はるかな日、きのう今日

毎月書いているエッセイ、身辺雑記を掲載

今月の便り(2022年5月)

2022-05-30 06:12:45 | エッセイ・身辺雑記
今月の便り(2022年5月)
 五月の連休となりコロナも少し落ち着き、行動お制限もなくなり大勢の人が移動。新幹線も空も満席に近い大賑わい。年寄りはラジオ体操に行くくらい。私は人の薦めで介護保険の要介護1級を申請したため、包括センターの人や市役所の人に質問攻め。嫌な思いをした月になりました。
 5月11日
 「自分史を作ろう会」の例会の日。Iさん(同年の友の近況)は92歳になる筆者の友人の近況を書いていましたが、電話をくれる人があって四方山話をしているとあまり歩けなくなった人、認知症になった人をと超高齢化時代の断面を知り、その一人である私も怖くなります。Aさん(ゴルフの思い出⑫69歳。38年間のゴルフにさようなら)は今までゴルフで優勝した話を聞かされてきましたが最終回。最後のゴルフまでのゴルフの喜び、腕が落ちたと言われた悲しみの後の決断。よくきっぱり止めたものだと驚きました。Nさん(久しぶりの出合い)は孫二人が一泊二日で来た時のエピソードの数々。歴史の好きな孫娘とは石山寺、義仲寺、三井寺などを巡り。翌日は信楽に行きマグカップでも買うと言うとケーキが良いと。空港へ送りに行くとウクライナからの避難民の到着で混雑。本当に楽しい、慌ただしい、貴重な二日間で会ったと結んでいます。Kさん(ハプニング)はベランダに洗濯物を取りに行き転んだと時の気持ちを「一人で笑いだしてしまったが、そのうちたったこれだけことでと悔し涙が出てきた」と書いています(分かるなあこの気持ち)。
 5月11日。サークルのIさん(男性)が胃がんのため滋賀医大で手術。もう一人のIさん(女性)は5月19日、滋賀医大で緑内障の手術。
 例会で7月には懇親会をという話が出ていましたが、どうなるでしょう。
[今月の本]
 村上春樹『おんなのいない男たち』、文藝春秋、2022年10刷、ハルキストと呼ばれる友人に貰った本。その中の映画にもなり話題となった「ドライブ・マイ・カー」も読みましたが妻の不倫も知っている俳優が自家用車専属のドライバーに話すというストーリー。セックスもそのテーマの一つ。現代の小説はこういうものかという感もありますが極論を言えば嫌な小説。

