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国民を支配し、隷属化させる国家権力の魔性

2020年08月13日 20時25分32秒 | 社会・文化・政治・経済

道理や理性を超えて、人間の心の奥底から発する生命的反発といえるだろうか。
人間の憎悪ともいうべき感情のもとに、権力が行使される時、権力は魔性の力となり、弾圧の牙をむくのである。

国民を支配し、隷属化させる。

時には、法律を拡大解釈し、違法として裁断し、過剰なまで監視の目を光らせ、わずかでも法に抵触す可能性があれば、厳しく取り締まる。


治安維持法など。

治安維持法は、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。
1925年(大正14年)に治安維持法(大正14年4月22日法律第46号)として制定された。その後、1928年(昭和3年)6月29日公布の緊急勅令(昭和3年勅令129号)で修正が加えられた。
さらに1941年(昭和16年)にも全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)され、1945年(昭和20年)10月15日に廃止された。

明治後期、表現の自由や結社の自由の制限を目的として定めた法律が、治安警察法だった。

また、天皇の地位は「神聖にして不可侵」(第3条)であり、個人に対しては刑法の不敬罪によって解釈や罰則が定められたが、団体に対しては神聖なる天皇の地位を「侵す」行為の定義について、議論の余地があった。
1920年(大正9年)より、政府は治安警察法に代わる治安立法の制定に着手した。
1917年(大正6年)の十月革命(ロシア革命)による共産主義思想の拡大を脅威とみて企図されたといわれる。
その歴史的役割[編集]
当初、治安維持法制定の背景には、ロシア革命後に国際的に高まりつつあった共産主義活動を牽制する政府の意図があった。また似たような法律は当時のドイツ、フランス、アメリカ合衆国、イギリスなどに公然と存在していた。
後年、治安維持法は多くの活動家、運動家に適用され、小林多喜二などは取り調べ中の拷問によって死亡した。
朝鮮共産党が適用第一号とされている[要出典](内地においては、京都学連事件が最初の適用例である)。
1930年代前半に左翼運動が潰滅したため標的を失ったかにみえたが、以降は1935年(昭和10年)の大本教への適用(大本事件)など新宗教(政府の用語では「類似宗教」。似非宗教という意味)の取り締まりにも用いられた。天皇を頂点とする国家神道の存立を脅かすことが、国体の変革に当たるという解釈の下に取締りが進められた訳である。

大本以外にもPL教団、創価教育学会など弾圧を受けた団体は多く、中でも創価学会は創立者で精神的支柱の一人でもある牧口常三郎を獄死させられている。


<自分自身を変革すること>

2020年08月13日 20時25分32秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽生命には「歓喜」を見つけ、「歓喜」を生み出す無限の可能性が備わている。
「歓喜」こそ、人生を豊かにする「学び」の基盤である。
▽個人の内面性の充実や、歓喜と充実の共有といった、より広く深い価値観。
▽社会全体を包み込むような、広大な視野をもった教育哲学が求められている。
▽あらゆる社会変革は「一人」から始まる。
教師は目の前の一人一人を励まし、内面の変革を促す上で最高の立場にある。
▽人は、絶望に陥りがちなことばかり経験している。
しかし、一つ一つの新たな挑戦から学び、成長することができる。
▽人生にもたらされるあらゆることに、「信頼」「信念」「感謝」の心で、共に立ち向かっていくことだ。
▽努力と挑戦を続けていけば、必ず成果がでるはず。
大事なことは、ねばり強く挑戦を続けることだ。
▽危機は、<偉大な変革のチャンス>になる。
▽人生において最も困難なことの一つは、<自分自身を変革すること>-ネルソン・マンデラ

ネルソン・ホリシャシャ・マンデラコサ語: Nelson Rolihlahla Mandela1918年7月18日 - 2013年12月5日)は、南アフリカ共和国政治家弁護士である。

南アフリカ共産党中央委員、アフリカ民族会議議長(第11代)、下院議員(1期)、大統領(第8代)を歴任。若くして反アパルトヘイト運動に身を投じ、1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受ける。

27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放される。翌1991年アフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。デクラークと共にアパルトヘイト撤廃に尽力し、1993年にノーベル平和賞を受賞。

