はるかな日、きのう今日

毎月書いているエッセイ、身辺雑記を掲載

今月の便り(2014年7月)

2014-07-30 06:34:05 | エッセイ・身辺雑記
 今年は早々と台風襲来、それに伴うこの暑さ。お元気にお過ごしでしょうか。
7月8日
 編集ボランティアをしているコミュニティ事業団の定期刊行物「コミュニティくさつ」の編集会議。
 今回はデザイン、印刷ともども業者に委託して出来上がったカラー版の冊子をてにしましたが、そのきれいなこと。かつてボランティアが集まってページの差し込みをしていたモノクロ版を思い返すと夢のような出来上がり。
今回のテーマは先月に続き町内会、その中の回覧板を取り上げ、いろいろな話が出ていましたが、回覧板は木箱だったいう話にはびっくり。回覧板のサイズがA4になったのに昔からの小さいポストが多い、回す時、ピンポン(玄関の呼び鈴)を押すのか、ポストに入れるだけか、という話も出ていましたが、鍵をかける習慣がないので、玄関を開けて回覧板を置いてくるだけという地区もあるということ。一方、マンションではエレベータ前の掲示板だけというのもあるとまことに様々。
回覧板は必要か?という設問にその組〈班〉に住む家族の安否が分かるので必要という人もいれば、次に回すのが優先で、中身はよく見ていない(私も)が多いようです。しかし、回覧板に盛られた情報にはどうしても必要というものはないものの町で起こっている種々雑多な出来事が漣のように伝わってくるので、なければ淋しいだろうなというのも私の感想です。
7月9日
 公民館のサークルの例会。先にご主人を亡くしたNさんは絵を描く人ですが、今回は同窓会で聞いた講演に感銘を受け、今後の進むべき方向へのヒントになったと書いていました。会のマネージャーのNさんは地元の報恩講という仏事に参加した時のことを記していますが、いつもはお寺と接触することのない私には仏事の多い昔からの地に住む人の御苦労を思わざるを得ません。この人のエッセイは端正過ぎるところがあるのが惜しい。
 Kさんの御主人は5歳の時に満州から引き揚げてきた人で銀杯が支給されるのをきっかけに終戦後、日本人やその家族が経験した苦難を並べ、この銀杯とは何だろうと思ってもいます。忘れがちなエピソードです。
 Iさんはいつも乗せてもらっている娘さんの車選びに同行した話。各販売店を巡り、最終的にヤナセ社の中型のベンツになるまでのいろいろなエピソードを面白く読みましたが、将来の車、燃料電池車にふれているのがなかなか巧妙。
 Aさんはサウジアラビアの砂漠の町の造水プラント工事への着任から送水パイプのテスト成功までを述べていますが、その中のトイレについてのエピソードは遠く離れた砂漠で働く人の哀しさを伝えています。
7月11日&12日
 11日昼前、公民館のサークルのマネージャーのNさんから会員の一人、Tさんが亡くなったという知らせ。11日夜の通夜にはNさん、Mさんと共に参列。遺族の挨拶で4月に検査入院したところ悪い病気(詳細不明)が見つかり、3か月の闘病の後、安らかに旅立ったとのこと。例会には検査入院のため休むという話だったので、その内、元気な顔も見せるだろうと思っていたところを突然の知らせに驚きました。
 12日のお葬式にはカミさんと参列しました。元国鉄マンだったTさんのSLを分解してまた組立てて走らせる話や草津がまだ田舎だった昔、アオバナ摘みのため働いた夏休み、駅前にあった草競馬場に行った話、田舟を操って遊んだなどを綴ったエッセイなどを思い出します。葬儀が終わり、霊柩車を見送ると、近年の例会には欠席が多かったものの長い間の付き合いだったので淋しさが込み上げてきました。
7月12日
 以前ボランティアをしていた障害者支援センターは事情で閉鎖していましたが、久しぶりの集まろうという連絡。かつて皆で行ったことのある百貨店の五階、モクモク農園の経営するバイキング形式のレストラン。集まったのは私たち関係者を含めて12人ということでしたが、かつてセンターに来ていた皆さんはそれぞれ変わらず元気そのもの。顔つきも話ぶりも全く同じ、皆でワイワイやっていた時を懐かしく思い出しました。また、こんな機会があればいいな。
7月13日
 朝のうちは雨が降っていましたが、午後は止んでどんよりした曇り空。カミさんと近くの幼稚園に滋賀県の知事を選ぶ選挙の投票に行きました。自民推薦、元民主党議員、共産党推薦の3人が立候補。自民系候補者は集団的自衛権行使容認や女性に対する野次のため苦戦しているとの噂の通り、卒原発を提唱してきた前知事の応援を得た民主系の三日月候補が当選。支持していた候補者が当選するのは嬉しいものです。
7月20日
 前の日、19日には雷雨があり、急に涼しくなったので散歩。その途中にある小公園で町内会役員に会った時、明日からここでラジオ体操の会が始まるのでいらっしゃいというお誘いがありました。
 20日の朝7時からというので行ってみると、ぼつぼつ人が集まり始め、二、三十人近くがきています。顔ぶれを眺めてみると、近所の年輩の方々。初めて会う人もいましたが、その多くは顔見知りではあるけれど会うのは久しぶりという人が大半、挨拶こそしませんが、それぞれ笑顔。
 ラジオ体操は第一に続き第二も。何十年ぶりなのですっかり忘れているので人の真似ですませましたが、間違ってばかりいるのには我ながら笑ってしまいます。この日、私はお爺さんの公園デビューを無事に果たすことができました。