 暑い日で過ぎていく五月ですが来月は梅雨。嫌なシーズです。お互いこの晴れ間を楽しみたいものです。では、また。

今月のエッセイ

2022-05-29 06:11:09 | エッセイ・身辺雑記
  小さな桟橋
 自分でも信じられないくらいなのですが92歳になります。生まれたのは昭和5年(1930)6月17日です。その場所は霞ケ浦の湖畔、茨城県行方(なめがた)郡麻生(あそう)町(現行方市)です。
 当時大学は出たけれどと歌われた昭和大不況。父親がやっと見つけたのがこの町に新設された中学校(旧制)の英語の教師。両親とも卒業したばかり、新婚旅行が赴任のための旅。そして着任直後から新学期。住む家も定まらず旅館住まい。新婚の二人は学校でテニスをしていたといいます。
 私の名前、徹は父親が在学していた山形高等学校(現山形大学)の安斎 徹教授の名前から借りたのでそうです。この先生は蔵王の樹氷の紹介者、東北の山の開発者といわれ、父親もこの先生の指導で東北の山は全部登ったと言っていました。
 私は生まれたこの町に3歳までいたそうですが、どんな所か全く知りませんでした。が、二十年か三十年後に勤め先の社員旅行の水郷巡りの旅行の際この麻生という町を通り目にしたのは霞ケ浦にかかる小さな桟橋です。ああ、ここが私の生まれた町だなあという感慨もなく通り過ぎるだけでした。
 次に住んだのが茨城県結城(ゆうき)郡水海道町(現常総市)。ここを通っている軽便鉄道で取手、その先は常磐線で先に進むと東京ですがこの町の周りは桑畑、その先はどこまでも続く雑木林。
 父親はこの町を流れる利根川の支流で一緒に泳いだりその防護林の蛇に怯えたり。休みの日にはよく映画に連れてってくれました。野蛮人が道に迷った白人の探検隊を襲い、捕虜が縄につながれ火あぶりになりそうになるとターザンと言いましたか強い男が来て皆を助けるというストーリーでした。
 本も「小学3年」というような少年雑誌を購読していました。毎月の漫画「ノラクロ」とか「冒険ダン吉」をはじめ「敵中三千里」や「海底二万哩」という長編小説に夢中になったものです。
 そうそう小学校の時の仲良しはお寺の大場みどりちゃん。いつもお寺の庭で遊び、雷の日には二人で布団にもぐり込んだものです。
 昭和15年4月、近江今津町(現高島市今津町)に引っ越しました。今でこそテレビの普及で方言も少なくなりましたが困ったのは茨城弁です。先生に教科書を読まされても滋賀県でのアクセントとは全く違います。みんなで真似をして笑います。いわばイジメです。
 家の前に住んでいたのは中学の数学の先生。東京弁で話すお嬢さん。矢野富美子さんは私のあこがれの人。話しかけられたこともなく、こちらから話すこともありませんでした。ただ、一度だけ家の近くの菜の花畑でかくれんぼうをしたことがありましたがやがてお父さんの転勤で横浜に行ってしまいました。
 やがて16年12月8日の開戦、大本営の発表に胸を躍らせる軍国少年が大きな機関銃の絵を描いたのを覚えています。
 そして中学(旧制)に入学。一年かもう少しは授業がありました。東京から来た英語の高木先生は快活で楽しい先生でしたが軍に徴用されていなくなりました。高知県からの山崎先生は国語の先生、いつも私の作文を褒めてくれましたがやがて出征。
 戦争は進むにつれて本屋さんの店頭から本が消えていきました。父親の本棚は英語の本ばかり。やっとみつけつけたのはH・G・ウエルズの『世界文化史体系』。恐竜の話を面白くて何回も読み返したものです。
 その内、勤労奉仕という農家の手伝い。食料増産のためという沼の干拓。その最中に終戦。学校に行けるのが嬉しくてたまりませんでした。
 社会人になって東京や大阪に長らく住みましたが、霞ケ浦のほとりで生まれ、びわ湖湖畔の近江今津、大津で時を過ごし、終の棲家がびわ湖の岸、草津で三十数年。思えば湖に縁の深い私です。今も広いびわ湖のどこかに小さな桟橋が私を待っているのかもしれません。それはどこにあるのでしょう。私はその小さな桟橋からどこへ行けばいいのでしょう。
2022年5月
        

今月の便り(2022年4月)

2022-04-29 06:18:51 | エッセイ・身辺雑記
今月の便り(2022年4月)
 昔勤めていた時には4月というと人事異動でいろいろ大騒ぎしたものですが今から考えると何やらばかばかしいような気もします。それに寒いのやら暑いのやらの4月が始まりました。
 4月4日
 近くの公園の桜満開。私の外に花見客などなく桜の下でぼんやり。例年ですと鎮守様で花見のパーティーがあるのですがコロナのためそれもなし。春は過ぎていきます。
 4月10日
 町内の清掃、私の周りでは側溝のどぶ掃除。年寄りの私は軽作業のお手伝い。側溝の中に入り泥を上げる人達のご苦労を思います、
 4月13日
 「自分史を作ろう会」の例会。Aさん(ゴルフの思い出⑪上笠ゴルフ・クラブ)は地元のゴルフ・クラブでの活動。いつものように優勝した記録(苦笑)。ゴルフ仲間からお墓や貸農園の斡旋などがあったそうな。知らないような懸賞化稼ぎの侵入で止めたそうですが。Kさん(山笑う)は一人だけの孫の思い出などを連ねていますがよくありがちなメロメロ調でなくししっかりした文章はいつもながら立派。Nさん(町内の寄り合い)が現自治委員から資料のパワーポイントによる説明があったが高齢者からは紙資料が欲しいと不平満々。現代の社会の一面がとり上げられていて秀作。Iさん(3月に思う)は福島県沖を震源とする地震のニースからこの会の十周年記念に書いた東北大震災の際、仙台に電話が通じなかったこと通じてほっとしたと書いた記事を思い出してこのような記録は大事だと改めて痛感したと書いています。Fさん(如月)は立春から雨水、畑からなる文章。この会での初作品。原文をどう書き直したかなぜ、どのように直したかなど説明。今後の発展を願っています。
[今月の本]
 寺田寅彦ほか『教科書名短編 科学随筆集』中公文庫、中央公論新社2021年
 久しぶりに読んだ科学の本。教科書に掲載された寺田寅彦はじめ7人の著名な科者の書いた文章。
 冒頭の寺田寅彦氏の科学者の「科学者はあたまがよくなくてはいけない」。「科学者はあたまがわるくなくてはいけない」に始まり湯川秀樹氏の詩、古跡巡りの話、難しい数学の式などどれも面白く読みました。日高敏隆氏のチョウが飛ぶ道の綿密な観察、長期にわたる観察における仲間との共同作業など感銘深い文章の数々に圧倒されました。

