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映画 エマ 晒された裸体

2023年08月25日 15時51分52秒 | 社会・文化・政治・経済

8月25日午前1時5分からCSテレビのムービープラスで観た。

これで2度目である。

主人公は小柄で可愛いく、一途な性格である。

ある男性が出会って夢中になった美しい女性には、かつてポルノ動画に出演した過去があり……。中東欧のチェコで作られた、見る者を考えさせるエロティックラブストーリー。

エマ 晒された裸体
若かったころ、出来心からポルノ動画に出演したが、それが後々までインターネットに残ってしまっている女性。
地方に移り住んだ彼女はある男性と出会って恋に落ちるが、彼は彼女の過去を知ってショックを受け……。
主演女優のP・ガイドシコヴァーはかつての日本でなら“トランジスタグラマー”と呼ばれたタイプの美女(1980年生まれ説があるがそうは見えない)で、体当たりの熱演を見せている。
チェコの映像業界におけるアカデミー賞のような権威、チェコ・ライオン賞で主演女優賞など5部門でノミネートされた。
 
消せない過去、逃げられない過去。悔やんでもやり直せない過去に一人で立ち向かうエマがとても健気。
 

ネット上から消せない【過去の過ち】

あらすじ

エマは、田舎町のスーパーマーケットで働く25歳の明るい女性。

ある夜、近くの村に住む30歳の職人トマシュとバーで出会い、身体の関係をもつ。

二人とも期待していなかった一夜が、その後、身体を重ねる回数が増え、同棲へと急速に発展していく。

居心地の良さを感じたエマは、自分の過去の出来事を打ち明けようとするが、今を生きることが大事だと考えるトマシュは気にしなかった。

トマシュがポルノサイトに出演していたエマの動画を見つけるまでは・・・。

噂話だけでなく、動画は小さな町にあっという間に広がり、エマへの視線や接し方が一変。

詳細情報

スタッフ
監督:ヤン・プルシノフスキー
プロデューサー:アンドレイ・ジーマ

過去とは違う今を生きようとするエマと、動画の中の変わらないエマの存在。ネット上から消えない過ちに、ふたりは振り回されていく・・・

解説軽い気持ちで出演したポルノ動画が拡散され、男たちの目に晒されていく――リベンジポルノや動画拡散などスキャンダラスで今日的なテーマを扱う衝撃作!

チェコのアカデミー賞(チェコ・ライオン賞)で主演女優賞受賞ほか5部門ノミネート(作品賞、監督賞、主演男優賞、助演女優賞、脚本賞)

 

これは辛い……。人の善性と醜さの両面をちゃんと描いた作品だと思う。こういった「実は過去に……」的な描写は今が華やかだからこそ残酷に映るものだが、この作品の場合、現在さえもブルーカラーな仕事に甘んじているのが現状であり、それがまた一層の悲壮感を際立てていると思われる。だが居酒屋の主人や母親の再婚相手の優しさなど、身に沁みるシーンもあってよかった。「俺は自分を哀れむ男が大嫌いなんだ」←心に刻みたい。

エマがポルノに出演してしまった背景の描写がもう少しほしかった


映画 アラビアのロレンス

2023年08月25日 13時00分03秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

8月24日午後11時30分からCSテレビのザ・シネマで観た。

これまで何度か観たが、午後4時から酒を飲んで早めに寝たが、目が覚めて眠れなくなり仕方なくまた観ることになる。

解説

アラブ民族独立に尽力した実在のイギリス陸軍将校T・E・ロレンスの波乱に満ちた半生を、「大いなる遺産」の名匠デビッド・リーンが壮大なスケールで描いた不朽の名作。20世紀初頭、アラビアはドイツと同盟を結ぶトルコの圧政下にあった。

イギリス陸軍カイロ司令部に勤務するロレンス少尉は、トルコからの独立を目指す反乱軍の指導者ファイサルに会うため旅に出る。

反乱軍の無力さを目の当たりにしたロレンスは、アラビア民族をまとめあげてゲリラ戦を展開し、見事トルコ軍を打ち破ることに成功。

その後も次々と勝利を収めていくが、その一方でロレンスはアラブ人同士の争いや国同士の政治的駆け引きに翻弄されるようになっていく。

当時まだ無名だったピーター・オトゥールが主人公ロレンスを熱演。

共演は「戦場にかける橋」のアレック・ギネス、「炎の人ゴッホ」のアンソニー・クイン、「ドクトル・ジバゴ」のオマー・シャリフ。1963年・第35回アカデミー賞で作品賞・監督賞など7部門に輝いた。

