本 満蒙開拓団

2023年07月30日 10時20分12秒 | 社会・文化・政治・経済

満蒙開拓団

加藤 聖文 著

陸軍主導の国策となり、今なお続く悲劇をもたらした満洲移民。計画から破局までの全歴史を辿る初の通史。

満洲事変を契機として計画された日本各地からの農業移民は、日中戦争の本格化に伴い、陸軍主導の強力な国策となり、青少年までもが満蒙開拓青少年義勇軍として送り込まれた。開拓先で中国人農民の反発を受けながらの厳しい生活、そして敗戦がもたらした悲劇は今なお終わっていない。移民の計画から終局までの全歴史を辿る初の通史。

加藤 聖文は、日本の歴史学者。国文学研究資料館准教授。専門は日本近現代史・東アジア国際関係史・記録資料学。近年は海外引揚研究を中心に活動している。早稲田大学卒業

 

満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)は、1931年昭和6年)の満洲事変以降、1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦までの期間に日本政府の国策によって推進された、満洲内蒙古華北に入植した日本人移民の総称である。1932年(昭和7年)から大陸政策の要として、また昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行され、満洲国建国直後から1945年の敗戦までの14年間に日本各地から満洲内蒙に開拓民として、27万人が移住した。満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)とも言われる[1][2]

概要[編集]

日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。加藤完治が移住責任者となり、満洲拓殖公社が業務を担っていた。この移住は1945年半ばまで続き、日本軍が日本海及び黄海制空権制海権を失った段階で停止した。

昭和恐慌と試験的移民期[編集]

満蒙開拓団の事業は、昭和恐慌で疲弊する内地農村を中国大陸への移民により救済すると唱える加藤完治らと屯田兵移民による満洲国維持と対ソ戦兵站地の形成を目指す関東軍により発案され、反対が強い中、試験移民として発足した[3]1936年(昭和11年)までの5年間の「試験的移民期」では年平均3000人の移民を送り出した[3]

二・二六事件と本格的移民期[編集]

1939年入植の高社郷開拓団

しかし、同年の二・二六事件により政治のヘゲモニーが政党から軍部に移り、同事件により高橋是清蔵相も暗殺され、反対論も弱まり、広田弘毅内閣は、本事業を七大国策事業に位置付けた[3]。同年末には、先に関東軍作成の「満洲農業移民百万戸移住計画」をもとに「二十カ年百万戸送出計画」を策定した[3]。その後の1937年(昭和12年)には、満蒙開拓青少年義勇軍(義勇軍)の発足、1938年(昭和13年)に農林省拓務省による分村移民の開始、1939年(昭和14年)には日本と満洲両政府による「満洲開拓政策基本要綱」の発表と矢継ぎ早に制度が整えられた[3]

1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)までの5年間は「本格的移民期」にあたり年平均送出数は、3万5000人にのぼる[3]

日中戦争と移民崩壊期

日中戦争の拡大により国家総力戦体制が拡大し内地の農村労働力が不足するようになると、成人の移民希望者が激減したが、国策としての送出計画は変更されなかった[3]

国は計画にもとづきノルマを府県に割り当て、府県は郡・町村に割り当てを下ろし、町村は各組織を動員してノルマを達成しようとした[3]。具体的には補助金による分村開拓団・分郷開拓団の編成、義勇軍の義勇軍開拓団への編入などである[3]。それでも、予定入植戸数(一集団の移民規模;200から300戸)に達しない「虫食い団」が続出した。[4]

1940年(昭和15年)には、同和地区からも開拓団が編成され、1941年(昭和16年)からは統制経済政策により失業した都市勤労者からも開拓団を編成した[5]。結局、青少年義勇軍を含めると約32万人が移住したことになる[6]

開拓民が入植した土地はその6割が漢人朝鮮人の耕作していた既耕地を買収した農地であり、開拓地と言えない土地も少なくなかった[5][7][8]

ソ連参戦と終焉

太平洋戦争末期の戦局の悪化により、開拓団からの召集も増えるようになり、特に1945年7月の「根こそぎ動員」では、約4万7000人が召集された[3][9]

同年8月9日にソ連軍が満洲に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡した[3]

ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者4万7000人を除くと開拓団員の実数は22万3000人、その大半が老人、女性、子供であった[10]

男手を欠いた開拓移民は逃避行に向かい、その過程と難民生活で約8万人が死亡した[3]

主に収容所における伝染病感染を含む病死、戦闘、さらには移民用地を強制的に取り上げられ生活の基盤を喪っていた地元民からの襲撃、前途を悲観しての集団自決などが理由である[3]

敗戦時に旧満洲にいた日本人は約155万人といわれるが、その死者20万人の4割を開拓団員が占める[6]

自決や殺害の危機を免れ辛うじて開拓地から都市に辿りついた人々は、麻袋の底をくりぬいて身に纏う避難民の姿もあった[10]

運よく貨車を乗り継いで、長春瀋陽にまで辿り着いた人々もいたが、収容所の床は剥ぎ取られ、窓ガラスは欠け落ち、吹雪の舞い込む中で飢えと発疹チフスの猛威で死者が続出した[10]

孤児や婦人がわずかな食料と金銭で中国人に買われていった[10]。満洲に取り残された日本人の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち上述のように8万人を開拓団員が占める[11]。満洲での民間人犠牲者の数は、東京大空襲広島への原爆投下沖縄戦を凌ぐ[11]

これほど犠牲者を出した敗戦時の日本軍の満蒙政策とその放棄であったが、大江志乃夫によれば、関東軍上級将校の自決者の中で満蒙居留民に詫びる遺書をしたためたのは上村幹男ただ一人であったという[12]

内地に生還した元開拓移民も、引き揚げ後も生活苦にあえぎ、多くが国内開拓地に入植したが、南アメリカへの海外移民になった者もいた[13]

前記の通り、中国人に買われた孤児や婦人が約1万人いたため、中国残留日本人問題となった[13]。この帰還は、1972年(昭和47年)の日中国交正常化から21世紀まで続く現代的な問題である[13]

開拓団員と義勇隊員併せて3万7000人の移民を送り出した長野県[14]内に満蒙開拓平和記念館(同県下伊那郡阿智村)がある[6]。同記念館は、2014年に、開拓団の生活やソ連軍侵攻後の逃避行についての聞き取り調査する活動を、中国人目撃者から聞き取る活動を行った[6]黒竜江省方正県大羅密村の最年長男性によると、ソ連国境近くにいた開拓団民が同村まで徒歩で逃れてきたが「開拓団民はみなぼろを着て、女性は丸刈りだった。生活は苦しく、中国人に嫁いで子供を産み、何年もしてやっと帰国できた」などの体験談などを得ている[6]

開拓民の出身地

満蒙開拓に送り込まれた27万人のうち、長野県出身者が約3万4千名で最も多く、全体の12.5%を占め、第二位の山形県の2.4倍であった[15]


敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人 

2023年07月30日 09時38分30秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
 ジョン ダワー (著), John W. Dower (原名), 三浦 陽一 (翻訳), 高杉 忠明 (翻訳)
 
敗戦後日本人の苦難の歩みを描いて,日本中に感動を巻き起こした名著の写真増補版.
旧版の2.5倍以上に増補された貴重な写真は,著者みずからによって本文といっそう緊密に組み合わされ,敗北を抱きしめて立ち上がった民衆の類まれな経験を語り尽くす.
ヴィジュアル史料と文字史料が織り成す陰影深い戦後史像の誕生
 
 一九四五年八月、焦土と化した日本に上陸した占領軍兵士がそこに見出したのは、驚くべきことに、敗者の卑屈や憎悪ではなく、平和な世界と改革への希望に満ちた民衆の姿であった…新たに増補された多数の図版と本文があいまって、占領下の複雑な可能性に満ちた空間をヴィジュアルに蘇らせる新版。
 
