はるかな日、きのう今日

毎月書いているエッセイ、身辺雑記を掲載

今月のエッセイ

2022-02-27 06:45:12 | エッセイ・身辺雑記
  江(こう)若(じゃく)鉄道
 NHK日曜日朝6時台に「10分で巡る日本の廃線」という番組があります。かつて日本中に張り巡らせていた鉄道の姿、その車両、乗務員さんたちの働き。乗客、最後の日の風景などが映し出されているのです。鉄路を走る汽車や電車などの凛々(りり)しい姿。乗客のおじさんお婆さんの笑顔。最後の日に運転手さんに花束を渡す女の子、大好きな番組です。
 番組は東北地方、近畿、北海道などと進みます。近畿地方の日、懐かしの江若鉄道が紹介されていました。それはびわ湖の大津港のそばの浜大津から終点の近江今津(現高島市今津)までを走るいわば軽便鉄道です。その名前は最初、近江から若狭を結ぶ鉄道の予定だったから付いた名前だそうです。番組ではびわ湖湖畔を進む車両、びわ湖の風景、京都や大阪から近い水泳場、近江舞子に行く乗客で混雑する浜大津駅の様子などが登場していました。
 この路線で人を運ぶのは1両のガソリンカーです。ディーゼルカーは軽油を使いますがガソリンカーは自動車と同じようにガソリンを使います。出発点から終点までのおよそ50キロを行くには1時間半くらいだったかな。
 初めて乗ったのは昭和15年3月、父親の転勤の際です。この線は今の道路と同じようにびわ湖の岸辺を通りますので海を見たこともない茨城県生まれ茨城育ちの弟たちはその広い水面を見て「海だ」とか「いや湖だ」などと叫びます。それに目的のびわ湖の北端に近い近江今津に着くと、この雪深い町では道路脇に積み上げられた雪が残っています。雪のない茨城から来た弟たちは大興奮。一人は浜へ行ってくると走り出し、なかなか戻ってきませんでした。
 この町に住み始めたのは小学4年生の時でしたがやがてアメリカとの戦争が始まり私も中学生(旧制)。せっかく登校しても授業など僅か。農家の男たちが戦争に取られて人手がなくなったのでその手伝いに行けということです。田畑の仕事などしたことのない何人かが江若鉄道の三駅か四駅先まで行って農作業です。田圃の草取り、稲刈り、何でもやりましたが辛かったのは麦刈りです。体中が何時までたってもチクチクするのです。嬉しかったのはその頃貴重品になっていた白米の御握りが出ることでした。いつも午後早くに終えて帰るのですが、終点の近江今津駅の改札口をだれがいちばん早く出るかの競争です。
 私たちの住んでいた滋賀県北部の町は戦争中でも都会に比べれば食料は豊かな上、びわ湖の魚もよく獲(と)れていたのでお米や焼いて串刺しにした魚を大津の祖母に届けるのが私の役目でした。途中のびわ湖に鳥居の立つ白髭神社の前を通る時には誰もが手を合わせるので私もお辞儀(じぎ)。浜大津には京阪電車の京津線の電車が走っているので車掌がポールを上げたり下ろしたりするのを見た日はラッキーと一人で大はしゃぎ。困るのは冬だと県の北部では雨や雪が多いので長靴を履いて出かけますが南部の大津ではだれも長靴など履(は)いていません。恥ずかしくて急ぎ足になったものです。
13歳の夏です。戦争の敗色が濃くなると田舎でも食料は容易に手に入らないようになりました。大津の祖母への配達もだんだん間遠になってきてこれが最後の便になるかもというお使いに出ました。
どういう都合だったか夕方おそく浜大津を出て、終点の今津までの中頃、ガソリンカーは突然止まりました。その時分、こんな田舎でも空襲警報が出るようになっていたのです。もちろん車内は真っ暗。
四人掛けの座席の前はどこから乗ったのか大学生のようなお兄さんとお姉さん二人が肩を並べ楽しそうなお喋(しゃべ)り。私は何時か眠りに落ち、ふと目を覚ますと二人はいません。どこでこの人たちを降ろしたのでしょう。外は怖いほど明るい月夜。私は再び眠り終点まで目が醒めませんでした。13歳の夜。江若鉄道の夜。私の銀河鉄道です。
車社会になった昭和44年、この鉄道、ガソリンカーが走っていた江若鉄道は廃線になりました。
その後、びわ湖の西岸は大阪発、北陸へ行く特急「サンダーバード」が高架の鉄路を通り抜けて行くJR湖西線になりました。
2022年2月

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