1962年製作/227分/イギリス
原題:Lawrence of Arabia
配給:コロムビア

スタッフ・キャスト

  • ピーター・オトゥール

    ロレンスピーター・オトゥール

  • オマー・シャリフ

    アリ首長オマー・シャリフ

  • アレック・ギネス

    ファイサル王子アレック・ギネス

  • アンソニー・クイン

    アウダ・アブ・タイアンソニー・クイン

  • ジャック・ホーキンス

    アレンビー将軍ジャック・ホーキンス

    ベイ司令官ホセ・ファーラー

    ドライデンクロード・レインズ

    記者ベントリーアーサー・ケネディ

解説】映画『アラビアのロレンス』スピルバーグに監督になること ...

概要

実在のイギリス陸軍将校のトマス・エドワード・ロレンスが率いた、オスマン帝国からのアラブ独立闘争(アラブ反乱)を描いた歴史映画であり、戦争映画である。日本での公開は1963年2月。

上映時間は207分。主人公の交通事故死で幕が開く衝撃的な冒頭から、彼が失意の内にアラビアを離れる余りに悲痛な終局までを、雄大に描く。その中でも、ロレンスがマッチの火を吹き消した後に砂漠に大きな太陽が昇る場面や、地平線の彼方の蜃気楼が次第に黒い人影となるまでの3分間、敵の要塞を陥落したロレンスが、ラクダに乗って夕日が照らす海岸を悠々と歩く場面、そして延々と続く広大な白い砂漠と地平線を背景にロレンスが跨ったラクダが駆ける場面等が名シーンとされている。

冒頭(序曲)と休憩とエンディング(終曲)の黒画面に音楽が流れる演出は、当時の大作映画では一般的であった。

オリジナル版制作から実に四半世紀以上が経過した1988年に、再編集を行って完全版が制作された。完全版の上映時間は227分。再編集はリーン監督自らが行い、音声素材が残っていなかった未公開シーンではオトゥールを初めとするオリジナルキャストが四半世紀ぶりに再結集して追加収録を敢行した。それに合わせて楽曲の再編成をしデジタルマスタリングしたものがCDで発売された。だが、劇場公開時のサウンドトラックは経年劣化が激しいことから、スコアを元に再録音されたCDが何枚か発売されている。

ストーリー

1935年5月13日、オートバイで走行中の男が自転車を避けようとして道路を外れ転倒し死亡。

ドーセット州モートンの教会で行われたその男の葬式には多くの人が参列し、銅像も建てられることになった。新聞記者が故人について参列者に尋ねると、「素晴らしい業績をあげたがよく知らない」、「英雄だが自己顕示欲にまみれた男」、「彼ほど偉大な人物は居ない」と評価は毀誉褒貶相半ばしていた。

1916年10月、イギリス陸軍エジプト基地勤務の地図作成課少尉のロレンスは、風変わりな男として知られていた。

アラビア語やアラブ文化に詳しいことから、オスマン帝国からの独立闘争を指揮するマッカのシャリーフであるスンナ派のハーシム家のファイサルと会見してイギリスへの協力を取り付ける工作任務を受けることになる。

ロレンスはマッチを指で消すのがささやかな特技だったが、炎を息で吹き消すと、場面は灼熱のアラビアの砂漠へと転換する。

ラクダも初めは不慣れだったが、見事に乗りこなせるようになった。案内役のベドウィンが井戸から水を汲んでロレンスに飲ませた。蜃気楼の中から現われたアリと名乗る井戸を所有するハリト族が現れ、無断で他部族の井戸水を盗んだとして案内人を銃で殺害する。

アリはロレンスには罪はなく、砂漠を旅するのは大変だろうと案内人を買って出るが、ロレンスはきっぱりと断って一人で出発する。

ハイム・ヴァイツマン(左)とファイサル1世

ロレンスが、ヤンブーにあるアラブ人の基地に到着すると、基地はオスマン帝国軍の襲撃を受けており、ファイサルが懸命に指揮するもののアラブ人は全く反撃できなかった(ヤンブー占領(英語版))。ファイサルと面会したロレンスは、独立闘争への協力を約束する。