 来月初めからは連休。人出が増えているようですがコロナ感染者の増加につながらないようにと思っています。皆さんにもいろいろ計画があるのでしょう。どうぞお楽しみ下さい。では、また。

今月のエッセイ

2022-04-28 06:32:22 | エッセイ・身辺雑記
 草津川
        桜並木 
 滋賀県には天井川が多いように思います。天井川というのは豪雨の際
に上流から多量の土砂が流れ、河床がどんどん高くなり洪水を引き起こすので堤防を作ることになり、高いところを川が流れるようになるのです。その高さというと草津の場合、草津川の下のトンネルをJRのびわ湖線の電車が通るほどあります。もちろん今は付け替えられて新草津川となり旧草津川に水が流れることはありません。
 桜の季節、草津の名所となると草津川の堤防です。草津に移り住んだ頃には毎年のようにここの花見に出かけたものです。自転車の前バスケットにはサンドウィッチと魔法瓶のコーヒー。堤防に上がるのはどの道もけっこうな坂です。やっと上がるとどの桜の下もお客さん。先のほうにまで続く桜並木の下では家族やお仲間が食べたり飲んだりこれぞお花見という光景です。向こう岸大きな桜の下のでは大勢の人が円陣を組んでのお食事。
 私達も隙間を見つけて一休み。持ってきたサンドウィッチを食べ熱いコーヒーで一息。私のスケッチが終われば、もう帰ろうかになります。何年か続けてはいましたがしばらくご無沙汰している内に草津川の桜がたくさん切られているという噂。ソメイヨシノの寿命がせいぜい六十年だからと言います。
        草津川跡地公園
 古くなった草津川をどうするかという論議が始まりました、大きな道路にするという提案は住民の反対で消滅。堤防を壊して平地にし、広い住宅地にしてはという話も出たそうですが、壊した堤防の膨大な土をどこに持っていくのかという問題が出て立ち消え。その内、日本一長い公園にという提案が脚光を浴びるようになりました。長い跡地をいくつかの区域に分け、それぞれを特徴のある公園にしようということですがそれが成功したと思えるのはde愛の広場ではないでしょうか。
 大きな広場、何らかのイベントに使える小さな建物、大きな舞台、さらにレストランもできました。ここに来る人達のための駐車場、駐輪場はもちろんあります。
 4月29日、市全体のお祭り「宿場祭」の日に出かけたことはあります。ある年には当地の郷土芸能「さんやれ」。「さんやれ、さんやれ」という歌声と笛や太鼓の伴奏で大勢が躍るというものですが地区のよって違うのを知りました。ある年はどこだったかの県が地方色豊かな踊りを見せてくれましたし、大きな編成の吹奏楽団の演奏に耳を傾けたこともありました。
 草津市の秋の行事に「街灯り」がありました。これは街のあちこちを手製の「灯り」で飾ろう、いわばイルミネイションですが、ある年、たくさんのボランティアがこの草津川跡地公園の大広場を1万本の蝋燭(ろうそく)で埋めようとの活動で作った「銀河」が見たくて自転車を走らせました。確かに目の前には「銀河」が広がっていてその美しさに言葉もなく眺め、帰途を急ぎました。
 かつて草津川の堤防に上がるのは急な坂に自転車を押してえっちら、えっちらと登りましたが、今、草津川跡地公園のde愛の広場に行くのはエレベーターです。自転車ごと乗って3階のボタン、ドアが空けばde愛広場、自転車を駐輪場に置けば手ぶらであちこち。何とも楽になりました。
 桜の時期を過ぎているからか、あの桜並木に目が向きません。今になって省みるとあの花見、あの熱気、あの楽しさはどこへ行ったのでしょう。便利になり楽になり、なぜか何か空々しい気持ちが忍びこんでくるはどうしてでしょう。
 ここ何年になるのかコロナウイルスの蔓延(まんえん)で外へ出てはいけません、どのイベントも中止ですという時代になりました。私も足腰の衰えで遠くに行けなくなりました。
 草津川も遠くなりました。けれど、今年も桜は咲きます。近くの公園で一面に開く花の下でしばらくぼんやりしてみようと思っています、
二〇二二年四月