敗戦の惨状の中を歩み始めた民衆は、「平和と民主主義」への願いを抱きしめて、上からの革命に力強く呼応した。
奇蹟的な「敗北の物語」を描いた二十世紀の叙事詩。ピュリッツァー賞受賞作品。2001年刊の増補版。
 
ダワー,ジョン
1938年生まれ。アマースト大学卒業後、ハーヴァード大学で博士号取得。
現在マサチューセッツ工科大学教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
 
教科書では学べない日本の終戦時の裏を知る歴史書
 
 

2004年1月刊(原著は1999年刊)。
このピュリッツァー賞など多くの受賞を誇る著作を、今更ながら私も読んでみた。
著者は米国の歴史学者で専門は日本近現代史(現在MIT名誉教授)。
これは所謂「歴史研究書」というよりは、圧倒的な質量を持って語られた「一大ドキュメンタリー」のような世界。
アジア太平洋戦争敗戦から1952年GHQ占領統治終了(サンフランシスコ講和条約発効)までの流れを、政治経済の支配階層から一般民衆の動き・意識の変遷までこれだけ詳細に分析し論じ活き活きと描写した著作を私は他に知らない。
まさに圧巻!であった。
特にこの「増補版」では初版にはなかった貴重な写真・図版などが数多く追加されていて、ビジュアル面でも理解がより深まる。
ちなみに原著タイトルは”Embracing Defeat”~何やらジャズスタンダード曲のようでもある。
ここでダワー氏は、天皇と天皇制~それが戦前戦中の日本国民の価値観にどう作用し、それが戦後のGHQ(特にマッカーサー)上陸によって「崇拝の対象」がどう劇的に転換し、それでいて「人間宣言」した天皇がいかにその地位と権威を保持し続けてきたかを、あらゆる側面から検証している。
そしてマッカーサーらが、自身の占領統治を円滑たらしめるために「天皇の戦争責任」を徹底的に否認し、「責任の所在は暴走した軍部」というシナリオをどう作りあげていったか。
また、当初若きニューディーラーたちが目指していた「非軍事化と民主化」路線が、その後の「逆コース」(所謂レッドパージや労働運動締め付け、再軍備路線等)によってうやむやにされていく過程。
一般民衆の民主化への願望とは裏腹に、徹底して「改革」を最小限に抑えようとする頑迷な守旧派支配層。新憲法制定の過程でもその「抵抗」は如実に表れる。
そして蘇る戦犯右翼たち。
さらには戦後の経済復興が朝鮮戦争という「天祐」によってもたらされた事実の重視。
天祐(てんゆう)とは、天の加護。天のたすけ。天助。
著者は日本の戦後体制を「日米交配による産物」と捉え、日本の1952年講和条約以降の「独立」は実は米国の「保護国化」であったと喝破するが、だからこそ、21世紀に入ってからの日本が「非軍事化と民主化」という取り残された課題をどう解決していくのか~そういう問題提起と期待をこの著作の最後に込めてるように私には思えた。
しかし、戦後も戦前戦中と「ほとんど変わらない日本」の真相・深層も、この優れた歴史研究者は冷徹に見据えてもいるのだ。
非常に長く読むのにも時間がかかるが、それだけの労力をかけるに足る素晴らしい大作。おすすめ!である~(*^^*)
 
 
 
終戦後の米国による占領について書かれた書物は数多くあるが、その中でも本書は異彩を放っている。
ほとんどの書物が占領下での日本の政治経済の改革にフォーカスしているのに対し、本書は改革そのものというよりはむしろ、敗北と占領によって日本人がどのように変わったのか、あるいは日本人の何が変わらなかったのかを観察している。
日本人そのものを客観的に観察できるのは、やはり日本人よりは外国人の方だろう。
日本人が所与としていることにも本書の筆者は鋭く切り込んでいる。
しょ‐よ【所与】 · 1 他から与えられること。また、そのもの。特に、解決されるべき問題の前提として与えられたもの。
また、筆者は学術的文献のみならず、日本の新聞や漫画、映画、ポスターといった、これまでの日本研究では見過ごされて来たような素材をも資料として使用しており、出来る限り日本人を等身大で理解したいという筆者の意欲が見て取れる。
この増補版は、これらのユニークな資料の写真をふんだんに持ちいており、あたかも資料集のような充実さである。

惜しむらくは、筆者は「征服者」である米国人であり、その点で客観性に疑問を付すことができる点である。
筆者は客観的な視点から分析しようと試みているが、日本人の読者から見ると、「制服者」の視点から書かれているのではないかと思える箇所が少なくない。
また、筆者は天皇制に懐疑的であり、随所でこのスタンスをさりげなく示しているが、これは戦後日本を分析すする者にとっては非常に大きなバイアスとなってしまうのではないだろうか。

このように本書には問題点が無いわけではないが、本書の副題にある「第二次大戦後の日本人」を様々な角度から観察したという点において、本書ほど徹底的なものはない。
この点に、本書が高く評価されている理由があるだろう。下巻も楽しみである。
 
 
 
資源に乏しく、人だけが溢れていた当時の日本が大国ぶって仕掛けたアジア・太平洋戦争。
その代償の大きさがまざまざとわかる一冊。
緻密な分析と多角的な視座によりえぐり取られた、日本の戦争観が理解できる一冊です。
同時になぜ日本だけが、官僚制度を含めて国家体制が温存できたのかも迄もがわかってきます。
例えばドイツは政府が崩壊し、イタリアは政府転覆によってバドリオ政権に取って代わられたなかで三国同盟の内、日本だけが生き残ってアメリカ占領軍の走狗となった。
しかもアメリカによって多くの日本人が、戦犯指定された以外の人々は、戦争の罪を許されたかのような「錯覚」を思い込むことに成功した。
そして大東亜共栄圏構想までもがあっさりと悪い夢をみたかのように、無責任にも捨て去ることができた。
ここではあたかもアメリカはメシアのごとき振舞いをした訳である。
最後にもう一度述べたいのは著者の研究によって、バカみたいな当時の日本の大東亜共栄圏構想の空虚さとアメリカの成熟した国家戦略が理解できます。当然下巻も一読ををお勧めします。
 
 
敗戦後の日本を米国はどの様に考え、統治したのか?それを日本の政治家、大衆はどう捉えたか?を知ること、そうすることで、現在の政治の動きが理解できればと思い購入しました。

これまで、私自身があまりにも常識、普通のことと考え、見えてなかったことが浮かび上がって見えてきたのが、とても面白かったです。

たとえば、「昭和」という年号が戦後も継続して用いていました、あたりまえのように。
ところが、当時の世界の潮流では、敗戦国の最高責任者(日本の場合は天皇)が罰せられていたこと、よって昭和天皇が失脚し「昭和20年」で途絶えていても、まったくおかしくはなかったようです。

これは、著者いわく「クサビを打ち込み、軍部を悪役にして、天皇を平和主義者にして天皇制民主主義を建設せよ。」とのマッカーサーをはじめとする米国占領軍の方針が要因とのことです。
この方針は、天皇を罰すると日本国人が暴徒化し統治が困難になる、共産党化することの懸念が背景らしいです。
ところが、その予想は想定外でした、米国側にとっては良いほうに。

少しショックを受けたのは、天皇の求心力が戦後、予想以上に低下し、日本の民衆の心はマッカーサーに急速に傾いていったことです。
「マッカーサーを聖職者、偉大な愛の化身、神のように見ていた−贈り物、手紙が滝のように降り注いだ」とのこと。
日本人の依存的心理、強力なカリスマ的リーダーを羨望する、まかせっきりにする体質は日本人の国民性なのか。
(自民党だめなら民主党、でもだめなら、みたいな)

