はるかな日、きのう今日

毎月書いているエッセイ、身辺雑記を掲載

今月の便り(2022年5月)

2022-05-30 06:12:45 | エッセイ・身辺雑記
今月の便り(2022年5月)
 五月の連休となりコロナも少し落ち着き、行動お制限もなくなり大勢の人が移動。新幹線も空も満席に近い大賑わい。年寄りはラジオ体操に行くくらい。私は人の薦めで介護保険の要介護1級を申請したため、包括センターの人や市役所の人に質問攻め。嫌な思いをした月になりました。
 5月11日
 「自分史を作ろう会」の例会の日。Iさん(同年の友の近況)は92歳になる筆者の友人の近況を書いていましたが、電話をくれる人があって四方山話をしているとあまり歩けなくなった人、認知症になった人をと超高齢化時代の断面を知り、その一人である私も怖くなります。Aさん(ゴルフの思い出⑫69歳。38年間のゴルフにさようなら)は今までゴルフで優勝した話を聞かされてきましたが最終回。最後のゴルフまでのゴルフの喜び、腕が落ちたと言われた悲しみの後の決断。よくきっぱり止めたものだと驚きました。Nさん(久しぶりの出合い)は孫二人が一泊二日で来た時のエピソードの数々。歴史の好きな孫娘とは石山寺、義仲寺、三井寺などを巡り。翌日は信楽に行きマグカップでも買うと言うとケーキが良いと。空港へ送りに行くとウクライナからの避難民の到着で混雑。本当に楽しい、慌ただしい、貴重な二日間で会ったと結んでいます。Kさん(ハプニング)はベランダに洗濯物を取りに行き転んだと時の気持ちを「一人で笑いだしてしまったが、そのうちたったこれだけことでと悔し涙が出てきた」と書いています(分かるなあこの気持ち)。
 5月11日。サークルのIさん(男性)が胃がんのため滋賀医大で手術。もう一人のIさん(女性)は5月19日、滋賀医大で緑内障の手術。
 例会で7月には懇親会をという話が出ていましたが、どうなるでしょう。
[今月の本]
 村上春樹『おんなのいない男たち』、文藝春秋、2022年10刷、ハルキストと呼ばれる友人に貰った本。その中の映画にもなり話題となった「ドライブ・マイ・カー」も読みましたが妻の不倫も知っている俳優が自家用車専属のドライバーに話すというストーリー。セックスもそのテーマの一つ。現代の小説はこういうものかという感もありますが極論を言えば嫌な小説。

 暑い日で過ぎていく五月ですが来月は梅雨。嫌なシーズです。お互いこの晴れ間を楽しみたいものです。では、また。

今月のエッセイ

2022-05-29 06:11:09 | エッセイ・身辺雑記
  小さな桟橋
 自分でも信じられないくらいなのですが92歳になります。生まれたのは昭和5年(1930)6月17日です。その場所は霞ケ浦の湖畔、茨城県行方(なめがた)郡麻生(あそう)町(現行方市)です。
 当時大学は出たけれどと歌われた昭和大不況。父親がやっと見つけたのがこの町に新設された中学校(旧制)の英語の教師。両親とも卒業したばかり、新婚旅行が赴任のための旅。そして着任直後から新学期。住む家も定まらず旅館住まい。新婚の二人は学校でテニスをしていたといいます。
 私の名前、徹は父親が在学していた山形高等学校(現山形大学)の安斎 徹教授の名前から借りたのでそうです。この先生は蔵王の樹氷の紹介者、東北の山の開発者といわれ、父親もこの先生の指導で東北の山は全部登ったと言っていました。
 私は生まれたこの町に3歳までいたそうですが、どんな所か全く知りませんでした。が、二十年か三十年後に勤め先の社員旅行の水郷巡りの旅行の際この麻生という町を通り目にしたのは霞ケ浦にかかる小さな桟橋です。ああ、ここが私の生まれた町だなあという感慨もなく通り過ぎるだけでした。
 次に住んだのが茨城県結城(ゆうき)郡水海道町(現常総市)。ここを通っている軽便鉄道で取手、その先は常磐線で先に進むと東京ですがこの町の周りは桑畑、その先はどこまでも続く雑木林。
 父親はこの町を流れる利根川の支流で一緒に泳いだりその防護林の蛇に怯えたり。休みの日にはよく映画に連れてってくれました。野蛮人が道に迷った白人の探検隊を襲い、捕虜が縄につながれ火あぶりになりそうになるとターザンと言いましたか強い男が来て皆を助けるというストーリーでした。
 本も「小学3年」というような少年雑誌を購読していました。毎月の漫画「ノラクロ」とか「冒険ダン吉」をはじめ「敵中三千里」や「海底二万哩」という長編小説に夢中になったものです。
 そうそう小学校の時の仲良しはお寺の大場みどりちゃん。いつもお寺の庭で遊び、雷の日には二人で布団にもぐり込んだものです。
 昭和15年4月、近江今津町(現高島市今津町)に引っ越しました。今でこそテレビの普及で方言も少なくなりましたが困ったのは茨城弁です。先生に教科書を読まされても滋賀県でのアクセントとは全く違います。みんなで真似をして笑います。いわばイジメです。
 家の前に住んでいたのは中学の数学の先生。東京弁で話すお嬢さん。矢野富美子さんは私のあこがれの人。話しかけられたこともなく、こちらから話すこともありませんでした。ただ、一度だけ家の近くの菜の花畑でかくれんぼうをしたことがありましたがやがてお父さんの転勤で横浜に行ってしまいました。
 やがて16年12月8日の開戦、大本営の発表に胸を躍らせる軍国少年が大きな機関銃の絵を描いたのを覚えています。
 そして中学(旧制)に入学。一年かもう少しは授業がありました。東京から来た英語の高木先生は快活で楽しい先生でしたが軍に徴用されていなくなりました。高知県からの山崎先生は国語の先生、いつも私の作文を褒めてくれましたがやがて出征。
 戦争は進むにつれて本屋さんの店頭から本が消えていきました。父親の本棚は英語の本ばかり。やっとみつけつけたのはH・G・ウエルズの『世界文化史体系』。恐竜の話を面白くて何回も読み返したものです。
 その内、勤労奉仕という農家の手伝い。食料増産のためという沼の干拓。その最中に終戦。学校に行けるのが嬉しくてたまりませんでした。
 社会人になって東京や大阪に長らく住みましたが、霞ケ浦のほとりで生まれ、びわ湖湖畔の近江今津、大津で時を過ごし、終の棲家がびわ湖の岸、草津で三十数年。思えば湖に縁の深い私です。今も広いびわ湖のどこかに小さな桟橋が私を待っているのかもしれません。それはどこにあるのでしょう。私はその小さな桟橋からどこへ行けばいいのでしょう。
2022年5月