ロレンスはヤンブー・マディーナとタブークの中間にある紅海北部の海岸の町アル・ワジュからアラブ人の勇者50人を率いてネフド砂漠を渡り、オスマン帝国軍が占拠する港湾都市アカバを内陸から攻撃する電撃作戦を立てた。アカバの砲台はアカバ湾(紅海)に向いており、内陸からの攻撃には無防備だった。

トーマス・エドワード・ロレンス

延々と続く砂漠を夜間行軍中、ガシムという男が列にいないことにロレンスは気付いた。

「戻って助けに行く」と主張するロレンスに、「無茶だ」「死にに行くのか」とアリは抗議する。無謀にもロレンスは、ガシムを救うために一人で今来た道を戻るのだった。

ロレンスはラクダにガシムを乗せて戻ってきた。アリをはじめアラブ人達はロレンスを賞賛し、白く美しいアラブ伝統の衣装を身に着けさせ、ロレンス1人だけのアラブ部族として認めたのであった。

アカバ近くでアウダ・アブ・タイが率いるハウェイタット族と遭遇した。アウダはそれまでオスマン帝国軍に協力していたが、アラブ独立のためにロレンスと共にオスマン帝国軍と戦うことにする。

しかし悲劇が起こる。ロレンス側の兵士がアウダ側の兵士を殺してしまった。殺したのはガシムだった。軍の統制と団結を保つため、ロレンスは苦渋の思いでガシムを拳銃で処刑した。

1917年7月6日にアラブ軍はアカバを奇襲し、オスマン帝国軍の大砲が全て海側に向いていたアカバはあっけなく陥落した(アカバの戦い(英語版))。

ロレンスはシナイ砂漠を横断してスエズ運河になんとか辿り着き、イギリス陸軍司令部に急行した。アカバ陥落と今後のヒジャーズ鉄道襲撃計画を司令部に報告し、スエズ運河などの攻撃に割くべきオスマン帝国軍の兵力が鉄道防衛に振り向けられて薄くなったら、イギリス軍が呼応してシリア・パレスチナまで反攻させるイギリス軍のための後方撹乱作戦のためである。

ロレンス達がシナイ砂漠を横断中に、部下のアラブ人少年の一人ダウドが流砂に捕われて死んでしまう。司令部に到着し、ロレンスはもう一人の部下のアラブ人少年ファラージと共に建物の中に入った。

汚れたアラブの衣装を身に付けたロレンスを見て、周囲の軍人は驚きを隠せなかった。そしてロレンスがアカバ陥落を告げると、その場の誰もが驚愕した。満身創痍のロレンスは、司令部内のカフェでレモネードを2つ注文した。

「アラブ人は外に出せ」という文句を無視して、ファラージにもレモネード[3]を御馳走したのだ。このロレンスの行動は、アラブ反乱がイギリス軍のための単なる後方撹乱作戦という位置づけなどではなく、アラブ人にアラブを与える聖戦であるという大義の表明でもあった。

ロレンスは少佐に昇進した。イギリス陸軍からの兵器の補充を受けたアラブ軍は、オスマン帝国軍への更なる攻撃を開始する。オスマン帝国のヒジャーズ鉄道の線路に爆弾を仕掛けて機関車を爆破して猛襲するという戦法を展開した(ワジ・ムサの戦い(英語版))。

この戦法は大成功を収め、ロレンスの活躍は新聞にも載って広く報道されるのだった。しかし三回目の鉄道襲撃で爆弾を設置する時に、ファラージが懐に入れておいた信管を爆発させてしまった。止むを得ずロレンスは、ファラージを苦しませないためにその場で拳銃で殺害し、鉄道爆破計画を中止した。

次にロレンスは現地の人の服を身に着けて現地人に化け、ダルアーに偵察に行った(ダルアー占領)。心配するアリに対し、「私は透明人間だ」と意気揚々だったが、オスマン帝国軍に見つかり連行された。ロレンスは服を脱がされ、ダルアーを支配するオスマン帝国軍のベイ将軍の好色の餌食となってしまう。

サイクス・ピコ協定。濃い赤はイギリス直接統治、濃い青はフランス直接統治、薄い赤はイギリスの、薄い青はフランスの勢力圏。紫(パレスチナ)は共同統治領

エルサレムでロレンスはアレンビー将軍に辞表を出すが、イギリス陸軍はそれを受理せず、サイクス・ピコ協定を知らせた上で彼をアラビアに送り戻してダマスカス侵攻を指揮させる。