今月の便り(2022年3月)

2022-03-30 06:29:18 | エッセイ・身辺雑記
今月の便り(2022年3月)
 3月に入って暖かくなるかと思えば真冬の寒さに戻るなど天候不順の日が続きます。
当地のコロナ感染者はあまり減りません全国的には減少、21日には全国の蔓防が解除になりました。
 3月1日
弟が草津市立水性植物公園みずのもりに連れて行ってくれました。テレビのニュースでも取り上げられていた様々な色形のアイスチューリップがたくさん咲いていました。アイスチューリップというのは球根を凍らせた後解凍するとチューリップが開花の時期を間違えて早く咲くのだそうです。その後、ロータス館(大温室)でいろいろな熱帯植物を見ましたが石油の値段高騰の折、大変でしょうね。
3月7日
地元の老人会のバスツアー。コロナのせいか参加者は17名とわずか、行先は京都山科の随心院。大きなお寺の廊下を回りながら庭や襖絵などを拝観。ここの呼び物の梅林はまだ咲いていないというのでまだ閉園と残念なこと。昼食は中華料理店、その後淡海環境プラザでの講演を受講。滋賀県南部という広大な下水道から集まってくる
汚水の微生物による処理など興味深く聞きました。見学はマンホール。奇抜なものを含めてデザインは様々、面白く見ました。
 3月9日
「自分史を作ろう会」の例会。Nさん(野口謙蔵生誕120年)は滋賀県蒲生の画家野口謙蔵の略暦や見てきた作品の感想を述べていましたが自身が画家であるため、その批評には説得力がありました。女性のIさん(体温計)は新式の体温計を問題なく使っていたが寒くなってきたらエラーがでるようになり販売店と話しあううちに測定する部屋の温度が低いとエラーが出るのだということが分かるまでのエピソード。こんな小さい出来事をきっちりまとめる力に感服。Aさん(孫智哉関大に合格)は孫が関大に合格したことで多くの人から寄せられる祝福や祝い、小さい時からの成長と喜びにあふれた一文、この青年がいつかこの文を読む日が待たれます。Iさん(プーチンの侵略戦争)は現在報じられているニュースの展望。自分史を書き続けていく際の1ページとして大切だと思います。Kさん(幼なじみのこと)はある日見た夢に登場してきた幼なじみとの思い出で書いていますが最後に多くの人たちと知り合いになり助けをいただいたのだと夢に感謝、夢に中にいてくれた人々に感謝と結んでいます。

[今月の本]安野光雅ほか編『子ちくま文学の森3 幼かりし日々』ちくま書房1988年
再読
 様々の人が過ごした幼い日の数々。どれを読んでも皆さんそれぞれにユニークな日があったのだと感心。中でも覚えていたのは宮沢賢治『風の又三郎』、林芙美子『風琴と魚の町』、ヘッセ『クジャクヤママユ』ですが、宮沢賢治の作品は何度読んでも良いなあ、あのユニークな表現が良いなあと思うのです。林芙美子の言葉使い、情景の描写にも引き込まれます。

