東電OL殺人事件 真犯人はコイツだ(1)

2024年07月11日 12時53分42秒 | 事件・事故

「東電OL殺人事件」の再審開始が決定した。犯人として無期懲役刑で服役していたゴビンダ元被告は無事にネパールに帰国を果たした。そして、事件は再び謎に包まれた。彼女を殺したのは、いったい誰なのか。その「真犯人」に迫ったジャーナリストがいた。事件の迷宮に挑んだ男の記録を以下─。

青白い刃先が目の前に迫る

 私の対面の椅子に座った男は、刃渡り30センチ以上もある細長く鋭い包丁をおもむろに取り出した。

 そして、刃先を私の顔に向けた。青白い刃先が近づき、目の前に迫って来る。恐怖心に押しつぶされそうになりながらも、私は男の目を見つめた。

「切れそうだな」

 そう言うと、男はニヤリと唇を歪めた。包丁をカウンターの向こうの板前に返した後も、私の緊張は解けなかった。

 刈り込まれた短髪、浅黒い肌、射抜くような眼光。

 この男こそ、「東電OL殺人事件」の調査で浮上した“疑惑の隣人”である。

 ちょうど調査開始から3カ月が過ぎていた。被害者であるAさんが遺体となって発見された円山町で、事件当時の怪しげな行動をした近隣住人たちをしらみ潰しに調べていた最中だった。

 毎日20キロ以上の距離を歩き、夜は近隣の飲食店で聞き込みをする。そんな生活をしていた私は当時、円山町界隈では、「事件を調べているヘンな男」と評判になっていた。

 初対面の私に包丁を突きつけた隣人の耳にも私の評判は届いていたのだろう。そもそも、居酒屋「T」(現在は閉店)で、隣で飲んでいた女が私を怪しんでいた。この女が、包丁を突きつけてきた男を店に呼んだのだから、初対面の私に脅しをかけてやろうと思っていたに違いない。

 この男のことは、ひょんなことから知ることになった。包丁を出した1カ月ほど前のことだった。

 昼間の円山町にいた私は一服しようと、通称「ねこ広場」という空き地(現在はビルが建っている)に足を向けた。そこに、猫にエサを与える老人男性(故人)がいた。私を何度か見かけていたようで、

「あんた、何をしているんだ?」

 と向こうから声をかけてきたのだった。私は事情を説明すると、老人は穏やかな表情を一変して、こう話したのだ。

「今でも警察に手紙を書いて、この事実を知らせるべきだったと思っていたんだよ。事件当時、巣鴨で(被害者の)定期券入れが発見されたという話を聞いたとき、私はピンと来たんです。アイツの仕業じゃないかって‥‥」

 この老人によれば、男は事件直後に円山町から姿を消したという。被害者とも接点があり、ゴビンダ・プラサド・マイナリ元被告(45)の刑が確定した時期に舞い戻り、円山町に住む老女に寄生していた。暴力をふるい、金を巻き上げているというのだ。

 そして、私が何より注目したのは、その男が巣鴨に土地鑑があったということだ。ゴビンダ元被告が無罪となった一審判決で裁判官は「定期券入れの投棄が解明されておらず、犯人が投棄した可能性がある」と示唆していた。ゴビンダ元被告は巣鴨に土地鑑はない。

 こうして、私はこの“疑惑の隣人”を追跡することになったのだ。

「疑惑の隣人」との再対峙!

 しかし、私にはまだ光明も射していた。私と釜田を引き合わせたKである。その後も釜田は連絡を取り合っていたのだ。

 そして、私はKに「釜田の血液型を聞きだして欲しい」と依頼した。すると、数日後には返答があった。

「O型だって、それがどうかしたの?」

 事件発生当初からわかっていたことだが、被害者の体内に残留していた精液はO型だった。私は身震いしたのを覚えている。

 そして、ゴビンダ元被告の再審開始を決定づけたのは、現場に残されていた陰毛と残留精液のDNA型が一致したことだった。

イチかバチか、私はKに「釜田に会いたい」と頼んだ。今度は包丁を突きつけられるだけでは済まないかもしれない。それでも会わないわけにはいかなかった。すると、釜田は意外にも面会に応じたのだ。