ロレンスは、アラブ人にアラブを与えるという大義の為にイギリス陸軍正規部隊より一足早くダマスカスに到着するためとはいえ、彼の部隊に金の為に動く殺人犯も加え、より攻撃的な部隊を編成して進軍する。

ダマスカスへの進軍の途中、ロレンスの部隊はタファス村を大量虐殺したばかりの退却中のオスマン帝国軍と遭遇し、逃走してきた村人に"No prisoners!(捕虜はいらぬ=皆殺しにせよ)"と復讐を懇願される。彼が単身でオスマン帝国軍に切り込み殺されたことをきっかけに、ロレンスの部隊は復讐の連鎖の深みにはまり込み大量虐殺を行ってしまう。

凄惨なメギドの戦いの後、ロレンスの部隊は、イギリス陸軍正規部隊より一足早くダマスカスをオスマン帝国軍から解放することに成功する(ダマスカス占領)。

しかし、戦闘で精神的に荒廃したアラブ人の戦士達はアラブ国民会議でエゴをぶつけ合い始め、その結果、街に電力が不足し、火事は収まらず、病院はおざなりになってしまうのだった。アラブ民族会議に失望したロレンスは「砂漠など二度と見たくない。神にかけてだ。」と言い、アラビアを去ることを決意する。

ロレンスのことを「敬愛しつつ恐れたが、彼自身も、自分を恐れていた」と語るアリに「アラブに生まれたということは辛い思いをしろということだ」とアウダは言う。その言葉はロレンスの中にある外へのジハードと内へのジハードの葛藤、復讐と寛容との心の戦いを言い当てていた。

病院の惨状により、イギリス軍の医療隊が病院にやってきてその中の一人の男が病院を見に来ていたロレンスをアラブ人と勘違いし、平手打ちにする。それはアリとアウダに代わってロレンスとアラブ民族会議を叱責するかのようだった。

オスマン帝国軍から解放されたアラビアは、もはやロレンスを必要とはしていなかった。フサイン=マクマホン協定を信じてイラク・シリア・アラビア半島を含む大アラブ王国(汎アラブ主義) を構想する老練な族長ファイサルにとって、白人のロレンスがアラブ反乱を指揮した事実は邪魔となっていた。

また、サイクス・ピコ協定によりアラブをフランスとともに分割する方針を決めていたイギリス陸軍の将軍にとっても、大アラブ王国を支持し奔走するロレンスは政治的に邪魔な存在となっていたからである。ファイサルは「もうここには勇士は必要でなくなった。私達は協定を進めます。老人の仕事です。若者は戦う。戦いの長所は若者の長所、つまり勇気と未来への希望なのです。

だが、老人は平和を作る。そして平和の短所は老人の短所、つまり不信と警戒心なのだ。そうに違いない。あなたに対する私の感謝の気持ちは計り知れない」と語りかけるが、去り行くロレンスにその言葉は虚しく響くばかりだった。

ロレンスはイギリス陸軍の英雄として大佐に昇進させられながらも、アラブ人としての大きな失意を胸に抱きながらアラビアから追放されるのだった。このとき、食堂でロレンスをイギリス陸軍の英雄として褒め称え握手を求めたのは、病院でアラブ人の不寛容に怒りロレンスを平手打ちにし、ロレンスの葬式の際に教会の入り口で記者に抗議する男だったのである。誰よりもアラビアを愛した男、ロレンスを乗せて走り去るロールス・ロイスを、オートバイが追い越していった。

エピソード
ヒジャーズ王国(緑色の領域)

映画では冒頭でバイク事故死させることでアラブ時代の自身との決別を描き、また映画の最後でロレンスの乗った車がバイクに抜き去られるシーンは、非アラブのトルコ人対アラブ人という民族対立の構図からスンナ派のハーシム家対ワッハーブ派のサウード家の部族間対立へと移り変わろうとする時代の流れに置いていかれようとするロレンス達のヒジャーズ王国を暗示していた。

また、映画の公開時はイギリスがスエズ運河を失った第二次中東戦争と第三次中東戦争・第四次中東戦争の間という中東の情勢が緊張した時期であったことから、アラビアに再び起きようとする資源ナショナリズムという現実の時代の流れ、即ちソビエト連邦とエジプト・シリア・ヨルダンの行動や、米国がベトナム戦争直前の情勢緊張から中東まで手が回らないことによりイスラエルを失う可能性、イギリスがオイルメジャーの利権を失う可能性を演出する極めて劇的な政治的メッセージを持つ仕掛けだった。

