はるかな日、きのう今日

毎月書いているエッセイ、身辺雑記を掲載

今月の便り(2015年5月)

2015-05-30 09:15:12 | エッセイ・身辺雑記
今月の便り(2015年5月)
 先月末から夏のような陽気、毎日の晴天と夏のような気温にいささかばて気味ですが、5月は快適な天気が続くことでしょう。この大型連休、皆さんはどうお過ごしでしょうか。
5月3日
 大勢で滋賀県日野町、綿向神社の例大祭見物の旅に。弟の友人Aさんの最初の赴任地はこの町だった由。町長も教え子とのことゆえ、駐車場の手配はじめ、案内のNさんとVIP並の歓待。9年前にも来た時には、日野駅からこの神社までが遠いので泣きそうになりながら歩いたのですが、この日は車と楽なことこの上なし。
 着いた時は16基の曳山が神社に集合する途中で、二階ほどもある曳山が静々とやってきます。曳山で懸命に演奏するお囃子の子どもたち、踊りだしたくなるようなうきうきとする調子。御祭りって良いですね。
 Nさんの案内で近江商人館を見学。館長さんの近江商人の起源、商売のやり方、その発展ぶりなどについての説明を受けましたが、近江商人の大半は日野出身だなどと興味深く聞きました。ツアーの最後は最上級の近江牛のすき焼きを堪能。この旅の企画者?弟と良い旅だったね、楽しかったねと話し合ったものです。
5月8日
 町内会ののんびりの会(老人会)のバス旅行の日。45人乗りのバスに乗客40人と盛況。快晴無風、まさに五月晴れと好天。バスは名神高速を走りますが、沿線のあちこちでフジや白いニセアカシアの花を見ます。約1時間半で目的の長浜の総持寺。ここは牡丹で有名なのですが、今年は早く咲いたとかで花期は終わっていましたが、芍薬が咲き、石楠花は真っ盛り。遅咲きの牡丹は数株。住職のお説教は「かきくけこ」を心がけなさい、ということで、「き」は希望、「く」は工夫、「け」は倹約だったのは覚えていますが、「か」と「こ」は忘れてしまうという不信心。小堀遠州作という庭を眺めたり、芍薬の花をスケッチしたりとゆっくり時間は過ぎていきます。お定まりのショッピングは名神の多賀サービスエリア。皆さんけっこうなお土産。帰着は予定通り3時20分とこの会らしい日程。それほど歩き回ることもないツアーでしたが、やっぱり疲れていました。でも、今年の秋の旅行が楽しみです。
5月13日
 お待ちかねの館外研修。会員8人に私たち二人を加えて10人が3台の車に分乗して出発。途中で甲賀、油日の余野公園で休憩。ここはツツジの名所なのだそうですが花期は終了していたみたいでした。車はさらに伊賀、鈴鹿山系の緑濃い山道を走ると道のそばに猿の子といよいよ山中に入ります。先ずは目的地の大山田温泉、さるびのの湯でゆっくり入浴。早々と上がるのはNさん、長湯のAさんは去年のツアーの時と同じなのに皆が笑います。
 昼食はこの地の特産物のこんにゃくの刺身、山菜を使った炊き込みご飯とご当地風。ここに来ても例会はありますが、借りた茶室の使用時間は1時間なので私が一方的に話して終了。いつもの雑談はなく、真剣裡に進みます。
ご婦人がたのショッピングを終えて帰途に。途中でいちばんコーヒーというパチンコ店の一部か喫茶店なのかよく分かりませんでしたが、私の場合はアイスコーヒー、ソフトクリームをたっぷり乗せたメロンパンで500円のセット、ほかの人も同様なセットで大満足。このような店には入ったことがないのでちょっとびっくり。出発点の公民館には5時20分とほぼ予定どおりの到着。
 夜のテレビを見たら、街では真夏日、猛烈に暑かったようですが、山の中では汗も出ない爽やかさ。無事に帰着と良い小旅行でした。
5月20日
 隣の川原という地区のむつみ会からエッセイの書き方について話してくれという依頼があり、用意した資料の解説をしました。最初の部分では笠縫東公民館での活動を話し、自分史の効用についてはAさんのエッセイ、どんなことを書けばいいのかはIさんと私のエッセイを紹介し、エッセイをうまく書くには他の人の書いたエッセイを読むしかないと市立図書館所蔵「ベストエッセイ集」のリストを紹介。次いで、今まで経験したエッセイを書く際の注意点などを列挙して解説しました。最後には熊谷栄三郎氏のコラムの文章をテキストに行を追ってポイントを解説しました。この間、「自分史をつくろう会」が毎年作り配布している文集、6人が自費出版した本、この会の10周年を記念して作った本などを回覧で見てもらいました。皆さんは熱心に聞いてくれたようなので安心しました。今日の出席者のうち一人でもわれわれの会に入ってくれたらと思いますが。
5月24日
 東京に住んでいる息子一家は22日(金曜日)の夜に発ち、23日(土曜日)の朝、ユニバーサルスタジオジャパンに到着し、夜遅くまで遊ぶという強行軍。日付の変わる頃、やって来て一泊。疲れを癒したのか、24日(日曜日)朝遅く起きてきて朝食。息子たちは多忙で滅多に帰省しませんのでゆっくり話ができました。孫三人はそれそぞれ背が高くなりましたが、今までと同じように遊びほうけています。午後二時、カミさんの作ったおにぎりを琵琶湖畔で食べ、東京に帰ると出かけました。いつもと違い、僅かな時間でしたが、賑やかな時間。一気に静かになりました。ちょっとさびしく、何だか疲れがでてきました。
<今月の本>
 紅野敏郎ほか編『日本近代短編小説選 昭和篇2』岩波文庫、岩波書店2012年(第2刷)
 昭和21年から27年に発表された13編を収録。昭和20年の終戦を迎えて激動する時代を反映した作品が大半を占めているのは当然でしょう。石川淳の「焼跡のイエス」に登場するのは戦災孤児であるし、原民喜の「夏の花」は広島の原爆投下後の凄惨な状況を描いていて胸を打つものがあります。野間宏の「顔の中の赤い月」は戦争未亡人の顔に戦友を見捨てた男の苦悩が表されていますし、梅崎春生の「蜆」のモチーフになっているのは闇屋。大岡昇平の「出征」も三か月の教育召集から出征当日の家族との別離、マラリアに罹患したフィリピンでの経験とまさに戦争小説。長谷川四郎の「小さな礼拝堂」はソビエト兵士に使役される広大なシベリアの「柵」で囲まれる収容所での物語、「小さな礼拝堂」は死んでいったものの遺体収容所。終戦後の混沌とした状況を知らない若い人には理解できない世界であろうと思いますが、当時を知っている私のような人間にとっては重苦しい記憶として蘇ってくるのです。
 物語として光っているのは何と言っても坂口安吾の「桜の森の満開の下」。この短編は他の本でも読み、魔性の女というか女の魔性か、結末に向かうスリリングな展開は小説の楽しみそのものです。安部公房の「プルートのわな」はイソップにも似た寓話ですが、政治を揶揄する面白さです。その他の短編にも小説を読む楽しさを満喫しました。
 