ほかにも本書は、貴重な写真や図表が豊富に載っており、それらを見ているだけでも当時の様子が窺え、面白いし興味深かったです。
日本人として、読んでおくべき書籍だと思います。
 

客観的事実として、「戦後」の日本人は自らの国の侵略戦争における戦争犯罪に対して無頓着でありつづけた。
諸外国、特に戦後日本の方向決定を支配したアメリカはそれを形式的には許してきたし、その他の国々も大目に見てきた節がある(少なくとも戦後の一定の期間においては)。
もちろんそれは国家政府単位の外交上の駆け引きでの話であり、個別にはそれを強く非難し補償を求める人たちは少なくないのだし、国内でもそれについてきちんと調べ発言してきた人はいるのだが、それは一部を除いて「国家対国家」の責任追及にはなっていない。
そして、道義的には戦争突入と遂行の責任者の位置から逃れられないはずの昭和天皇および天皇制は何の咎もなくその地位を保全され、その後も名目上は日本国民の上に君臨している。

煎じ詰めて言えば米占領軍の「改革」は甘く、権力者は戦時の反省など何もなく贅沢に暮らし、庶民は飢えに苦しむ不条理な状態も温存されたまま「戦後」はスタートした。
ここから今日までに何ら歴史的「転換」などはなかっただろう。
日本において民主主義なるものが理解されたとも定着したとも言えない。

一方で、今の90代の高齢者の話を聞けば、あの戦争が終わったことを「解放」だと捉えた一般国民の意識があったことも想像がつく。
自由で明るい未来を作っていく希望の時代の到来であり、戦争に明け暮れる「嫌な時代」が偉そうに国民に圧力を加える軍部という「嫌な奴ら」とともに去った瞬間だったのだろうと(残念ながら、そうでないケースも多かったが)。
終戦とともに、完膚無きまでの敗北を口実に、それらの過去を水に流しきれいさっぱり忘れ去る、忘れるのだ、前だけを見ていいのだ、というまったく自分勝手なリセットボタン押し気分が、上記のような責任問題をどうでもいいことにしてしまった土壌なのだろう。

もちろんリセットボタンを押された日本人は、そうした気分を戦略的に許可し利用した米占領軍の見守りとサポートと解放の高揚感の中、復興に向けたロケットスタートを切ることができた。
その結果が、良くも悪くも今わたしたちが暮らしている日本を形作った。

この占領期間の日本における日本人と占領軍の動向を、膨大な一次資料にあたってここまで整理した本は初めてだったのだろうし、今もこれに匹敵するものはなさそうだ。
読めば読むほど「確かにそうだっただろうな」とおもえる。
そして1950年までの日本に生まれなくて幸運だったと心から思った。
「偉大な祖国」の「偉大な民族」などという訳の分からない帝国思想を叩き込まれることも、爆撃や銃撃で木っ端微塵にされることも、手足を失うことも、家や家族を失い露頭に彷徨うことも、瀕死の飢えに十数年を耐えることも、すべてを失ってしかたなく犯罪に手を染めることも、ありとあらゆる伝染病で苦しんで死ぬことも、何一つ経験せずに生きてこれたからだ。
といってもほんの10年程度の時間差でしかないことに改めて慄然とする。
今いきている日本人は運良く(あるいは汚い手を使って)この苦難の時代をなんとか生き延びた人やその子孫である。

日本人なら必読だと思う。この時期の日本のことを我々が知らないでいて良い理由はなにもない。我々の原点を知っておこう。

利根輪太郎の競輪人間学 捲り張られ

2023年07月30日 06時30分22秒 | 未来予測研究会の掲示板

GⅢ 名古屋競輪 開場74周年記念 金鯱賞争奪戦

3日目(7月30日)

10レース

別線互角 S級準決勝

並び予想 9-1 4-2 8-7 3-5-6

レース評

連日好回転の捲りを見せる嘉永。三度豪快な捲り発揮。鋭い中本がマークで逆転十分。ただ再度、渡辺に乗る守沢も突っ込む。

嘉永 泰斗選手から勝負する

9-1ラインを軽視したことが、車券として、敗因となる。

8レース 4-5

9レース 7-1

10レース ?

出目作戦として、8レースの4-5の下がり目の3-5で勝負する。

だが、9レースの7-1の上がり目なら、1番からみの車券も買えたのだ。

3-5ラインは8-7ラインと先行争いになっことも誤算であった。

4-2ラインも先行争いに加わる展開となり、後方の9-1ラインの捲りごろとなる。

3番の嘉永 選手は1番の守澤 太志選手に張られて失速する。

これが、走る格闘技の波乱要素!

1番人気 3-5(3・9倍)2番人気 5-3(6・4倍)

 




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
× 1 1 守澤 太志   11.7   仕事し差す
2 9 渡邉 雄太 1/4車輪 11.8 B 援護受逃粘
3 2 武藤 龍生 3/4車輪 11.4     切替直伸び
4 3 嘉永 泰斗 1/8車輪 11.6     捲り張られ
  5 8 福永 大智 1/8車輪 11.6   S 締られ伸ず
6 5 中本 匠栄 1/2車身 11.5     目標張られ
7 7 椎木尾 拓哉 1/8車輪 11.3     踏出し離れ
  8 6 山口 貴嗣 3車身 11.7     ライン共倒
  9 4 高橋 築 5車身 12.3     叩かれ一杯
 
2

1=6
700円(3)
2

1=9
790円(3)
3

1=2=9
3,710円(12)


1=2
890円(10)
1=9
400円(4)
2=9
2,340円(23)
1-6
1,100円(5)
1-9
1,100円(4)
1-9-2
8,380円(29)

戦い終わって

戦い終わって写真

カマシた渡邉雄太に乗ったS班の守澤太志が一番人気の嘉永泰斗ー中本匠栄の仕掛けを一発で止めて見せた。その後も内を締めての流石の立ち廻りで渡邉も二着に残る。切り替えて直線伸びた武藤龍生が三着。
 一着の守澤は「作戦通りにはいかなかったが渡邉君がしっかり叩いてくれた。並走が見え、嘉永君がどこから来るかと思っていたら死角から来た。なので無理やり持って行った。内の事も考えながらですね。最後は無我夢中でしたが、しっかり対処出来た。三日目はセッティングや乗り方を大幅に変えた。決勝ではもっと良くなるように」。
 二着の渡邉は「前中団からで斬って斬っての展開を考えていたら突っ張られた。踏み遅れてしまって、内差しヤバいと思ったら高橋築さんが行ってくれて。二日目より全然キツイ。最後も行かれたと思った。名古屋は相性いいし、ケガも良くなってきて状態は三日目が一番良かった」。
 三着の武藤は「高橋君は前々に行くと言ってくれていて任せていた。斬らないと厳しいと思った処で勇気を持って行ってくれた。バックでは迎え入れてあげたかったが遅れていたので。守澤さんが持っていったのが見えて、閉じてくるのを確認してからコースを探して踏んだ。後は無我夢中で。記念の決勝はいつ振りか覚えてないですね」。

 

11レース

並び予想 1-9 2-5 7-3-8 4-6

レース評

捲って良し、逃げて良しの山口が好調。首位突破を狙う。地元の岡本が食い下がり対抗だが、坂井次第では平原の逆転は十分。

1-9 1-3 3-1 1-7の3連単で勝負する。

1-9-3 1-9-7 1-3-7 1-3-5 1-3-2 1-7-3 1-7-5 3-1-7 3-1-5 3-1-9

1-5に目がいかなかったことが悔やまれた。

7-3ラインへの拘りが敗因!