ロレンスは、ダマスカス攻撃後にロンドンに戻り、外務省や植民地省でアラブ処遇問題の解決に努めた。その後、イギリス陸軍戦車隊、航空隊を経て1935年に除隊するも、その後まもなく、1935年5月13日に、ブラフ・シューペリア社製のオートバイを運転中の交通事故で死亡した。

このオートバイは「オートバイのロールスロイス」とも例えられる高級車である。ロレンスは、アラブ反乱時のイギリス首相デビッド・ロイド・ジョージの名前をとって、愛車に「ジョージ」というニックネームをつけていた。この愛車「ジョージ」が事故を起こすことも皮肉めいている。1936年、ロイド・ジョージはドイツ総統アドルフ・ヒトラーを評して「老人に信頼され、若者に理想視されるダイナミックな性格」と語ることになるからである。

アラブ反乱に対して「イギリスの三枚舌外交」と呼ばれる三つの協定、即ちフサイン=マクマホン協定、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言を締結した事が、後に一連の矛盾外交によって生じたパレスチナ問題や、現在も不自然な国境で分断されているクルド人問題などの遠因となったとも言われている。

ロレンスが所属するイギリスのカイロ領事はハーシム家を支援していたが、ジョン・フィルビーの所属したイギリスのインド総督府はワッハーブ派のサウード家を支援していた。アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードはイギリスとの戦力差をわきまえており、反抗することはなかった。1920年にはそのイギリスの支援を背景にしてアブドゥルアズィーズは中部アラビアのリヤド周辺一帯のナジュドを支配下に置いた。

ロレンス達が建国に貢献したスンナ派のハーシム家によるヒジャーズ王国は、ナジュドのスルタンとなったアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードに侵攻され、わずか9年(1916年 - 1925年)で終焉を迎える。その後ワッハーブ派のサウード家によるナジュド及びヒジャーズ王国 (1926年–1932年)を経て、サウジアラビア (「サウード家によるアラビアの王国」の意味)が1932年に成立する。

史実との相違点
実際のロレンスは身長165 cmで、当時の英国のエスタブリッシュメントとしては小柄であったが、彼を188 cmの長身であるピーター・オトゥールが演じている。
映画では1916年10月からロレンスがアラブ反乱に参加したと脚色されているが、史実ではそれ以前のマッカの戦い(英語版)・マディーナ包囲戦(英語版)・ターイフの戦い(英語版)等の戦闘にも参加した。
西欧諸国では本作で描かれているような「アラブ諸国の独立に尽力した人物(アラブ人にとっての英雄)」として認識されているが、アラブ側からは「中東における行動は一貫してイギリスの国益のためのものだった(アラブ側を利用していた)」とする指摘もある。

 

 

ハイム・ヴァイツマン(左)とファイサル1世

 

トーマス・エドワード・ロレンス

 

ヒジャーズ鉄道路線図(オスマン帝国時代)

 


ヒジャーズ王国(緑色の領域)

 

 

 

 

ハイム・ヴァイツマン(左)とファイサル1世

 

トーマス・エドワード・ロレンス

 

 

ヒジャーズ鉄道路線図(オスマン帝国時代)

 

サイクス・ピコ協定。濃い赤はイギリス直接統治、濃い青はフランス直接統治、薄い赤はイギリスの、薄い青はフランスの勢力圏。紫(パレスチナ)は共同統治領

 

 

 

 

ヒジャーズ王国(緑色の領域)

 