 いよいよ春本番。桜の開花が待ち遠しい日です。コロナ感染者も減少傾向。どうぞこの春をお楽しみ下さい。では、また。

今月のエッセイ

2022-03-29 06:27:19 | エッセイ・身辺雑記
  お雛様
 手元に二十枚近くの写真が残っていました。これは2016年3月に地元の老人会のバスツアーで梅を見に行った時のものです。行先は大津市の和菓子店叶匠寿庵(かのうしょうじゅあん)が保有する寿(すない)長生の郷(さと)という梅林です、ここで和菓子の原料になる梅や柚子を育てているのです。この梅林は一目千本といわれるほど大きい梅林で観光梅林として有名です。
 広い梅林を歩き終わって気がついたら小さな建物があります。これが「雛人形館」、案内によると享保雛や古今雛が百二十体、雛道具が百種類ほどあるのだそうです。団体旅行の常で足早に通りすぎたり暗かったりするので写真はきれいには撮れていませんが何枚かを眺めてみましょう。
 最初は御殿飾りと言うのか大きな御殿にお内裏様、その廊下には五人のお役人(あるいは衛士)がお守りをしています。これも御殿飾りでしょうか大きな部屋にお内裏様、前には官女の姿も。表示はありませんが古いもののようです。十二単衣、細い眉、筋の通った鼻筋、少し開いた口元に気品が漂います。子どもの人形もあります。可愛らしい男の子です。床に座り差し出した両手の先にあるのは車のついた玩具のようです。
 そうそう、わが家のお雛様のことを書くつもりで始めたのに横道にそれていました。 
 わが家ではお雛様を飾るのが年中行事になっています。今年は二月二十三日に飾りました。カミさんがこの日が大安だからと言います。
 わが家の雛壇は三段飾りです。座卓の上に骨組みを立ていくのですが毎年なのにその方法がなかなか思い出せず取説など騒いでいます。赤い毛(もう)氈(せん)を張ってまずお内裏様。お内裏様は二階の大きな箱に入っていますので下ろせず抱いて下ろします。その他、屏風(びょうぶ)、雪洞(ぼんぼり)などのほか菱餅、紅白の餅、鏡台、箪笥、御所車などの小物。その他、息子が小学生だった時に作った七段飾りのお雛様。薩摩雛のように頂いたもの、手作りのものなど賑やかになります。
 さて、どうして娘のいないわが家にお雛様かです。かなり前になりますがカミさんの親友Tさんが「娘がマンション暮らしだから要らない、と言っているので処分しようかと思っている」のを聞いてカミさんが「うちに下さい」と言いわが家にお嫁入りしてきたのです。
 飾るのは道路に面した和室です。この道は通学路でもあり近くの人たちがごみ集積所に行く時にも通る道です。
 滋賀県日野町では町中で「座敷窓」と言って座敷の一部を区切り雛壇が道から見えるように飾る雛祭りをするそうですがわが家のも「座敷窓」の一つかなどと密かに思っています。
 雛壇を出した次の日には早速「今年も出してくれたのですね」など言われます。子どもたちは登校の際には道を急いでいますし、帰り道は遊ぶのに余念がありませんからあまり見てないようですが、保育園のお散歩の時間には保育士のお姉さんが歌いだすと子どもたちも「お雛さん並んだ・・・」と続けます。
 このお雛様を見た人はだれも「このお雛様は良い顔をしていますね」と言います。このお内裏さんを譲り受けた時にいつ作られたものかを聞きませんでしたが娘さんの年などから推しはかって昭和の中頃、その顔もその時代のものでしょう。
 まっすぐ前を見る澄んだ目、遠くを見つめる目、半ば開いた唇。良い顔をしたお内裏さんです。「雛人形館」で見た古い時代のひどく緊張した顔、どこか憂いを含んだ顔とは少し違うような気がします。
 先日、信楽のお雛様作りのニュースを見ましたが、その顔は丸顔、笑みを浮かべたまことに可愛らしい顔です。時代のようです。ネットで新作のお雛さんを見たらやはり丸顔でにっこりでした。
 暗くなってきました。前の道を通り過ぎる人もいなくなります。雪洞のライトを点けましょう。昼間賑やかだった雛壇も夜を迎えます。
 雪洞のライトのスイッチを切ると私のお喋りもおしまいになります。
2022年2月

今月の便り(2022年2月)

