
川田 稔 (著)
独ソ戦が日本の運命を変えた!
陸軍の頭脳はなぜ挫折したのか?
陸軍きっての戦略家・永田鉄山の後継者と目された武藤は、二二六事件の収拾に尽力、石原莞爾と争って日中戦争を推進したが、対米開戦には一貫して反対の姿勢を貫いた。にもかかわらず、東京裁判で最年少の死刑判決に――。昭和の難問を背負った男の本格評伝。
東京裁判で「A級戦犯」として最年少の56歳で処刑された人物に迫った。
中国侵略から南方へ。
あるいは対ソ連外交。
大日本帝国の重要な政策決定の節目で、武藤が重要な役割を果たしていたことが詳述される。
しかし、その個人研究はあまりみられない。
日本の中国侵略で、アメリカは対日経済制裁を進めた。
さらに日本が南部仏印(現在のベトナム)へと進駐(派兵)すると石油を全面禁輸。
「一般的には、進駐で戦争への道から引き返せなくなったとされています。
しかし実際はその前だっと考えていまあす」
「日本がソ連との戦争準備を進めて旧満州への兵力を増強した時点」と指摘する。
南部仏印進駐に、アメリカの国際戦略が多大な影響を与えていたことも論証する。
独ソ戦が、日本の戦略を大きく狂わせた。
対米戦争に勝ち目がないことは陸軍幹部の多くが分かっていた。
「武藤は最後まで戦争を避けよとしていました」
なぜ、開戦してしまったのか。
その過程も興味深い。
初心者向けではないので、今まで出された『昭和陸軍全史などを読了して、川田先生の思考を理解してから読むのをオススメする。
武藤章個人の評伝は澤地久枝氏の『暗い暦』しかなかったので、これから進むであろう武藤研究を考えると、この新書が出た意味は大きい。
本書は武藤章個人の評伝というより、武藤を中心とした日米開戦史である。まず全体の構成を以下に示す。
第1章 満州事変から日中戦争まで
第2章 軍務局長就任ー第二次世界大戦、始まる
第3章 対米戦回避と日独ソ四国「連合」構想
第4章 「英米不可分」と南進論
第5章 日ソ中立条約と日米諒解案
第6章 独ソ戦の衝撃
第7章 対日石油全面禁輸へーアメリカの戦争決意
第8章 日米開戦への道
第9章 A級戦犯として
このように、本書は武藤の陸軍省軍務局長時代に紙幅の大半を割いている。似たような書籍として、以前から保阪正康『陸軍軍務局と日米開戦』(中公文庫)があった。保阪氏は1941年10月の東条英機内閣の成立と昭和天皇のいわゆる「白紙還元の御錠」(対米開戦を辞せずとした9月6日御前会議決定の「帝国国策遂行要領」を白紙に戻すこと)以降、対米戦回避に尽力する武藤と部下の石井秋穂の動きをドキュメンタリー風に追っている。ただし、作家らしく情感の描写に重きを置く保阪氏の著作とは異なり、大学の名誉教授である川田氏は武藤を冷徹な打算で動く戦略家として描きだしており、また研究者らしく史実の解釈にも厳密さを期していて、かなり重厚な著作に仕上がっている。
本書の論旨は次の通りである。1930年代に統制派のトップとして知られた永田鉄山は、第1次世界大戦の戦訓から、次の戦争は国家総力戦になると予想しており、石炭や鉄などの戦略物資確保のため中国への勢力進出を目論んだ。
武藤は永田の構想を引き継ぐとともに、勢力範囲を石油、ボーキサイト、生ゴムを生産する東南アジアまで広げようとした。すなわち大東亜共栄圏の構築である。
しかし、東南アジアへの進出はイギリス・アメリカとの戦争を引き起こす危険があり(少なくとも武藤はいわゆる「英米可分論」には立たなかった)、日独伊三国軍事同盟にソ連を加えた四国連合によってアメリカの参戦を抑止しようとした。
しかし1941年6月の独ソ戦開始によってこの連合構想は破れ、その後の武藤は早期開戦を主張する参謀本部作戦部長の田中新一と激しく対立しつつ、外交交渉によって対米開戦を回避しようとした。しかしその努力も、11月26日の「ハル・ノート」によって終わることとなる。
川田氏はアメリカが総力戦遂行能力だけではなく、変化する国際環境に対応できる外交・政治力も持ち合わせていたとし、逆に日本にはそれだけの対応力がなかったと指摘する。
ただ評者の見るところ、1941年の段階で開戦か避戦かという「国家戦略」ないし「大戦略」の行く末が、武藤や田中といった陸軍の幕僚クラス(あるいは海軍もこれに含めてよいだろう)に実質上握られてしまっている時点で、彼ら個人個人の思惑はどうあれ開戦は不可避になってしまっていたように思える。
そもそもプロフェッショナルな軍人というのは「軍事的合理性」を徹底して追求する存在である。
永田をはじめ統制派の軍人たちによる総力戦構想はそれ自体見通しとして間違ってはいない。
よく彼らエリート軍人を輩出した陸軍大学校が戦略家ではなく「作戦屋」を育てたに過ぎなかったという批判があるが、川田氏のこれまでの著作を読むと、少なくとも永田や石原たちはひとかどの戦略家であったと言える。
しかし、彼らは軍人であるがゆえにまず総力戦という「戦争ありき」で物事を考え、その手段も軍事的なものに傾きやすい。
満州事変の石原莞爾、日中戦争の武藤、そして太平洋戦争の田中新一いずれも然りである。
つまり彼らは戦略家といってもあくまで「軍事」戦略家に過ぎない。そのワンランク上の「国家」戦略ないし大戦略を展開するには、それを立案する政治・外交・軍事を統合した組織と、強力な政治家によるリーダーシップが必要である。
しかし昭和前半の日本にはその両方が欠如していたため、国家戦略が「統帥権の独立」と「幕僚ファッショ」に引きずられる結果になったと考えられる。
ゆえに、その教訓として導き出されたのが戦後の文民統制(シビリアン・コントロール)ということになるが、これが単に軍事力の勢力・規模を極端に抑え込むというものではなく、逆にそれを包摂したものでなければならない、というのが評者の見解(最近出版された高橋杉雄『日本で軍事を語るということー軍事分析入門ー』中央公論社、を読んで触発されたものだが)である。
評者の私見が長くなってしまったが、上述したように本書の重厚な記述は、ウクライナでの戦火がなお続く現在、戦争とは如何にして開始されるのかということを深く考えさせてくれる。
昭和史だけではなく、現代の戦争に関心がある方々にも非常に有益な著作であると思う。