1番人気 1-3(4・8倍) 2番人気 1-9(5・9倍)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 1 山口 拳矢   11.0   6番手一気
2 5 桑原 大志 1/4車輪 11.5   番手で仕事
  3 2 取鳥 雄吾 微差 11.6   SB 援護受逃残
× 4 3 平原 康多 1/2車身 11.4     前張れ切替
5 9 岡本 総 1/2車身 11.1     前遅仕掛け
6 8 小林 大介 1車身 11.4     前切替一緒
  7 6 新納 大輝 1車身1/2 11.0     目標が全然
  8 4 金ヶ江 勇気 タイヤ差 11.1     8番手不発
9 7 坂井 洋 1/2車輪 11.8     捲り張られ
 
2

1=4
1,240円(5)
2

1=5
1,620円(6)
3

1=2=5
2,210円(8)


1=2
780円(9)
1=5
460円(5)
2=5
1,140円(12)
1-4
1,430円(6)
1-5
1,580円(7)
1-5-2
7,560円(23)

 


生きる意味も問われる。

2023年07月29日 11時29分02秒 | その気になる言葉

▼一瞬だって無駄な時間はない―ゲーテ

▼語情報や不正確な情報が急速に広がり、社会に悪い影響を及ぼしている。

対策として、影響力のある誤情報に照準を定め正確な情報を発信して、うわさを打ち消すことだ。

▼諦めずに、<挑戦>を続けていけば<夢>必ずかなうものだ。

▼ガンジスの大河も一滴から始まる。

▼「一人を大切にする」ことは、その一人の<先にいる人>を大切にすることとなる。

▼自身の成長を支える上では<新しい実力>を磨き続ける一方では不動の<生き方の軸>を持つことが不可欠だ。

そして、生きる意味も問われる。


関東大震災朝鮮人虐殺事件

2023年07月29日 10時05分52秒 | 社会・文化・政治・経済

1923年(大正12年)の日本で発生した関東地震・関東大震災の混乱の中で「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」というデマが流れ、それを信じた官憲や自警団などが多数の朝鮮人や共産主義者を虐殺した事件である

正確な犠牲者数は不明であるが、論者の立場により、推定犠牲者数に数百名~約6000名と、非常に幅広い差がある。[1]。

「関東大震災#震災後の殺傷事件」も参照
概要
震災時
大正12年(1923年)、関東地方は地震によって壊滅的な被害を被り民心と社会秩序がひどい混乱に陥ったことを受けて内務省は戒厳令を宣告し[2]、各地の警察署に治安維持に最善を尽くすことを指示した。

しかし、そのときに内務省が各地の警察署に下達した内容の中で「混乱に乗じた朝鮮人が凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」という内容があった[3]。

この内容は行政機関や新聞、民衆を通して広まり、朝鮮人や、間違われた中国人、内地人であるところの日本人(ろう者など)が殺傷される被害が発生した。

東京日日新聞(一六八六七号)に「火をのがれて生存に苦しむ牛込」「雨と火と朝鮮人との三方攻め」といふ題下にて、次の如き記事が載せてあつた。

「火に見舞れなかつた唯一つの地として残された牛込の二日夜は、不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒する為め、青年団及び学生の有志達は警察、軍隊と協力して、徹宵し、横丁毎に縄を張つて万人を附し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気立ち、小中学生なども棍棒を携へて家の周囲を警戒し、宛然在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。

市ヶ谷町は麹町六丁目から、平河町は風下の関係から(此所新聞紙破れて不詳)又三日朝二人連の鮮人が井戸に猫イラズを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。」  下野新聞(九月六日)に「東京府下大島附近」「鮮人と主義者が掠奪強姦をなす」と云ふ題下にて次の如き記事が記載されていた。

「東京府下大島附近は、多数の鮮人と支那人とが空家に入り込み、夜間旺に掠奪強姦をなし、又社会主義者は、市郡に居る大多数の鮮人や支那人を煽動して内地人と争闘をなさしめ、そして官憲と地方人との乱闘内乱を起させ様と努めて居る許りでなく、多数罹災民の泣き叫ぶのを聞いて、彼等は革命歌を高唱して居るので、市民の激昂はその局に達して居る。」[4]

辛基秀『映像が語る「日韓併合」史』(1987年8月発行)で”No. 508 「自警団と死体」”[5]、裵昭『関東大震災朝鮮人虐殺―写真報告』(1988年10月発行)で「震災後も関東各地で自警団による虐殺が日常的に行われた。」[6]との説明文が付された写真。
竹槍や日本刀、銃などで武装した民間人が自警団を結成し、朝鮮人(と彼らに間違われた中国人)を殺害し始めた。

朝鮮人と誤解されて中国人が犠牲となった事件、沖縄・秋田・三重出身者が犠牲となった検見川事件や秋田出身者が犠牲となった妻沼町事件[7]、香川出身一家9名が犠牲となった福田村事件など地方出身の日本内地人も殺された。

また朝鮮人犠牲者以外にも社会主義や無政府主義の指導者を殺害した動きがあり、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが殺された甘粕事件、社会主義者10名が犠牲となった亀戸事件も起きた。

日本の治安当局の対応
自警団から朝鮮人・中国人数百名を守った大川常吉神奈川警察署鶴見分署長のように暴徒への取り締まりならびに死傷者を伴う暴徒との衝突や、横浜の朝鮮人226名を9月23日に横須賀の不入斗練兵場陸軍砲廠で保護収容し臨時治療所を開設する等の動きがあった [8] 。

犠牲者数と弔慰金
正確な犠牲者数は不明だが、2008年3月の中央防災会議では、震災全体の犠牲者の1~数パーセントが殺害によるものと推定されている(すなわち、一千~数千人)[9]。

当時の官庁記録としては、司法庁報告書では民間で殺害し起訴された件数として朝鮮人233人、内地人58名、中国人3名[注釈 1][11]。

戒厳業務詳報によれば軍によって殺害された人数は少なくとも朝鮮人39人、内地人27人、軍民共同の殺害による犠牲者として朝鮮人約215名(うち約200は中国人との説あり)である[12]。

内務省は248名、朝鮮総督府東京出張員は見込み数として813名を挙げている。

朝鮮人犠牲者には死亡原因が災害か虐殺か区別せず1人200円(日本内地人死者・行方不明者への御下賜金は1人16円)[注釈 2]の弔慰金が832名[13]へ支払われた [14]。

官庁記録による殺傷事件被害死者数-平成20年災害教訓の継承に関する専門調査会報告書1923関東大震災【第2編】第4章 第2節 殺傷事件の発生 表4-8[9]
種別 司法省報告書掲載  戒厳業務詳報掲載 合計
起訴事件 警察による 軍通牒の不明 軍隊による 警察・民間人共同
被害者 朝鮮人 内地人 中国人 内地人 朝鮮人 朝鮮人 内地人 朝鮮人
東京 39 25 1 2   27 19 約215 約328
神奈川 2 4 2           8
千葉 74 20     1 12 8   115
埼玉 94 1             95
群馬 18 4             22
栃木 6 2             8
茨城   1             1
福島   1             1
合計 233 58 3 2 1 39 27 約215 約578
  注:戒厳業務詳報掲載の警察民間人共同の被害者のうち約200 は中国人との説あり
史学者の山田昭次は上海の大韓民国臨時政府機関紙「独立新聞(金承学社長)」1923年11月5日付で報道された朝鮮人調査団報告書の6661人説が不正確な数字である原因は官憲の被害隠蔽と指摘した [15] [16] [17] 。

「朝鮮人の犠牲者数は、在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班が官憲の協力を得られないまま調査を進めた……吉野に情報提供したと推定される上記慰問団の崔承万が戦後になって発表したものとがある。