2022-02-28 06:38:31 | エッセイ・身辺雑記
今月の便り(2022年2月)
 寒い2月です。私だけの感覚ではなく他の人もそう言っていますので確かでしょう。北の方ではしきりに雪が降りテレビの画面を賑わせています。当地でも降ることありますが1センチかも少しという程度。節分には恵方巻を食べて通過。もうこの月も終わろうとしています。寒いと言いながら毎朝のラジオ体操には参加しています。
 2月9日
 「自分史を作ろう会」の例会の日。この日、この市民センターの毎月のニュースに連載されている各部の活動をということでここの職員さんの取材がありました。調べてみると私たちの会は始まって20年。皆が改めて感心。昔話に花が咲きました。
 男性のIさん(運転返納証の返納)は34歳から50年利用した車の免許証を返納した日の様子や長い歴史の披露。特に子どもが誕生し保育園に送り迎えのエピソードなどは当時の世情なども読み取れて興味深く感じました。最後に自転車では行動範囲が狭くなったという部分では筆者の寂しさが滲んでいるように思います。自分史は結局自慢話と言う人がいるそうですがAさん(ゴルフの思い出⑩200人の大コンペで2位に)にもその傾向が強いのですが、このゴルフ大会に至る時代の詳細な描写は筆者の歴史を鮮やかに反映している点は良いと思います。Kさん(令和4年)は神奈川から引き上げてきた娘さんと暮らすようになった際の戸惑いや喜びなどをこの人ならでの筆致で描いていました。Nさん(心の痛み)は17歳の少年がタバコを吸っている男性に「タバコを吸うのを止めてもらえますか」と言ったところ逆に暴行を土下座させられていたというテレビのニュースを見て感じたことズタズタになったろう少年を思いやる気持ちを述べていますが、気になりながらいつか日常にもどっていたという文末は共感するところ大でした。女性のアマチュアカメラマンIさん(写真展)は写真展で過ごした一日を過不足なく書き、当日取材写真撮影があってその写真が翌日の新聞に掲載された驚きと喜びを面白く紹介していました。
 2月10日
 3回目のワクチンの接種を受けました。当日は何らの症状もなく過ごしましたが翌朝発熱37.7℃。その日は一日倦怠感というのかしんどかったのですが。次の日には回復していました。
 2月23日
 わが家の雛壇をセットする日です。寒いと言っていますがやはり春らしい景色になります。道路からも見えるように置いていますから声をかけてくれる人も。
 [今月の本]
安野光雅ほか編『おかしい話』ちくま文学の森④再読、筑摩書房一九八八年
 いつものように日本人作家の小説を読みましたがまあ何というのか、おかしい人、変わった人、妙な人はいろいろいるものだと改めて感心。何となく付き合い読み終わっていたというところ。

 コロナ、オミクロン株のよる感染者は幾分減ってきたと言いますがまだ多く、死者、特に高齢者の死亡が急増していると言います。私も3回目のワクチン接種を終えたもののまだ不安が残ります。3月7日に地元の老人会のバスツアーがありますがどうなるでしょう。皆さまも十分留意してお過ごしになりますように。では、また。
                                                                                                                                                                      


今月のエッセイ

2022-02-27 06:45:12 | エッセイ・身辺雑記
  江(こう)若(じゃく)鉄道
 NHK日曜日朝6時台に「10分で巡る日本の廃線」という番組があります。かつて日本中に張り巡らせていた鉄道の姿、その車両、乗務員さんたちの働き。乗客、最後の日の風景などが映し出されているのです。鉄路を走る汽車や電車などの凛々(りり)しい姿。乗客のおじさんお婆さんの笑顔。最後の日に運転手さんに花束を渡す女の子、大好きな番組です。
 番組は東北地方、近畿、北海道などと進みます。近畿地方の日、懐かしの江若鉄道が紹介されていました。それはびわ湖の大津港のそばの浜大津から終点の近江今津(現高島市今津)までを走るいわば軽便鉄道です。その名前は最初、近江から若狭を結ぶ鉄道の予定だったから付いた名前だそうです。番組ではびわ湖湖畔を進む車両、びわ湖の風景、京都や大阪から近い水泳場、近江舞子に行く乗客で混雑する浜大津駅の様子などが登場していました。
 この路線で人を運ぶのは1両のガソリンカーです。ディーゼルカーは軽油を使いますがガソリンカーは自動車と同じようにガソリンを使います。出発点から終点までのおよそ50キロを行くには1時間半くらいだったかな。
 初めて乗ったのは昭和15年3月、父親の転勤の際です。この線は今の道路と同じようにびわ湖の岸辺を通りますので海を見たこともない茨城県生まれ茨城育ちの弟たちはその広い水面を見て「海だ」とか「いや湖だ」などと叫びます。それに目的のびわ湖の北端に近い近江今津に着くと、この雪深い町では道路脇に積み上げられた雪が残っています。雪のない茨城から来た弟たちは大興奮。一人は浜へ行ってくると走り出し、なかなか戻ってきませんでした。
 この町に住み始めたのは小学4年生の時でしたがやがてアメリカとの戦争が始まり私も中学生(旧制)。せっかく登校しても授業など僅か。農家の男たちが戦争に取られて人手がなくなったのでその手伝いに行けということです。田畑の仕事などしたことのない何人かが江若鉄道の三駅か四駅先まで行って農作業です。田圃の草取り、稲刈り、何でもやりましたが辛かったのは麦刈りです。体中が何時までたってもチクチクするのです。嬉しかったのはその頃貴重品になっていた白米の御握りが出ることでした。いつも午後早くに終えて帰るのですが、終点の近江今津駅の改札口をだれがいちばん早く出るかの競争です。
 私たちの住んでいた滋賀県北部の町は戦争中でも都会に比べれば食料は豊かな上、びわ湖の魚もよく獲(と)れていたのでお米や焼いて串刺しにした魚を大津の祖母に届けるのが私の役目でした。途中のびわ湖に鳥居の立つ白髭神社の前を通る時には誰もが手を合わせるので私もお辞儀(じぎ)。浜大津には京阪電車の京津線の電車が走っているので車掌がポールを上げたり下ろしたりするのを見た日はラッキーと一人で大はしゃぎ。困るのは冬だと県の北部では雨や雪が多いので長靴を履いて出かけますが南部の大津ではだれも長靴など履(は)いていません。恥ずかしくて急ぎ足になったものです。
13歳の夏です。戦争の敗色が濃くなると田舎でも食料は容易に手に入らないようになりました。大津の祖母への配達もだんだん間遠になってきてこれが最後の便になるかもというお使いに出ました。
どういう都合だったか夕方おそく浜大津を出て、終点の今津までの中頃、ガソリンカーは突然止まりました。その時分、こんな田舎でも空襲警報が出るようになっていたのです。もちろん車内は真っ暗。
四人掛けの座席の前はどこから乗ったのか大学生のようなお兄さんとお姉さん二人が肩を並べ楽しそうなお喋(しゃべ)り。私は何時か眠りに落ち、ふと目を覚ますと二人はいません。どこでこの人たちを降ろしたのでしょう。外は怖いほど明るい月夜。私は再び眠り終点まで目が醒めませんでした。13歳の夜。江若鉄道の夜。私の銀河鉄道です。
車社会になった昭和44年、この鉄道、ガソリンカーが走っていた江若鉄道は廃線になりました。
その後、びわ湖の西岸は大阪発、北陸へ行く特急「サンダーバード」が高架の鉄路を通り抜けて行くJR湖西線になりました。
2022年2月