1994年、南アフリカ初の全人種が参加した普通選挙を経て大統領に就任。

民族和解・協調政策を進め、経済政策として復興開発計画(RDP)を実施した。1999年に行われた総選挙を機に政治家を引退した。

賞歴としてネルー賞、ユネスコ平和賞、アフリカ賞サハロフ賞レーニン平和賞ノーベル平和賞国際検察官協会名誉章受章など。称号には名誉法学博士(早稲田大学)など。


「生のための教育」

2020年08月13日 19時55分37秒 | 社会・文化・政治・経済

▽生命軽視の魔性の権化ともいうべき核兵器の存在を断じて許してはならない。 傍観、無関心を蔓延させる風潮こそが、<平和>を脅かす要因に。

▽不正や真実から目をそらす。 勇気の声をあげない。 行動を起こさない。 そうした人々の姿勢こそ、巨悪を生み出す温床になる。

▽戦争や対立の背景には、互いの疑心暗鬼がある。

▽<差異へのこだわり>は、人間が克服すべき根本の病の一つ。

▽「生のための教育」を提唱したデンマークの精神の父・グルウントヴィ。 学校とは、生徒たちが生きることや人生について学び、生命の多様性を学ぶ「生のための学校」であらねばならない。

ニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィ(Nikolaj Frederik Severin Grundtvig、1783年9月8日 - 1872年9月2日)は、デンマークの牧師、作家、詩人、哲学者で教育者でまた政治家でもあった。 通常、名前はNFS・グルントヴィと略称される。 彼は、デンマーク史において最も影響力の大きかった人物の一人で、その哲学は19世紀後半、デンマークの新しい民族主義を形成するに際して大きな刺激を与えた。 彼は、ファーストネームを三度変え、三度目は彼の76年の人生にちなんで名付けられている。 グルントヴィと彼の後継者たちは、現代のデンマークの国民意識に現在も大きな影響を及ぼしている。それは国民文学のなかに広く染み渡っており、それは深い信仰の力によっても支えられている。


アイヒマン調書――ホロコーストを可能にした男

2020年08月13日 18時20分46秒 | 社会・文化・政治・経済

ヨッヘン・フォン・ラング (編集), 小俣 和一郎 (翻訳)

内容(「BOOK」データベースより)

ナチスによるユダヤ人殺戮のキーマン、親衛隊中佐アドルフ・アイヒマン。戦後アルゼンチンに逃亡していた彼を、一九六〇年にイスラエルの情報機関モサドが拘束。全世界が注目するアイヒマン裁判の準備にあたり、イスラエル警察によって八カ月、二七五時間にわたる尋問が行われた。自らの父親も殺戮の犠牲者である尋問官との、迫真の駆け引きから浮かび上がるアイヒマンの人間像とは?歴史の事実と将来のあらゆる可能性を直視し、「悪の凡庸さ」を超えて、人間存在の理解を深める必須史料。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

 

ラング,ヨッヘン・フォン
1925‐2003年。ドイツ・ベルリン生まれ。雑誌『シュテルン』現代史編集局に勤務。現代史シリーズ『ヒトラー帝国最後の一〇〇日』『われわれと同じ殺人者』で知られる

小俣/和一郎
1950年東京都生まれ。精神科医、精神医学史家(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
 本書は「アイヒマン調書―イスラエル警察尋問録音記録 単行本 – 2009/3/13」の文庫本化
 なか見!検索が出来ないので参考のため目次を記します。
まえがき
第一部 親衛隊員番号45326
第二部 追放・移送・抹殺
第三部 強制収容所との関係
第四部 最終解決
第五部 ハンガリー作戦
第六部 終戦から逃亡へ
あとがき
 第一部の始めにあるように、
 アドルフ・アイヒマンの名は、第三帝国でのほかの何千人もの一般官僚の名前と同じく、ほとんど無名であった。・・・課長で中佐。しかし実権は強大でユダヤ人絶滅に決定的な役割を果たしたことが本書の尋問調書およびまえがきの組織表から明らかになる。
その名が大量殺人者と同一視されるようになったのは、戦後のことである。
一体、このアドルフ・アイヒマンとは何者であったのか?
彼はいかにしてそのような命令を実行に移すことができたのか?
どうような時代が、どんな環境が、そうした人物を作り出したのか?
このような問いに彼は今自ら答えようとしている。・・・本書の内容。イスラエル警察のレス大尉に語った内容。雑談形式。すべて録音。275時間、3564枚。本書はその抜粋。
 