 五月晴れの後は梅雨空と思うといささかがっかりしますが、こればかりは仕方ありません。どうかお元気で。では、また。

今月のエッセイ(2015年5月)

2015-05-29 06:53:15 | エッセイ・身辺雑記
        寄り道、道草、回り道(5)
         豆腐の味
 50歳以降には農薬、水産薬、植物薬や食品添加物などを研究している研究所に籍を置いていました。大半は筑波の研究所に行き、大阪では食品添加物の研究をしていましたが、医薬品部門とは違った面白味がありました。回覧雑誌に英文誌のフードサイエンスがあり、アメリカのケーキの写真がよく出ていましたが、華やかな原色のトッピングで飾られたのをアメリカの人は平気で食べているのかと思ったものです。また、特許情報もあり、佃煮を作る際、添加物を加えるとこんなに簡単にできますよという方法もあって呆気にとられたのを覚えています。
 豆腐の添加物の研究していたグループでは豆腐の官能試験、味や食感を試験するのですが、その試験をする人をパネリストと言います。詳しい試験方法は忘れてしまいましたが、皿に従来品、試作品を並べて置き、口にした時の味や感じを所定の用紙に書き込みます。試験をする人は同じものを並べたり、異なる二つを並べておきますが、同じものを違うものとしたり、違うのを同じものと答えると、パネリストとしては落第です。私を含め食通と自負している年輩者は落第し、合格するのは若い人に多いので、「あいつらろくなもの食ってないのに」とぶつぶつ言いながら試験室から引き揚げてくるのでした。
         『風が梢を渡る時』
 私が所長室という部署に在籍していた時は新しい抗生物質を開発して世間の注目を浴びていた時期。見学者が多く、私は案内役をしましたが、研究所に取材にきていた社長室の社内報制作担当者がエッセイを書いてみないかといいます。「月に二、三冊は本を読むのでその本のことでも書けば何とかなりそう」と引き受けましたが、それは如何にもシンドイ仕事だったのです。
 字数は400字の原稿用紙で三枚半くらい、書き方は当時読んでいた植草甚一のいくぶん気障な文体を真似することにしました。カットも描けということで時間のかかること。うまく書けた月は上機嫌で、息子に何か買ってやったりしますが、書けない時には家族に当たり散らし。けれど、昭和51年4月、近くにできたジャズ喫茶のオーディオ装置やジャズレコードについて書いたエッセイを初めてとして100回にわたり掲載されました。その内、私のエッセイは独りよがりになっていないかが心配になり、毎日新聞の文章教室に申込みましたが、800字の原稿を月に2回とキツイ教室。残していた原稿を見ると第1回の昭和67年11月に提出した「鯛を釣る」の末尾には「視線が散らばっている」というような講評がありましたが、それは今も気をつけている一つです。講師は八木亜夫というサンデー毎日の編集長をしていた人でその講評はユニークで返事が来るのが楽しみで平成3年の「夕焼け」まで10年近く続きました。一方、これから先、エッセイを書くには800字というのは短すぎるとも思い、字数は原稿用紙5枚までというNHKの文章教室に平成4年5月から平成5年9月まで続けましたが、講師は毎回違い、よく読んでくれた人もいましたが、こちらの文章に込めた気持ちが伝わらないことも多くてやめてしまいした。
 1999年、第2の職場を退職しました。総務課の人が失業保険も解約になりますので、ハローワークで手続きをとって下さいというので行ってみると、解約金が出るとのこと。去年までは120万円あったが、法律の改正があって60万円になっていました。何に使おうかなと思いましたが、社内報、毎日新聞やNHKの通信講座、その後書いたエッセイから選び、エッセイ集『風が梢を渡る時』を200部作りましたのでたくさんの人に読んでもらえることになりました。滋賀県立図書館と草津市立図書館には寄贈していますので、検索すれば見つかるはずですし、これから先も残ることでしょう。
2015年5月