 約束した日時に、私は円山町の料理屋の一室を借り切った。対決の時を待ったが、釜田は姿を現さなかった。Kによると、釜田は私を刑事と勘違いしていたという。

「捕まってたまるか」

 そうKに話したというのだ。釜田はいったい何の容疑で逮捕されると思ったのだろうか。

 以降、釜田は再び円山町から姿を消していた。結婚した12歳年上の妻とともに、どこかへと転居してしまったのだ。

 私は釜田を探した。「支える会」からの依頼期限は間もなく切れようとしていただけに焦りもあった。

 そして、必死に釜田の居所を割り出した。渋谷区とは別の区に転居していた。むやみに接触しては、また逃げられてしまう。そこで、私は釜田の姿を隠し撮りすることにした。その写真をもとに、再び目撃者を探そうと思ったのだ。

 そして、私は釜田が住む集合住宅の前に張り込んだ。そんなある日、私が設置したカメラの前に、宅配ピザの配達員がバイクを停めた。バイクが邪魔なので、移動してもらおうと近づいた瞬間であった。

 運悪く、玄関から出てきた釜田と鉢合わせになってしまったのだ。

「この野郎! 何しに来たんだ」

 釜田は怒声を上げた。私は突きつけられた包丁が頭に浮かび、身構えた。

 ところが、釜田は脱兎のごとく逃走したのだった。カメラを手に取り、私は追いかけた。タクシーに飛び乗る釜田を撮影はできたが、釜田は再び行方をくらましてしまう。

 事件直前に被害者と釜田が言い争っている姿を目撃したバーのママに、私は撮影した釜田の写真を見せた。もちろん、赤の他人の写真を数枚混ぜて示した。

 すると、ママは釜田の写真を指差しながらこう言った。

「この人が似ているけど、もうちょっと痩せていた男だったような‥‥」

 この時点で、事件から8年が過ぎていた。その歳月は、人々の記憶を曖昧にしていく。私の調査は歯切れの悪い結末を迎えようとしていた。

 

真犯人は悠々と生きている

 調査期間を終えても、私は釜田(仮名)を追っていた。その後、釜田が一時、警察に逮捕されていたことも知った。

 そのせいか、時折、釜田の姿を夢に見ることもある。釜田は被害者と接点があり、事件直前に被害者と揉めていた男に酷似していた。また、犯行現場に残された「第三者」の遺留品と血液型も一致していた。定期券入れが捨てられた巣鴨に土地鑑も持っていた。今でも「真犯人」の要素を持つ重要人物だと思っている。もちろん、決定的な証拠もなく、断定するつもりはない。

 ましてや、私の調査から逃げた男は他にもたくさんいた。遺体発見現場のアパート、そしてゴビンダ元被告が住んでいたビルのオーナーもその1人だ。再三、面会を申し込んだが、居留守を使うなどしてついに会えなかった。

また、Oという被害者の売春の顧客もそうだった。事件直前に、Oは被害者に代金を支払わずに逃げたため、円山町の雀荘にいたところを被害者に詰め寄られたことがあった。動機となりうるトラブルを抱えていたのだ。しかし、Oも私との面会を拒否し続けた。

 それでも、私はこうして原稿をしたためずにはおれなかった。釜田の暴力という危険を顧みずに証言してくれた居酒屋「K」の経営者は故人となってしまった。それだけではない。私の調査からゴビンダ元被告の再審開始決定までの間に、多くの円山町の住人が亡くなっている。本稿では触れられなかったが、被害者が通りから店内を覗いていたスナックのママも今年4月に亡くなった。このママからは様々な話を聞いた。こうした人々は真実を知る前に無念のまま死んだのだ。

 獄に繋がれていたゴビンダ元被告が15年ぶりに自由の身になった。再審で無罪となるのだろうが、それで事件が終わったわけではない。10年に時効は撤廃されており、捜査当局には「真犯人」を捕まえることができるのだ。ゴビンダ元被告の無念は、これから国賠訴訟も含めて法廷で晴らされていくだろう。

 そして、何より39歳という年齢で人生を終えなければならなかった被害者の無念が晴らされることなく残っているのだ。

週刊アサヒ芸能 

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