昨日は当地でも35℃、今日は36℃になるとの予報。毎年、7月からこんなに暑かったのでしょうか?テレビでもことあるごとに熱中症に注意と言っています。お互いこの暑い夏を何とか越えましょう。

今月の本(2014年7月)

2014-07-29 08:51:26 | エッセイ・身辺雑記
 小川洋子編『小川洋子の偏愛短編箱』河出書房新社(2009年)
[奇] [幻] [凄] [彗] に収められた16の作品はいずれも怪しげな雰囲気、死につながる結末を予感させるものばかりで、作家は広範に渡る小説を読み、それをよく覚えているものだと感嘆します。本書に取り上げられている江戸川乱歩、内田百、谷崎潤一郎、川端康成、横光利一などの作品から新しい人(?)の小説とその対象は広く、尾関翠のように最近になって再評価されている作家の作品もあります。また、たいへん興味深く思ったのは各作品に「小川洋子・解説エッセイ」がついていて、小川洋子はこの小説をこのように読んでいるのが感じられ、なるほどこの作品はこのような内容なのかとも思うのですが、彼女の解説には更に解説がいるような気がして面喰います。
 私はかつて「変わった味の小説」という類の本を何冊か読んだほか、江戸川乱歩、向田邦子、三浦哲郎の短編は読んだことがあるような気もしましたが、中身をさっぱり覚えていないのには我ながら感心しました。ただ、全体の印象をいえば、本書に取り上げられた小説がやや難解なものが多いものの内容が濃いように感じられました。
 16の作品は全部読みましたが、「こおろぎ嬢」(尾関翠)は何のことやら全く分からず途中でギブアップ。その他の作品のすべての解説や読後感などを述べればいいのですが、それもできないので、いくつかについて点描してみます。
 「押絵と旅する男(江戸川乱歩)押絵の中の女性に恋し、ついに押絵になってしまった兄の二人の新婚旅行のためと押絵を携え旅を続ける弟の物語。押絵の女性は年をとらないが、兄は年をとるのでというオチも付く、乱歩らしい作品。「兎」(金井美恵子)は兎を愛する女の子が兎を殺す喜びに浸るようになり自らもその皮を着た兎になろうとする血なまぐさい1編。
 「過酸化マンガン水の夢」(谷崎潤一郎)はその日の様々な出来事を記した日記かと読み進んでいるとその出来事の一つずつが絡まった夢となり、混乱のうちに夢は続くという結末になる作品。
 「春は馬車に乗って」(横光利一)は死の床にある奥さんを看護する夫を描いていますが、その最後、知人から届けられたスイートピーに痩せ衰えた手を差し出す妻に「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先に春を播きにやって来たのさ」と言う夫、そして明るい花束に顔を埋めて眼を閉じる妻、と収録されている作品の中では明るい救いのある作品になっています。
「藪塚ヘビセンター」(武田百合子)、小川洋子は解説に「ありのままの世界」と書いていますが、この作品は別に凝った仕掛けこそありせんが最初から最後まではヘビではねえ。
 「みのむし」(三浦哲郎)は死期を迎えた老婆の病院から一時帰宅したいというたっての希望に家に帰ったのですが、待っていたのはボケて何も分からなくなっているお爺。翌朝、爺さまは裏の林檎畑で見慣れぬ黒いものが枝から長く垂れ下がっているのをしばらく眺め、「こりゃあ、また、がいにでっけえ、みのむしぞ。」と呟き、珍しいみのむしに見飽きると、ゴム長をボコボコと鳴らしながら畑の奥の方へ入っていった。この時代どこにでもありそうなストーリーに戦慄を覚えます。
 最後に「お供え」(吉田知子)は家の門の両側に花が供えられて不審に思っている内にだんだんエスカレートしてきて家全体までが多くの人に祀られるようになるまでを詳しく描いていますが、そんなことは決して起こらないと読んでいるうちにその過程に引き込まれていくという不気味な小説の世界。最初の「件」(内田百)にも似たような雰囲気が漂っていましたが。
  小川洋子・解説エッセイにはこれらの小説が分からないという人は願い下げだという言葉もないではありませんが、読み終わって分からないところも処々にあったものの、どれも再読に耐える作品で全体を満たすと「面白かった」というのが感想ですが、穏やかなエッセイ集でも読みたくなりました。 