すべて場所と人数の記載で、合計は吉野原稿が2,613余名……崔氏のものが2,607余名又は3,459余名……崔氏によれば、慰問団はこの調査を踏まえて犠牲者数を5千名と推定したという。

ここの調査の最終報告とされるものが、11月28日付で上海の大韓民国臨時政府機関誌『独立新聞』社長に送付され、12月5日に同紙に掲載された。

これは合計6,661名(現在内訳を再計算すると6,644名であると山田昭次氏が指摘している)に達するが、うち神奈川県で遺体を発見できなかった1,795名と第一次調査を終了した11月25日に各県から報告が来たとする追加分2,256名は、府県名のみでそれ以下の地名は記されていない。

山田昭次氏は、埼玉県に関する数値を検証して、この追加分を算入しない方が現在までに得ら れる他の情報と近いことを指摘し、「追加合計数の根拠を今日解明することはできない」としている。」

—[18]

2013年11月東京韓国大使館新築移転作業中、関東大震災韓国人犠牲者290名の名簿が初めて見つかった [19] 。

日本震災時被殺者名簿286人を調査した結果28人の犠牲者を確認と2015年12月報じられ、第一次調査とあわせて韓国政府認定の関東大震災時虐殺犠牲者は合計40名となった [20]。

大正9年(1920年)国勢調査によると、男性36,043名・女性4,712名の朝鮮人(東京男性2,304名女性181名、神奈川男性725名女性57名、千葉県男性36名女性4名、埼玉県64名女性14名、愛知県男性522名女性143名、京都男性823名女性245名、大阪男性5,445名女性845名、兵庫男性3,059名女性711名、福岡男性7,161名女性672名)が日本内地にて居住していた [21] 。

昭和5年(1930年)国勢調査によると419,009名の朝鮮人(東京38,355名、神奈川13,181名、千葉県1,728名、埼玉県1,164名、愛知35,301名、大阪96,943名、京都27,785名、兵庫26,121名、福岡34,639名)が居住していた [22] 。

吉野作造が朝鮮罹災同胞慰問班から聴いた朝鮮人の被害、大正十二年十月末日までの被害状況 [23]
一、横浜方向      
1.神奈川県橋本町浅野造船所前広場 虐殺(現金五百円強奪) 四十八 名
2.神奈川警察署内 巡査刺殺 三 名
3.程ヶ谷町 虐殺 三十一 名
4.井戸ヶ谷町 右同(現金二百円強奪) 三十 余名
5.根岸町 右同 三十五 名
6.土方橋より八幡橋まで至る 右同 百三 名
7.中村町 右同 二 名
8.山手町埋地 右同 一 名
9.御殿町付近 右同 四十 余名
10.山手本町警察署立野交番所前  右同 二 名
11.若屋別荘附近 右同 十 余名
12.新子安町 右同 十 名
13.子安町より神奈川駅に至る   右同 百五十九 名
14.神奈川鉄橋 右同 五百 余名
15.東海道線茅ヶ崎駅前 右同 二 名
16.久良岐郡金沢村  右同 十二 名
17.鶴見町 右同 七 名
18.川崎 右同 四 名
19.久保町 右同 三十 余名
20.戸部 右同 三十 名
21.浅間町及浅間山 右同 四十 名
22.戸山、鴨山 右同 三十 名
以上屍体埋葬地及数 1.久保山火葬場 千余名(横浜附近被害者)  2.青木町三ツ沢共同墓地 二百名(神奈川附近被殺)  3.金沢村(不詳)  4.茅ヶ崎町旧東海道線路火葬  5.鶴見町、総持寺山内埋葬  6.川崎町当地埋葬又は持って帰国
二、埼玉県方面      
1.川口 虐殺 三十三 名
2.赤羽荒川 右同 三百 名
3.大宮 右同 二名 名
4.熊谷 右同 六十一 名
5.本庄 右同 八十六[注釈 3] 名
6.早稲田村 右同 十七 名
7.神保原 右同 二十四 名
8.寄居 右同 十四 名
9.長沢 右同 十四 名
三、群馬県      
1.藤岡 虐殺 一八 名
四、千葉県      
1.習志野軍営倉内 虐殺 十二 名
2.船橋 右同 三十八 名
3.法典村 右同 六十四 名
4.千葉市 右同 二 名
5.流山 右同 一 名
6.南行徳 右同 二 名
7.馬橋 右同 七 名
8.田中村 右同 一 名
9.佐原 右同 七 名
10.滑川 右同 二 名
11.成田 右同 二 名
12.我孫子 右同 三 名
五、長野県      
1.軽井沢周辺 虐殺 二 名
六、茨城県      
1.筑波本町 虐殺 四十三 名
2.土浦 右同 一 名
七、栃木県      
1.宇都宮 虐殺 三 名
2.恵那須郡 右同 一 名
八、東京付近      
1.月島 虐殺 三十三 名
2.亀戸署内 右同 八十七 名
3.小松町 右同 四十六 名
4.寺島請地 右同 二十二 名
5.寺島警察署内 右同 十三 名
6.向島 右同 三十五 名
7.寺島手井駅 右同 七 名
8.洲崎飛行場附近 右同 二十六 名
9.日本橋 右同 五 名
10.深川西町 右同 十一 名
11.押上 右同 五十 名
12.本所区一丁目 右同 四 名
13.大島七丁目 右同 四 名
14. 大島三丁目活動写真館内 右同 二十六 名
15.大島八丁目 右同 百五十 名
16.小松川新町 右同 七 名
17.浅草公園内 右同 三 名
18.亀戸駅前 右同 二 名
19.府中 右同 三 名
20.世田ヶ谷、三軒茶屋 右同 二 名
21.新宿駅内 右同 二 名
22.四谷見附 右同 二 名
23.吾妻橋 右同 八十 名
24.上野公園内 右同 十二 名
25.千住 右同 十一 名
26.王子 右同 八十一 名
右 合計  二千六百十三人 〔東大吉野文庫〕      
震災時の背景
当時の日本政府は地震発生前に発生した朝鮮の三・一運動や台湾の大規模デモを流血鎮圧した経験から、これら統治領の独立運動を行う一部の民衆の抵抗に警戒感を抱いていた[24]。

当時の朝鮮人への無理解と民族的な差別意識も背景として考えられる[25]。

日本国内では大正デモクラシーによって労働運動・民権運動・女性運動など支配権力に対する社会主義者らの抵抗・権利拡大運動の活性化と、それに対抗する保守的勢力の急伸、首相暗殺や恐慌による政治経済への不安から社会体制が揺らいでいた[24]。

また、国外でもイギリス・アメリカとの対立、シベリア出兵の大失敗などから国際的な孤立化を深めつつあり、関東大震災はいわば内憂外患の状態に追い打ちをかけるように起こった大災害だった[24]。

山本内閣は9月7日に治安維持令を公布した。

この戒厳令が解除された11月15日までの東京・神奈川・埼玉・千葉の被災地1府3県民の市民的・政治的自由が停止した状態の中で、大震災発生直後の9月1日午後3時以降、東京や横浜などで「社会主義者及び鮮人の放火多し」「不逞鮮人暴動」といったデマが発生していったが、デマの中には警察や軍が流したものもあった[26]。

これらの報道や伝聞による噂に接し不安を煽られた各地の民衆や有志によって自警団が結成されたが、中には地域の管轄警察の主導・指導で組織された自警団もあった。

これら自警団の一部によって朝鮮人・日本人・中国人らが虐殺されていった[26]。

陸軍や警察はこの混乱を奇貨として社会主義者や労働運動家らの抹殺を画策し、10名が軍隊に虐殺された亀戸事件および無政府主義者が憲兵大尉らに殺害された甘粕事件が実行されたが、こうした「白色テロ」に対する責任追及や批判は低調だった。

