯰も大きく、もっとヌルヌルなので駄目でした。仕方がないので、ほかの連中には人気のないギギにしました。鯰に似たこの魚は、三十センチほどで、動きが鈍いので、捕まえるというより拾って歩きます。ただ、背鰭に鋭い棘があり、毒を含んでいるので、用心しなくてはなりません。刺されれば、強い痛みが続くので、棘の先に触れないように捕ります。
歓声は続き、かなり収穫のあったのもいるようです。何といっても、小さい時から魚とのツキアイの長い地元の子です。大きくなってからこの地へきたのはかないっこありません。せっかく魚が捕れたのに、悲しいような気持ちで、ギギを何匹か下げて帰った日、母親が蒲焼のようなものを作ってくれました。
十年ほど前だったでしょうか、動員で働いていたあたりを通ったら、沼を中心にした公園のようになっていました。工事の途中で終戦になってしまいましたから、田圃になることなく、沼に戻ったのでしょう。
六月は、梅雨の季節です。この季節、いやに冷えびえした日があったりします。どうかお体に気をつけてお過ごし下さい。では、また。
2001年5月


ちまき

2009-12-24 08:34:03 | エッセイ・身辺雑記
祇園祭を見に行った近所のお嬢さんが「ちまき」を買ってきてくれました。 お土産にもらった「ちまき」は、七、五、三の千歳飴のような大きい袋に収まっていて、その白い袋には「厄除 ちまき 祇園祭」、「四条町 大船鉾」と朱書してあります。ちまきは、米の粉で作った餅を笹の葉で包んだものですが、祇園祭のものには餅が入っていません。
この春、カンボジアのアンコール遺跡群を見に行った時、泊まったホテルの食事は、バイキング形式になっていましたが、その中にカンボジアのデザートというコーナーがあり、何種類かが並んでいました。その中にバナナ(?) の葉で包み、名古屋の「ういろう」のように白くて甘味も少ないものがありました。もう一つは、これより軟らかく、茶色で、肉桂のような香りがつけてあり、もっと甘く、もう一つは、胡麻豆腐のように柔らく、少し粘り気があって、かなり甘く、表面だけ緑色に着色してあったように思います。どれも、お米で作ったもののようです。カンボジアは、お米の国でした。
異国のものなのに、昔の日本のおやつに出会ったような気持ちが嬉しくて、毎日食べていました。このデザートをすすめてくれたウエイターに「カンボジアの子供も、これを食べているのか?」と聞いたら、「イエス」と答えていましたが、ぼくの怪しい英語が通じていたのかどうかは分かりません。隣国のタイでは、道端の露店やマーケットに、いろいろなお菓子がこれでもかとばかりに並んでいますが、カンボジアでは、あまり見かけなかったような気がします。
遺跡へ行くと、どこでも「1ドル、1ドル」と言いながら観光客に群がる土産物売りの子供達。持ってきた飴を上げようと、袋を取り出した時、競うように差し伸べられたいくつもの手。空になった袋を欲しがった小さな女の子の真剣な顔つきは忘れられません。飴を口にしても、どの子も無表情なのは、なぜなのでしょう。
町から離れた遺跡に向かった日、土埃の舞い上がる道で見た水汲みの親子。小さい女の子もバケツを下げ、お母さんの後を追っていました。遠くまで家など見当たらない長い道を一人で歩いている男の子はどこへ行くのでしょうか。下の子のお守りをするお兄ちゃん。高床式の家の下でニワトリやブタと遊ぶ真っ裸の男の子。
この子たちは、どんなおやつを口にしているのでしょう。立派な袋に入った祇園さんの「ちまき」を眺め、溢れんばかりのお菓子やおやつに囲まれた日本の子供に目をやる時、思うのは、遠い国、カンボジアの子供達です。
梅雨が明ける祇園祭のころは、不快指数のいちばん高い時期です。七月は本格的な夏。夏にまけないよう、お元気でお過ごし下さい。では、また。
2001年6月


8ミリ映画

2009-12-23 07:06:32 | エッセイ・身辺雑記
8ミリ映画というものを御存知ですか?アマチュアが作る映画、というより動く写真です。幅8ミリのフィルムを使うので、8ミリとよばれていました。
何を探していた時だったか、本棚の引き出しを開けたら、15本もの8ミリフィルムが出てきました。映写機もなく、見ることもできないのだから、捨てようかと思いましたが、「8ミリをビデオテープにしてくれるところがあるらしいで」、とF君が言っていたのを思い出したので戻しておきました。
ところが、その8ミリをテープにするところが分かりません。コンビニの店先に「8ミリをVHSにします」という看板が目にとまったので、聞いてみると、8ミリというのは、家庭用ビデオカメラの8ミリテープのことで、8ミリフィルムって何?という返事。
次に思いついたのが、DPE(写真)ショップです。ここでも8ミリフィルムの話は通じませんでしたが、その内、年配の人が分厚いカタログ集を持ってきて、「できますが、東京へ出しますので、時間がかかります、費用はこれこれです」ということでやっとテープになる見込みがつきました。1ヵ月ほどかかりましたが、モノクロームの分が1本、カラーのが1本でき上がってきました。
カラーフィルムの箱には年月日と場所がメモしてありましたが、モノクロのものには、何が写っているのか分かりません。再生してみると、新婚旅行の時の記録があったのでびっくり。カメラもだれかに借りたのでしょうが、それがだれだったのかも忘れてしまいました。新婚旅行なのに、風景ばっかり撮っていて、カミさんが登場するのは、ほんの一瞬。何てこった!
カラーフィルムの1本目はE君が撮ってくれたもので、タイトルまで入っている入念な作品。まだ1歳前の息子が離乳食を食べさせてもらっているシーンがあります。食べさせているほうも口を開けているのには笑ってしまいます。当時の8ミリカメラは、録音ができませんから、何か言っているらしいのに、何も聞こえないのがとても歯がゆく、残念でなりません。
続けて見ていくと、いつも息子と手をつないでいる姪のFちゃん。琵琶湖で泳いだり、ボートを漕いでいる父親。たくさんの孫たちに囲まれて楽しそうなその笑顔。着物姿の母親。スマートな妹。肥っているカミさん。30年も40年前もの光景に驚き、笑い、テープはやがて終わります。どなたにも、秘蔵の写真やテープがあるのでしょうが、この2本のテープはぼくたちの宝物になりました。この夏休みには、息子たちが帰省するそうです。このビデオテープを見せたら、どんな顔をするのでしょう。それが楽しみです。
いよいよ真夏。暑い、暑いが毎日の挨拶になる日々が続くことになるのでしょう。暑さに負けず、楽しい夏だったと言えますように。お元気で。では、また。
2001年7月