アラビアのロレンス

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志のあるところ、道は開ける

2023年08月25日 12時40分01秒 | その気になる言葉

▼偉大な栄光は、たゆみない挑戦と連帯の繰り返しによって生まれる。

▼志のあるところ、道は開ける。

▼つまずいても、転んでも、逞しく何度も立ち上がり「道を開く不屈の挑戦者」であってほしい。

▼一日一本の糸を紡ぐ、それはやがて一枚の布になる。

地道な努力が、必ず大きな平和と共生の多彩な布になって、21世紀の世界を明るく温かく包みゆくだろう。

▼生徒の一人一人の無限の可能性を引き出すことが教育者の役割である。

▼成功への道は必ずしも平坦ではない。

障害や挫折に直面する瞬間もあるだろう。

そうした時こそ、人格が試され、鍛えられるのだ。


心が弱ければ不幸である

2023年08月25日 12時01分49秒 | その気になる言葉

▼社会が大きく変わり、複数の災害が同時に起こるようになった。

津波災害と福島原発事故など。

それでも「人間の強さ」は変わらない。

復興を支えたのは、人と人、心と心のつながりである。

▼信頼は信頼を呼ぶもの―科学者・アインシュタイン

真心と誠実な振る舞いを。

▼<幸せの花>は、<強い心の大地>に開く。

▼最も不幸に泣いた人こそ、最も幸せになる権利がある。

▼現実社会のなかで生き抜き、努力していくうえでは、さまざまな試練もあるだろう。

しかし、それに負けていけば、本当の幸福は築くことはできない。

心が弱ければ不幸である。

<幸せという花>は、<強い心の大地>にこそ開く。

▼弱い自分が強い自分に変われば、<必ずいい方向に進む>と確信することだ。

▼人々の心を結ぶ文化交流には、大きな意味がある。


世界で最も多くのクラスター爆弾を落とされた国、ラオス

2023年08月25日 11時43分25秒 | 社会・文化・政治・経済

ベトナム戦争時、米軍は敵の補給路を断つ目的で、ベトナムの隣国ラオス約2億7000万発のクラスター子爆弾を投下、約8000万発の不発弾が残ったという。

不発弾により1964年~2015年に約2900人が死亡、約2100人が負傷し、被害は今もやまない。

ラオスは世界でもっとも激しい爆撃を受けた国であり、人口一人当たりの落とされた爆弾の量は世界一になります。
ベトナム戦争中、大規模な地上戦が繰り広げられ、同時に激しい空爆が行われました。
50万回以上のアメリカ軍による爆撃が、1964年から1973年の間に実行され、ラオス全土に200万トンを超える爆弾が「シエンクワン県を中心としたラオス北部」と「ホーチミンルートの通る南東部の県」に集中して落とされました。

この9年間には、8分ごとに1度、米軍機1台に積載される爆弾が落とされてきたと言われます。また、1k㎡あたり約20トン、ラオス人1人あたり1トン以上の爆撃がされてきました。

アメリカは南ベトナム政権を支えるため軍事アドバイザーを最初に送り、そして航空支援、次に爆撃、最終的に50万の地上部隊を送りました。

南部への兵士や軍需物資の流れを妨げるため、米軍機は、北ベトナムだけでなく、この「ホーチミン・ルート」の周辺のラオス領内にも爆撃しました。ラオスは、容赦なくベトナム戦争に巻き込まれていったのです。

事実北べトナムへの米軍の爆撃が停止すると、ラオスへの爆撃は多くなっていきました。1972年までにインドシナ半島での米空軍の空爆の70%はラオスをターゲットにしたものであり、そのうち80%はホーチミン・ルートの地域を狙ったものでした。

1965年の1日平均55回の出撃回数だったのが、1968年の後半には、300回にまで増加していました。

1962年のジュネーヴ協定によって保護されていたと思われるラオスの中立性は、罰せられることのない北ベトナムとアメリカ軍による戦争の拡大によって、侵害されていたのです。


安全保障と軍事力

2023年08月25日 11時00分53秒 | 社会・文化・政治・経済

太平洋地域における米軍の軍需物質・兵器の調達先として、日本の工業力を活用する米国の構想。

この「日米経済協力」高層を強く歓迎したのが吉田茂内閣や財界であり、とくに経済団体連合会であった。

なぜならば、財界は朝鮮戦争停戦後や日本独立後も、「日米経済協力」を通じた特需=兵器需要が永続的にもたらせることを期待したからだ。

この永続的な特需は、「新特需」と呼ばれ、挑戦戦争に伴う特需とわざと区別してのことだ。

結果として新特需は、日本政府や財界が期待したほどのものにはならなかった。

この要因には、GHQ(連合軍司令部)と米政府との認識のずれや、米国の対外援助政策の転換などが指摘されている。

毎日新聞(8月24日オピニオン)小堀 聡京都大学准教授

 