今月の便り(2022年1月)

2022-01-30 06:49:05 | エッセイ・身辺雑記
今月の便り(2022年1月)
 今年は寒い年になりました。毎日が西高東低とかで風が強く時たま雪も。また14日には10センチほどの積雪が。いっぱい着込んでも寒いのは年のせいかもしれませんが。
◆今年のお正月
 今年は久しぶりの東京の息子一家が来ました。12月29日、東京を夜の8時に発ちますという電話がありそちらには3時くらいと言っていましたが着いたのは30日朝の5時。30日お昼ごろ起きてきた孫3人を見ると前より背が高くなり見上げるばかり。上二人は大学生でそれなり貫禄が出ています。末の男の子の誕生日は29日なのですが30日にバースデー。ケーキとカミさん手作りのミートパイでお祝い。
31日には5人揃って墓参。弟の家を訪問。息子が古くなった蛍光灯の交換、LEDシーリングライトへの交換などをしてくれたので家中明るくなりました。
元旦には揃ってお雑煮。今日はママの実家、静岡に寄って東京に帰るという慌ただしさ、夜は三人の孫とお別れ。お正月の三日など夢の一瞬です。孫たちも「死なないで」「100歳まで生きてね」などと別れを惜しみます。車を見送ると年寄り二人じゃいつもの暮らしです。
1月12日
「自分史を作ろう会」の例会。女性のIさん(電動車)は知り合いに教えてもらった電動車に並々ならぬ関心を持ち包括センターの世話でやってきた電動車への驚きとその試運転に興奮。自転車で止まる時と電動車での違いに感嘆。しっかり書けたエッセイでした。男性のIさん(家庭菜園の終わり)60歳の定年後20年続けてきた家庭菜園を思わしくない体調のため終わることにしたという一文。中で触れられているエピソードのいくつは知っているため、筆者の寂しさが伝わってきます。しかし収穫物の喜びや畑仲間と交流など楽しかった思い出も蘇るようです。Aさん(ゴルフの思い出 ⑨人の性(さが))みにくいプレイ)は長いゴルフ歴の間で見てきたスコアのごまかし、スコアを上げるための変な行動、そして自分自身をかした嘘などを述べ、勝負事は負けて当たり前、負けて相手に喜びを与えて幸せと言う境地に達したという結びになっていました。Nさん(年末年始の様変わり)は母親から伝わってきた年末年始でのしきたりが詳しく述べられていますがそのしきたりも私から嫁、そして娘にと薄らぎながら続いている様子がきちんとまた要領よくまとめられていました。
[今月の本]
 『ちくま文学の森9 怠けものの話』筑摩書房一九八九年
 再読なのですが何も覚えていないものです。数知れない怠けものの話が登場するのですが、怠けるのには覚悟がいるのか生まれつきなのか分かりませんが、驚くやら呆れるやらの連続でした。どれを上げればいいのかと思いますが、冒頭のO・ヘンリーの「警官と讃美歌」という短編が印象に残りました。以前のこの人の短編集を読み洒落れた作品が多いなあと思った経験があるのかもしれません。
 急速なオミクロン株の蔓延に驚いていますが本県でも感染者の数は膨大。私は3回目のワクチン接種を受けますが何とも恐ろしい状況です。寒さが続きます。コロナの終息を願うしかありませんが。お気をつけて。では、また。