戦前という時代

2014-07-28 06:31:06 | エッセイ・身辺雑記
 私は昭和5年に茨城県の麻生町(現行方(なめかた)市)で生まれ、同じ県の水海道町(現常総市)で大きくなりましたが、八十半ばにさしかかった今、僅かでもまだ戦前といえる平和な時代を知っている世代の一人になりました。昭和12年に始まった日中戦争は日本軍の連戦連勝で「南京陥落」のお祝いだと町に提灯行列が繰り出したことなども知っていますが、この時代が決して良い時代ではなかったことを知るようになるのはずっと後のことになります。
 町の中学校(もちろん旧制)の英語の教師だった父親は三十代、母親はまだ二十代後半でした。その頃のことです、小さい町では中学校の先生といえば町では有名人の一人くらいだったのかもしれません。
 この時代、貧富の差はひどく、大規模な洪水の後、配布のおかげで初めて鮭缶を食べたとか、毛布というもので寝たのは初めてだったという人が大勢いたのだ、という話を何回も聞かされたのを覚えています。
父親の月給は百円ほどだったらしく、わりと裕福にくらしていて、わが家では50銭と高い少年雑誌や月刊の絵本誌をとっていて、ノラクロやタンタンタロウのタンクロウ、冒険小説などに夢中でしたし、絵本には黒いカーテンをバックに描かれたバラの花などという絵があったのを記憶しています。成人してから西洋美術に関心をもつようになった原点だったのかもしれません。
父親の趣味は植物採集。日曜というと、肩に採集した植物を入れる「胴らん」というブリキ製の大きなカバンのようなものを下げて遠く離れた筑波山に行き、漉し餡を求肥とシソの葉で包んだ水戸名産というお菓子をお土産に帰ってくるのが常でした。そして、夏休みには川や海に連れて行ってくれましたし、川が増水した夜にはそれを見に行きました。
お彼岸の日には母親の知り合い、「アメヤのおばさん」というお年寄りがやって来て、小豆を煮てから大きな袋で漉し、漉し餡を作り、その餡でおはぎを作ります。それを重箱に詰めると私はお使いです。その頃、仲間の先生たちは近くに住んでいましたからお使いと言っても隣近所です。行った先では重箱に詰めた散らし寿司、私にはお駄賃だとお菓子が渡されますから、このお使いは大歓迎でした。
この町は遠くに雑木林が見えるだけの田園地帯で、蚕を飼っている家があったのか桑畑が多く、近くの小貝川には広い防護林があり、近所の子供が集まって行う規模の大きな戦争ごっこの一員に加えられたこともありましたが、私は家で本や雑誌を読んだり絵本を見ていたりするほうが好きで、あまり近所の子とは遊ばなかったように思います。
母親は次々子どもが生まれた(当時は6人家族)からだと言いますが、「ねえや」、今の言葉でお手伝いさん、行儀見習いという名の中学生くらいの女の子が女中さんとして雇われていて、長男だった私は「ボッチャマ」と呼ばれていたのか「オニイチャマ」と言われていたのかは分かりませんが、ずいぶん可愛がってもらいました。
どういう都合だったのか「ねえや」と二人で留守番をした日、ガラス戸越しの陽の光が溢れるように注ぐ廊下で折り紙を教えてもらいました。私は「ねえや」を独り占めしたのが嬉しく、子どもながらどきどきしたものです。この日のことは何十年も経った今も忘れられません。「ねえや」は名前で呼ばれることがなかったからか、名前を知りませんし、顔も姿も覚えていませんが、それだけに懐かしく思うのかもしれません。寝そびれた夜などに「あの日は何て幸福な日だったのだろう」と思うのです。後日、「ねえや」は当時の職業婦人の花型、東京のデパートのエレベーターガールになったと聞きました。
この日、私は小学校3年生、9歳だったでしょうか。このような戦前の勤め人の家族の平凡な、そして平穏な日々は長続きせず、「戦前という時代」はその後の時代の波に呑み込まれ、はるか遠い日になってしまいました。
2014年7月