野球のマジックの計算方法

2023年08月25日 10時53分21秒 | 野球

日本のプロ野球では、2位以下の全チームで自力優勝の可能性が消滅したときに、首位チームに初めてマジックが点灯します

自力優勝が消滅とは、そのチームが残りの全試合を勝ったとしても優勝できないことを意味しています。

野球のマジックの計算方法

プロ野球の優勝マジックは以下の方法で算出します。

優勝マジックの計算方法

優勝マジックの計算方法=(マジック対象チームの勝利数+残試合数)-(マジック点灯チームの勝利数)+1

基本的にマジック対象チームは2位チームですが、残りの試合数によって3位や4位のチームが対象チームとなることもあります。

例)以下の場合の優勝マジック計算方法

1位チーム(マジック点灯チーム):勝利数85/残り試合数8
2位チーム(マジック対象チーム):勝利数80/残り試合数9
優勝マジックの計算方法:(80+9)-85+1=5

よって、1位チームのマジックは5となります。仮に2位チームが全勝しても89勝、1位チームが5勝すれば90勝なので、首位をキープして優勝できます。

野球のマジックの仕組み

マジックの仕組みについてもう少しくわしく説明します。「自力優勝」に注目すると、わかりやすくなりますよ。

マジックは2チーム以上につくことはない

優勝マジックは、首位チーム以外の5チームすべてで自力優勝が消滅したときに点灯します。したがって2チーム同時にマジックが点灯することはありません。

実はマジックは必ずしも1位のチームに点灯するものではありません。野球の順位はその時の勝率が高い順に決まります。

したがって、1位のチームの方が勝率では上でも、2位の方が残りの試合数が多いとき、2位のチームにマジックが点灯するのです

たとえば、以下のようなケースです。

2位のチームにマジックが点灯するケース

1位チーム(残り試合3)
2位チーム(残り試合6)
両チームのゲーム差は1

この状況で直接対決を残していなければ、仮にお互いが全勝した場合、2位チームが逆転優勝できます。

このようにシーズン終盤では、2位のチームに優勝マジックがつくケースがあることを覚えておくと良いでしょう。

マジックはついたり消滅したりする

マジックが点灯したら、必ず優勝できるとは限りません。自力優勝の可能性があるチームが他に出てきたら、マジックは消滅します。

たとえば、マジック点灯チームの敗戦が続き、マジック対象チームが連勝すれば、

当然ゲーム差が小さくなって自力優勝の可能性が出てくるので、マジックは消滅してしまうのです

消滅したマジックが復活することもあれば、他のチームに点灯することもあります。

野球のマ

ジックはどうなったら減るのか

マジックがどのように減るかは、マジック点灯チームだけでなくマジック対象チームの勝敗が関係してきます。以下のような条件を設定してみていきましょう。

  • マジック点灯チーム:巨人
  • マジック対象チーム:阪神

マジックが1つ減るケース

巨人のマジックが1つだけ減るのは、次のような場合です。

  1. 巨人・阪神ともに勝ち
  2. 巨人・阪神ともに負け
  3. 巨人・阪神ともに引き分け
  4. 巨人が勝ち・阪神試合なし
  5. 巨人試合なし・阪神が負け

    マジックが2つ減るケース

    マジックが2つ減るのは、次のような場合です。

    • 巨人と阪神が直接対決して、巨人が勝ったとき
    • 巨人が勝ち・阪神が負け

    仮に3連戦で巨人が3連勝すれば、マジックは一気に(3日間で)6つも減ることになります。

    マジック点灯チームと対象チームが直接対決する場合、マジックが一気に減る可能性があるので、非常に緊迫したゲームになります。

2位のチームに優勝マジックがつくことがある

野球のマジックが最速で点灯した例

日本のプロ野球史最速でマジック点灯したのは、1965年の7月6日です

南海ホークス(現ソフトバンクホークス)に「マジック62」が点灯しました。子どもの夏休みを前に、すでにマジックが点灯していたのです。

そして9月26日、南海は19 試合を残して優勝を決めました。対戦成績は88勝49敗3分、2位に12ゲーム差をつけての優勝でした。

ちなみに、その次に早かったのが2003年7月8日の阪神タイガースです。

まとめ|シーズン終盤に優勝マジックがついてからがプロ野球は面白い!

マジックが点灯すると、優勝争いは俄然おもしろくなります。好きなチームにマジックが点灯すれば、応援するモチベーションもぐっと上がりますね。

最初はマジックの仕組みが分からなくても、点灯チームと対象チームの勝敗に注意していれば、おのずとわかってくるでしょう。 プロ野球の終盤線はぜひマジックに注目して、観戦を楽しんでくださいね。