 
本書を読み、驚いた。こんな無責任な、くだらない、バカ男のために多くの命が失われたことに。

責任の欠片さえ感じず、すべて責任転嫁。都合の悪いことには記憶にない、思い出せない、知らない。へスなど他の人の自分に関する証言が間違っている、責任転嫁だ。わたしは罪はない。あってもユダヤ人移送に関することだけだ。私は権限はなかった。悪いのは他の奴らだ。ユダヤ人虐殺については知っていたが、私は関与していない。ヒトラー、ヒムラー、ハイドリヒら上層部がすべて決めたことだ。私は芝居をしていただけ。大尉殿ご理解ください、私は嘘の証言なんてしていません。誓ってもいいですよ。。。こんなアイヒマン節が延々と続くのである(「大尉殿」とはこの調書を取ったレスのこと)。

しかしながらどんなにしらばくれていても、結局は1962年5月31日にアイヒマンは絞首刑に処せられている。
こんなアイヒマンも自らの死への恐怖には逆らえなかったみたいで、膝を屈してへたり込んでしまったそうな(P385)。多くのユダヤ人にはそれ以上の恐怖、痛みを味合わせた張本人のくせに。

戦争指導者、戦争で得をする奴らなんてこんなレベルである。
人の命なんかより自分の命が惜しい。
クズレベルの人間である。
 
親衛隊上級大隊指揮官の持つ権限と明らかな保身の言い訳を含んだ、調書内容に少し混乱しました。
基本的に国家の思想と、個人の倫理との矛盾は理解しているのですが…。
 
割愛されている箇所があるようです。
翻訳は判り易く、一気に読めました。
ルドルフヘスの「アウシュビッツ収容所」と併せて、当事者の語る貴重な資料です。

ホロコースト全証言―ナチ虐殺戦の全体像

2020年08月13日 18時12分14秒 | 社会・文化・政治・経済

グイド クノップ  (著), Guido Knopp (原著), 2 その他

内容(「MARC」データベースより)

「普通の人」も加害者ではないか? 虐殺部隊、ナチ協力者からユダヤ人まで、500名以上の新証言とナチ指令書他の資料で新たな真実が明らかになった決定版。写真多数収録。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

クノップ,グイド
歴史学教授。1948年生まれ。大学卒業後「フランクフルター・アルゲマイネ」紙編集部に勤務、続いて「ヴェルト」紙日曜版の外国課長をつとめる。現在はドイツ第2テレビ(ZDF)の現代史局長である。クノップがこれまで受賞した数多くの賞には次のようなものがある。ヤーコプ・カイザー賞、ヨーロッパ・テレビ賞、バイエルン・テレビ賞、フランス・テレビCLIO賞、オーストリア・テレビROMY賞、金獅子賞、ロサンゼルスのサイモン・ウィーゼンタール・センターによる顕彰、連邦功労十字章 

高木/玲
1958年生まれ。大阪外国語大学大学院修士課程修了。大阪府池田市在住 

藤島/淳一
1952年、秋田県生まれ。1976年、東海大学理学部化学科卒。在学中よりドイツ語の勉強をはじめる。4年間のサラリーマン生活後、1980‐85年、旧東ドイツゲルリッツ市立劇場オーケストラ団員。85年、一時帰国後、旧西ドイツに渡る。86年以降、観光ガイド、通訳(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されてい
 
 
ナチスドイツの行った劣等民族と称したユダヤ人・ジプシー・スラブ系民族への弾圧はいかに行われたのかを詳細に検証する。
これらの政策はナチスの根幹を占める政策ではあったが、それが大規模な殺戮へと発展したのはソビエト侵攻、所謂「バルバロッサ作戦」実行以降のことである。
前線で戦う国防軍の後方の占領地域で「特別行動部隊」と呼ばれる殺人集団が人間を狩り立てていた。
最初は集団で町外れの峡谷などに連れていき、服を脱がせてから追い詰めて機関銃で射殺していった。
その数は数十万人にも及んだ。ユダヤ人が勿論最も多かったのだが、ジプシーやスラブ系の民族も含まれていた。
しかし、この方法は殺す側の兵士たちの心理的なダメージが大きく適さないという判断がされる。