今月のエッセイ

2022-01-29 06:33:23 | エッセイ・身辺雑記
お正月
        今年の年賀状 
 今年92歳になるのでそろそろ「今年で年賀状を欠礼します」というのを出してもいいかなと思ったりしますがなかなか決心は出来ないものです。
 今年もたくさんの賀状を頂きました。市販の年賀状に宛名だけというのもあり、写真や干支の虎の絵などをプリントしたものありと様々ですが、以前のように手の込んだ版画などは見当たらなくなりました。けれど、一行でも添え書きがあるとその人の顔を、その時代の空気を思い出すものです。その言葉で最も多いのが「お元気ですか」かな。「コロナが一日も早く終息していつもの日に戻りたいものです」も多かったように思います。
 具体的に見ていくと一枚目はカオルちゃんからのもの。四十年も前に大阪で働いていた会社の同じ部門で同室だった人。よく気のつく明るい声の女性で男の双生児のお母さん。今は元気なおばあちゃんでしょう。
 第二の勤め先になった会社の二人の年賀状も楽しみの一つ。いろいろ苦労を共にしたかって同室の主任、後に工場長になったTさんの新しい工場での活躍、かつては新入社員、今は専務になったIさんからは新薬の話題などを聞くのもたいへん嬉しいものです。
こういうのもあります。長男はどこに住んでいて、次男はどこの大学、次女はどこで仕事と詳しく書いてあります。また、家族全員やご本人とペットという写真もあります。写真ではありませんが何十年も続いているのが家族全員の似顔絵、近年は夫婦お二人のものになりましたが写真よりも二人のイメージが浮かんでくるのが不思議です。
       七人のお正月
 われわれ二人も息子の一家五人も二度目のワクチン接種がすんだということで何年ぶりになるのかわが家でお正月を祝いましょうとなりました。
 12月29日の夜8時に東京から発ちます、そちらには深夜の3時ごろになりますという電話だったのですがやっと着いたのは5時。後で話を聞くと途中でトンネル内の火事があったためだそうです。
 30日のお昼ごろ起きてきた孫三人を見ると前よりも背が高くなり見上げるばかり。上の男の子には大学生らしい貫禄が見え隠れしていますし、二番目の孫娘も大学生で大人になった感じ。末の男は高校生のあどけなさが残っています。
 末の孫の誕生日は12月29日なのですが30日にバースデーパーティ。近くの洋菓子店に頼んであったケーキとカミさん手作りのミートパイでお祝い。31日には五人揃って隣の大津市へ行き、弟の家を訪問。お墓参りも済ませてくれました。私はお正月にお祖父ちゃん、お祖母ちゃんの家に、ましては叔父さんの家に行ったことがないので羨ましいような気がするのです。
 年寄り二人の家では、あちこちの部屋の古くなった蛍光灯がちかちかしたりするのですが、どうにも手が出ません。息子が来た時の宿題としての残してあったのですが、電球や蛍光灯の交換、LEDシーリングライトとへの交換あるいは工事の手配などをしてくれたので家中が明るくなりました。
 大晦日には恒例の紅白歌合戦があり若い人は熱心に見るのかと思っていましたが上の二人は別の部屋に行き、スマホで映画を見ていたというのは意外でした。私、御老人は早々とご就寝。
 元旦には揃ってお雑煮。今日はママの実家、静岡に寄ってから東京に帰るという慌ただしさ。年末、年始の三日間など夢の一瞬のように過ぎていきます。
 一日の夜は孫三人との別れです。集まった三人とハグ。いよいよ出発です。口々に「死なないでね」「百歳まで生きてね」などと言います。道を曲がるまで車の窓から手を出して振っていたのは誰でしょう。
 五人が帰り、急に広くなったわが家の年寄り二人はいつもの暮らしに戻るのです。
二〇二二年一月