「こうなった以上、一緒に東京へは戻れないわ。私は一人になりたいの。お別れよ」
午前9時に尚子は一人、宿を出てゆく。
部屋に残された和夫は、宿の2階の障子窓を開けて、桜咲く木屋町を流れる高瀬川沿いの道を行く尚子の後ろ姿を切ない気持ちで見送った。
尚子の印象的な緑のコートは直ぐに視界から消え、京都の春の風情を情緒たっぷりに楽しんだことさせ、空しくなってきた。
ギャンブル好きな和夫は、気持ちを切り替えるために、京都駅構内の売店でスポーツ新聞を買う。
競輪ファンが二人いて、専門新聞を買い求めていたのだ。
競馬をやってきた和夫は、競輪には疎かったが何故か和夫は二人の背後を尾行するように行く。
どこまでも競輪ファンに着いて行き、JR向日町駅の改札出てすぐ前から無料バスに乗った。
約8分で初めて見る向日町競輪の門前に立つ。
場内では関西弁の予想屋の声が陽気に響いていた。
和夫は酔いたい気分にもなり、場内の食堂へ入り日本酒を飲む。
京都向日町競輪場は1950年に開設された。
開設記念「平安賞」を始め、過去には全日本選抜競輪、共同通信社杯、ふるさとダービーといったビッグレースも開催され、数々の名勝負が繰り広げられている。
前人未到の「1341勝」という生涯勝利数を挙げた松本勝明さんを始めとした名選手を生んできた向日町バンクであった。
京都は、三方を山に囲まれた盆地であり、競輪場の観客席から山並みが見られた。
それが和夫の沈んだ心を長閑に包み込む。
和夫は競馬では、人気薄の外枠でしばしば大穴馬券を的中してきた。
1レースは車券を買わずに1レースは観た。
関西弁でヤジを飛ばす競輪ファンの声はどこか滑稽に聞こえた。
2レースから11レースまで、車券が外れる。
そして、最終レースでは6番の選手に注目した。
尚子が着ていた緑のコートを思い浮かばせたのだ。
そこで、6-1 6-2 6-3の3点の車券を買う。
場内の競輪ファンたちのどよめき声が起こるい中で、場内放送で6-3の大穴車券の的中配当が告げられたのだ。
100円の車券が実に、29万4360円。
和夫はその車券を500円買っていたのだ。
当時、和夫には50万円余りの借金があり、尚子との京都旅行でさらに借金を追加して10万円を支出するつもりで京都までやって来た。
そして金に困れば、64歳の母親に無心する不肖の息子だった。
「これで、借金も片付く」笑いも止まらない気分で、足取りも軽くなり、門前で待つタクシーに乗り京都市街へ向かった。
「尚子は女神!」尚子への不祥事を犯した後なのに、和夫の心は躍ってきた。
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