当時の社会にとっては治安維持と被災者救援活動の一環であり、軍や政府や警察が威信を取り戻したとして歓迎される状況になっていた[26]。

黒澤明の自伝『蝦蟇の油―自伝のようなもの』の中では、当時中学2年生だった黒澤の関東大震災時の体験が語られている。

その中に黒澤の父親が長い髭を生やしているという理由で朝鮮人に間違われ暴徒に囲まれた話や、黒澤が井戸に書いたラクガキを町の人々が「朝鮮人が井戸に毒を入れたという目印」だと誤解し騒ぎになるというエピソードがある[27]。

作家の芥川龍之介はこの自警団に参加し活動をしていたことがわかっているが、「或自警団員の言葉」(『文藝春秋』1923年10月号「侏儒の言葉」より)において、自警団の異常な殺戮行為に対して「自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐れまなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である」と批判をしている。

また、芥川の「大震雑記」(『中央公論』1923年10月号)の五の章では、朝鮮人への虚偽の噂を信じる民衆を「善良なる市民」と揶揄する等、震災後の一連の殺害事件に対して批判的視点を持っていた事がわかっている[28]。

徳富蘇峰は震災1ケ月後、國民新聞のコラムで「今次の震災火災に際して、それと匹す可き一災は、流言飛語災であつた」と断言した。

小池百合子・東京都知事の対応
毎年9月1日、都立横網町公園(墨田区)では、関東大震災の際に虐殺された朝鮮人を慰霊するための式典が市民団体の主催で行われており、東京都知事が追悼文を寄せることが恒例となっていた[29]。

東京都の小池百合子知事は、2017年8月、式典へ追悼文を送ることを止めた[29]。なお、2016年には送付していた[29]。

2017年3月の東京都議会で、自民党都議が、虐殺の犠牲者数について異論があるとし、「今後は追悼の辞の発信を再考すべきだと考える」と求めた[29]。

これに対し、小池知事は「追悼文は毎年、慣例的に送付してきた。今後は私自身がよく目を通し、適切に判断する」と応じていた[29]。

2022年12月の都議会では、立憲民主党の中村洋都議が、虐殺事件に対する小池知事の認識について質問したのに対し、小池知事は「災害と様々な事情で亡くなられたすべての方々に哀悼の意を表している」と答弁した[30]。

 


普及版>関東大震災朝鮮人虐殺の記録: 東京地区別1100の証言

2023年07月29日 09時36分21秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
1923年9月1日。関東大震災が発生。流言蜚語が飛び交い、多くの朝鮮人が虐殺された―。

本書は、警察や報道から子どもを含む個人まで1100もの証言を収録。特に自伝・日記・郷土資料などから、今までどんな資料集にも収録されてこなかった新資料を多数発掘しています。
23 区それぞれに見やすい地図をつけ、実際に虐殺の行われた場所をめぐることもできます。
里見弴、金子光晴、寺田寅彦など著名人の証言も多数収録、一種の風俗史・社会史としても貴重です。
東京23区エリアマップ&証言者・人名索引付!

刊行から数年経ち、あの日、あの空の下で起こったことを忘れないために、より多くの人に読んでいただくために、普及版にした。
 
西崎/雅夫
 
1959年東京都足立区生まれ。明治大学文学部卒業。大学4年生のとき、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」(後に「追悼する会」と改称)発足に参加(事務局・文献史料班・発掘準備班に所属)。
以後、中学校教諭のかたわら「追悼する会」の活動に従事。1993年、社会教育団体「グループほうせんか」設立に際し代表世話人となる。
2008年、荒川放水路土手下の墨田区八広6-31-8に引っ越し追悼碑建立の準備をする。翌年に追悼碑建立。以後、近くの旧四ツ木橋で起きた朝鮮人虐殺事件の現地フィールドワークを主として担当。2010年:「一般社団法人ほうせんか」設立に際し理事となる。

 

 
ハードカバーで辞書みたいな厚さでずしりと重い。その本にあらゆる層の有名、無名の日本人の証言や文書、朝鮮人の証言等が満載で、その物量に圧倒される。
デマに惑わされる人もいれば、冷静に判断できる人もいる。幾度も戦争があった時代、兵役や戦場の経験があったり、在郷軍人がいたりと、当時の日本人は今より物騒で血の気が多い。
場所によっても状況が違う。
頭から読んでいくのもいいが、東京都23区、都下、場所不明と地域別に分類されているので、いろんな地域から拾い読みをするとリアルに状況を想像することができる。
他の方のレビューにあるように、当時の文書の改竄例が巻末についていて、こんな風に歴史は書き換えられていくのだなと実感できる。一概に証言は信頼できないが文書は信頼できるというものでもないということだ。
あたかもどこかに正史が記録された文書があるかのように言う人もいるが、そんなことはあり得ず、著者のような地道な作業の上に初めて歴史は語られるものである。
 

0.お断り
 レビュアーの手元には「普及版」ではない、2016年刊行の同タイトル本を借りたものがある。以下、それについて評価する。

1.内容
 関東大震災時に流言蜚語が飛び交い、それが原因で朝鮮人虐殺が行われたのが史実だが、その虐殺(と書いたが、被害者が中国人だったり日本人だったりという証言もある)の証言を集めたものである。

2.評価
(1)本書は藤野裕子『民衆暴力』でも「主要参考文献」に挙げられており(p219.ただし普及版ではない)、おそらく信用できるものと思われる。

(2)本書に対して否定的評価をするのは結構であるが、本当にそれをしたいのであれば、本書の証言の根拠となっている文献をいちいち当たらないといけないだろう。本書は1920年代から2000年以降の文献の引用でできあがっている。量も豊富で、これだけ豊富な証言があれば朝鮮人虐殺を否定するのは難しいだろう。

(3)東日本大震災後には「日本人の行動を称賛する欧米メディアの報道が流れた」(烏賀陽弘道『フェイクニュースの見分け方』(新潮新書、2017)p158)そうだが、同じ日本人も、一歩間違えれば本書で証言されているような朝鮮人虐殺に手を染めるわけだから、世界中の人が教訓にすればいいと思った(ただし、レビュアーがたとえば英語に訳するということはない)。

(4)加えて本書は、本筋とはズレるが、現在において君が代や教育勅語を肯定できない理由が探れる本である。これらだけではないが、これらを言わせて日本人と朝鮮人を区別し、後者を殺したのである。

(5)以上、徒然と述べたが、プロの学者が用いていることと証言の量で信用でき((1)と(2))、教訓が得られる((3)。なお、レビュアー独自と思われる(本筋からズレていると自覚)見解として(4))本なので、星5つとする。
 

ついに普及版が出版。池袋西武の三省堂で購入。
中学教師の西崎雅夫さんが関東大震災関連の著作、地域史、新聞から集めた朝鮮人虐殺の記録を集めた本。

歴史修正主義者からはその成り立ちからフェイクであると攻撃を受ける本であるが、私にはこの証言の全てがフェイクであるとは到底思えない。
(もちろんある種のベクトルの働く証言は混じっていると思う)

土地勘のある豊島区の豊島史でも2人が殺害されておりそのうち1人は池袋駅前(買った本屋の目の前である)で殺されている。

本所方面から池袋駅前に追われたらしく護国寺脇の乞食坂もしくは江戸川橋あたりから逃げてきたのだろう…
当時の労働者が住む地域であり感覚的にもしっくり来る。

関東大震災のあとの虐殺を絶対に忘れてはいけない。

追記 中公新書 藤野裕子著
民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代
は関東大震災の朝鮮人虐殺を分析した好著。是非とも併読していただきたい。
 
 

本当に胸が締め付けられました。苦しかった!
でも事実に目を背けては、同じ過ちを繰り返すことになるかもしれません。昨今のヘイトスピーチなどを鑑みるとより一層その想いを強くします。

特に当時の子どもらが綴った『子供の震災記』では、検閲前(子どもたちが実際に目をした生々しい描写あり)と、検閲後に刊行された『改ざん版』との比較が示され、歴史的な資料としても重要だと思われます。

高価な本ですが、ぜひご拝読いただきたい一冊です。
 

関東大震災におけるこの類の本は、古本屋で探したりしてかなり古いものから読んでいるが、本書のような傾向の本にはどうも違和感がある。
簡単にいえば、なぜこんなことが起きたのか、つまりその時期に日本人と朝鮮人との関係はどういう状況にあったのかについての客観的説明がなく、ただ大地震で恐慌に陥った日本人(の一部)が人道にもとる行為をした、という事例集めに終始していることだ。
歴史の証言として「地震のあとにこんな光景を見た」というものがあれば、なぜそんなことになったのか、地震の前はどんな状況だったのかという時代背景も当然調べるべきだし、述べるべきものだと思う。
本書は、日本人の悪業を集めた大変な労作で、その圧倒的分量ゆえに、一見するとその価値を見まがうが、よく考えると、日本人を誹謗するイデオロギーが見え隠れしているように思えてならない。
とくに編集意図による証言内容の取捨選択には十分留意しないと、歴史的事実を見誤るおそれがあるように思う。つまり、各証言には加削されている個所があるだろうということだ。
もしも、東日本大震災のとき同じデマを流したら、現代の日本人は同じことをしただろうか?
かたや、当時の日本人(の一部)がデマを信じ、踊らされ、あのような行為に及んだのはなぜだろうか?
このような日本人の悪業は都合が悪い事実として政府が隠蔽しているから、もっと広く世間に知らしめないといけないという向きもあるようだが、本書だけを読んでそのように考えるのはどうかな?
当時の時代背景、日本人、朝鮮人の立場、もちろんその他もろもろのことを考えれば、客観的であればなおさら、それらを明るみに出すことがむしろなんらかの差別にあたることもあると思えるからだ。
本書が扱っているような歴史や民族がらみの問題はきわめて難しいので、妙なイデオロギーに振り回されず、まずは客観的に考えられるようにたくさんの情報に触れること。
とくに両当事者の立場から冷静に考えられるようになることが重要だと思っている。
本書は、当時の朝鮮人ひいては現代の彼らの立場に配慮する姿勢で描かれている一方、当時を生きていた私たちの先祖は非道であるかのような印象操作があるようにも私には感じられる。
まとめればただそれだけである。
つまり、この問題を知りたければ、そのために必要な視点がほかにもあることを前提に、本書を読まれることをお勧めする。
そういう意味で、ある一方向からの資料提供という価値はあるので☆二つとした。
 

まず、手にとってその分厚さに圧倒されるが、中身も想像以上である。
これほどの証言や記録が存在していたのに、それをまとめる作業をこれまでやってこなかった日本の歴史学者たちは、学界のあり方について自問するべきた。
この書物の著者は民間団体を設立して地道に資料を追求し、大変な作業をしているが、本来ならば大学の研究室がおこなうべきプロジェクトである。
これから先はこの本をおおいに使って、関東大震災時における朝鮮人虐殺は日本人側から発せられたデマが根本原因だったということを広く浸透させていくことが必要だろう。
大学の講義やゼミでは、必読文献として使ってもらいたい。
 
 

事実に反することを延々と書き綴ったプロパガンダ本。
証言した人達が実在しているかも怪しい。
逆に当時の新聞には共産党と組んで暴動を起こし日本人を襲った朝鮮人が地元民から撃退されたという記事はちゃんと残っている。
 
 
関東大震災に便乗してしまった殺戮については あまりメディアでも触れてこなかった。
徴用工問題もそうでし慰安婦問題もそうだが、島国日本は大陸の人間量に頼ってきた時代があった。
その人たちを竹やりや刀などで殺害し、川に投げ込み捨てたなど 言語同断の措置を多くの日本人が実施したことには胸が痛む。
当事者がそれぞれに口にした証言の数々。
今こそ亡くなった方々への追悼とともに大陸の方々への哀悼の意を表し、韓国との融和を推し量るべき時期だと思う
 
 
 
 
 
 

取手・白山のカラオケ店のハーモニーのドラム伴奏

2023年07月29日 04時02分01秒 | 日記・断片

取手・白山のカラオケ店のハーモニーへ久しぶりに行く。

驚いたことに、カラオケ・プラスのドラム演奏に思わず笑みがこぼれた。

身近なドラムの音色の迫力に気持ち良く歌えたのだ。

歌好きの友人・知人に、改めて、この店の存在を伝えたいと思った。

 
取手・白山のカラオケ店のハーモニーのドラム伴奏

利根輪太郎の競輪人間学 27日が誕生日なのに2-7でなく7-2を買う

2023年07月28日 10時38分51秒 | 未来予測研究会の掲示板

GⅢ 名古屋競輪 開場74周年記念 金鯱賞争奪戦

1レース 7-3

2レース 2-7

10レース 1-7

11レース 5-2

12レース ?

並び予想 4-1 2(単騎)3-9 7(単騎)5-6 8(単騎)

レース評

どこからでも狙える激戦区。一応はSSセットの新田−守沢の総合力を重視するが、ダービー王の山口や嘉永の単騎一発も十分

 

出目作戦では、1レースか2レースの目が、最終レースに絡むことがあるので、確認する。

だが2-7ではなく7-2と7-3の3連単で勝負する。

さらに、ボックス車券で、1-2-3-7の4点を抑えたのだ。

実は27日が誕生日なので、2-7を買うはずなのに、7-2にしてしまう。

2番の山口 拳矢選手より、7番の嘉永 泰斗選手に肩入れしたのだ。

結果として、ボックス車券のゲットで救われた。

1番人気 3-9(8・0倍)2番人気9-3(8・9倍)

結果 2-7 1,420円(4番人気) 2-7-3 4,410円(7番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
× 1 2 山口 拳矢   10.6   追上げ捲る
2 7 嘉永 泰斗 3車身 10.6   後方捲上げ
3 3 新田 祐大 1/2車身 10.8     捲りに乗り
  4 8 三谷 竜生 3/4車身 10.6     単騎で不発
5 9 守澤 太志 3/4車輪 10.8     新田祐離れ
6 1 平原 康多 1/2車身 11.0   S 目標捲られ
7 4 坂井 洋 微差 11.1   B 叩き捲られ
  8 5 渡邉 雄太 3車身 11.0     押え叩かれ
  9 6 岡村 潤 1車身 11.0     目標叩かれ

戦い終わって

戦い終わって写真

 暑さも熱気もピークに感じた初日特選。渡邉雄太を叩いた坂井洋が主導権。上手く平原康多の後位、三番手から捲り一撃。単騎戦で改めて強さを見せつけた。二着は同じく単騎戦、残り一周で最後方になりながらも捲り追込んだ嘉永泰斗。S班の意地で捲り上げ粘った新田祐大が三着。
 一着の山口は「判断も良く、理想通りに前々へと攻めれた。踏んでからスピードも乗ったけど、重心が前にいき過ぎてしまった。セッティングは特に換える部分はないので、乗り方を修正する」。
 二着の嘉永は「セッティングがしっくり来てなくて車が良くない。後輪がコーナー入り口で流れてスリップもしてしまった。サドル廻りを修正してみる」。
 三着の新田は「作戦は前中団からで、鐘前の動きで位置が決まるなと。そこでちょっとしゃくられて難しくなった。でも、勝負所でしっかり踏めたので。一走して悪くはなかった」。

 


人の幸福と健康が大事にされる時代に

2023年07月28日 09時08分59秒 | その気になる言葉

▼良書は視野を広げ、心を豊かにする。

▼原点となる言葉を持つ人は幸せだ。

▼「雑草」と呼ばれる草花は変化する能力が高く、茎を縦に伸ばすか、横に広げるか、臨機応変に、したたかに成長する。

▼いかなる逆境でも、<今、ここで勝つ>と決めた人には、苦闘も成長の因となる。

▼人生において大事なのは希望。

▼人の幸福と健康が大事にされる時代に―ライナス・ポーリング

アメリカ合衆国の量子化学者、生化学者。彼自身は結晶学者、分子生物学者、医療研究者とも自称していた。 ポーリングは20世紀における最も重要な化学者の一人として広く認められている。

▼さまざまな問題は他人ではなく、自分自身の内面に問題があるのだ。

▼若者は、目の前にある事実や情報をうのみせず、じっくり考察した上で、結論を出せる、批判的な思考力のある人に成長することだ。


アルゼンチン映画 愛欲の不時着

2023年07月28日 08時36分19秒 | 社会・文化・政治・経済
 
愛欲の不時着
 
7月24日、CSテレビのザ・シネマで観た。
 
連邦判事の父を持つ高校生のジョアン。ある事情を抱えた女性教師の官能ラブストーリー。
バツイチ女教師が自分にも黙って学校を去ろうとしていたことを知り、心を乱す。
ジョアンは親や友人に嘘をついて一緒に逃げることを決意する。
一晩、車で走り続けて彼女の祖父母が住んでいた林間の屋敷に辿りつき、2人は、解き放たれたように愛欲を満たし、ひと時の自由で幸せな時間を過ごすが、しかし、ある日、ルチアナは足に傷を負った中年の男を連れて帰って来ます。
義理の兄がやって来たことで、2人の愛の行方は思わぬ方向に――

邪魔者の出現にホアンはふてくされます。ルチアナは兄だと紹介しますが、実は彼女の別れたはずの夫でした。

男はホアンを一室に監禁して、ルチアナと暮らし始めます。

ホアンは脱走を図りますが失敗します。

ホアンの出自を知った男は、ホアンの監視のために相棒を呼び寄せ、束縛されているホアンの写真を彼の両親に送って脅迫して身代金を得ます。

ホアンを置き去りにして、大金を持ってルチアナと車で去ろうとしている男を見て、ホアンはもみ合ううちに相棒の男は事故死し、男はホアンが偶然手にした鋏で殺されてしまいます。

ホアンとルチアナと共に我が家に戻りかけますが、途中でルチアナを車から降ろして取り残し、身代金もばらまいて走り去ります。新聞で誘拐されたホアンが戻ったことが報じられます。

前半の駆け落ちまでは何とか“官能ドラマ”っぽいですが、どうしてルチアナの所在を知ったのか風体の悪い男が登場してからはサスペンスとなりますが相当いい加減で、か弱いホアンが偶然もありますが2人の男を片付けてしまいます。

ラストにちらっと警察署らしきシーンが出ますが、正当防衛とは言え、2人の男を殺しているのに、何の取り調べもなかったらしく、傷だらけのままホアンは帰宅して呑気にシャワーを浴びて、素裸のままチェロを弾いて終わり、狐につままれたようなラスト。

エロとサスペンスがバランスよく、意外にも面白かった。
 
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胸の奥くの「心音」に耳を傾ける

2023年07月27日 12時37分53秒 | その気になる言葉

▼人間の尊厳と多様性を尊重し、一人一人の無限の可能性を開く。

▼自身の弱さを見つめ、内面の変革に挑戦し、そこから価値を創造していく。

▼生活が豊かでも、精神的な悩みを抱えている人もいる。

そこで、寄り添い、励ます人の輪が期待されている。

▼人を孤独にさせてなるものかと、悩みに寄り添って、その苦しい「心音」に耳を傾けることだ。

胸の奥の苦しみの「心音」が聞こえるまで相手の苦悩に耳を傾ける。

蘇生への励ましを送り<あなたは一人じゃない>と、自身の心音を響かせることだ。


「心」が変われば、「生き方」が変わる

2023年07月27日 11時17分51秒 | その気になる言葉

▼心を働かせなければ、想像できない。

他者を思う真心が、互いの人生を勝ち開いていくのだ。

▼遺産は相続できるが、幸福は相続できない―発明家・ノーベル

▼勝利の人生、幸福な人生のために、何が大切か。

それは、日々、瞬間瞬間、生命力を満々とたたえていくことだ。

▼「心」が変われば、「生き方」が変わる。諦めや惰性を排して、わが使命の人生を力強く歩み抜くことだ。

▼「伝承文学」は、もともとは「口伝」で語り継がれてきた。

また、10人聞いたら10人にそれぞれの解釈がある。


利根輪太郎の競輪人間学 7番武田 豊樹選手まさかの3着に!

2023年07月27日 10時41分00秒 | 未来予測研究会の掲示板

FⅠ 青森競輪 坂本勉カップ争奪戦・サンスポ杯

8レース

並び予想 1-7-6 3(単騎) 4-2 5(単騎)

レース評

特選組の吉田がパワー全開の走りで激戦を制する。武田が差し迫ってゴール前勝負。嵯峨−伊藤が地元の気合で逆転を狙う。

2レース 1-3

4レース 6-1

6レース 3-1

8レース ?

偶数のレースが1番からみなので、出目作戦では、勝負は本命の7-1である。

そこで、7-1-6 7-1-5 7-1-4 7-1-2の3連単を各1000円買う

1番人気 7-1(4・5倍)

7-1-6(14・5倍) 

7-1-5(22・8倍)

7-1-4(15・3倍) 

7-1-2(42・9倍)

取手の地元ファンとして、1番吉田 有希選手と7番武田 豊樹選手に肩入れする。

だが、7-1で決まらなかったのが、走る格闘技・競輪不確定要素!

武田 豊樹選手が3番藤井 昭吾選手をブロックに行ったことで、捲った5番山田 諒選手に抜かれて、まさかの3着に!

こんなこともあるので、ボックス車券も一考であるのだ。

一考:一度は考慮・検討してみるだけのゆとりがあるさま、考えてみることが不可欠!

 

結果 5-1 3,910円(18番人気) 5-1-7 9,340円(30番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 5 山田 諒   11.8    
2 1 吉田 有希 2車身 12.2 SB  
3 7 武田 豊樹 微差 12.1      
4 2 伊藤 大志 3/4車身 11.7      
× 5 4 嵯峨 昇喜郎 3/4車輪 11.8      
  6 6 川口 直人 1/4車輪 12.1      
7 3 藤井 昭吾 1車身 12.3

何かを始めるのに、遅すぎることはない。

2023年07月27日 09時47分49秒 | その気になる言葉

▼人は大きな目標があってこそ大きくなる―詩人・シラー

▼未来を拓くチャレンジを!

▼何かを始めるのに、遅すぎることはない。

▼どんな苦労も<人生の飛翔の糧>にできるものだ。

▼わが使命への挑戦を開始する「時」は常に「今」である。

日々、心新たに自身を強く鍛えていきたい。

 

 

 


“多接”ってなんだろう?

2023年07月27日 09時45分02秒 | 医科・歯科・介護

「多接」とは、健康標語「一無・二少・三多」の「三多」のひとつで、 多くの人・物・事に接することを意味します。

仕事や趣味でやりがいを見つけたり、家族との団らんや人との交流で、 日々を楽しく過ごすことが心身に良い刺激を与え、生きる活力となります。 一無・二少・三多とは?(日本生活習慣病予防協会)