続いてドイツ国内で行われていた「障害者の安楽死」というガス殺の方法を転用が検討された。
しかし、ガストラックを使用したやり方では時間が掛かり、一度に殺せる人間にも限界があった。
そこで、シラミ駆除に使っていた薬品を用いての殺害が採用されることになる。
大規模な殺害の為のガス室が建設され、死体を焼却される炉も併設された。
強制収容所に全ヨーロッパからユダヤ人を送り込むようにした。戦時中にも関わらず優先的に貨車が回され、国鉄もダイヤを組んだ。運ばれてきた人たちは財産を奪われて、働けない母親や子供は即刻ガス室送りになった。
労働可能な者はじわじわと弱らせて殺害した。不衛生・重労働・食糧不足・過密・極寒・疫病で多くの人間が命を落とした。
600万人ものユダヤ人を機械的に殺戮するシステムが構築されていたなどと、同時代の人間でも容易には信じられなかったことだろう。連合国やその他の国も積極的にはユダヤ人を助けようとはしなかった。移民の受け入れがどの国も難しかったということや、強制収容所への爆撃が行われなかったことなどはユダヤ人には不運だった。
ヒトラーがこれ等のシステムの構築を命令したことには間違いはないだろうが、多くのドイツ人・リトアニア人・ポーランド人等が協力者となった。「反ユダヤ主義」は欧州に古来より広く蔓延していた伝染病だった。
その拡大の究極的な成れの果てが「ホロコースト」だったと言えなくもない。
 
 
読みでがありますが、何が現実に行われたかを知ることが大事でしょう。次に、人間はこういうことをするんだということを事実として知ることが大切です。同じようなことは、あちこちで歴史的、現代的にも行われています。こんな動物は、人間だけだと思います。ほかの動物は、生きるための最小限の殺戮はしますが、人間のようにしません。なぜ、人間はこのようなことをするのでしょうか。
 
 
夜と霧」「アウシュビッツ収容所/ルドルフヘス著」なども読みましたが、
それらを凌ぐ集大成の書だと思います。
時代の流れに沿った説明本文の横に、全ページにわたり数々の証言が追記されていて、非常に読みやすかったです。

しかしこれだけの数の生々しい証言を読むと、
「本当にホロコーストは現実だったのだろうか・・・」
と今更ながら感じたほどです。
それほど衝撃を受けた書です。
 
 
 

ALS嘱託殺人の山本容疑者、空白の6カ月にフィリピン「セブ島」でやっていたコト

2020年08月13日 17時42分26秒 | 事件・事故

8/13(木) 6:00配信

デイリー新潮

「イギリスの名門校を卒業」と吹聴

「安楽死」か、それとも「殺人」か――。

 筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の女性を殺害したとして嘱託殺人容疑で逮捕された山本直樹容疑者(43)。犯行の「見返り」に、亡くなった女性から約130万円を受け取ったとみられている。医師免許は不正に取得した疑いが浮上し、「海外の大学を卒業した」とする学歴には胡散臭さが漂う。そうした彼の“本領”は「南の楽園」でも発揮されていた。事件発生前年にはフィリピンでクリニックを開業し、現地の在留邦人には「イギリスの名門校を卒業した」と吹聴。クリニックはわずか半年で閉鎖されたが、その背景には現地の医療関係者とのトラブルがあったという。

 

 報道によると、山本容疑者は東京医科歯科大学を中退。その後、アジアの学校に留学していたというが、フィリピンでは周囲に「イギリスのインペリアル・カレッジに編入して卒業した」などと説明していた。インペリアル・カレッジ・ロンドンは、ノーベル賞受賞者も多数輩出する、イギリス屈指の理系の名門校だ。

 

 山本容疑者は2010年に医師の国家試験を受験し、その際、厚労省には「海外の大学の医学部を卒業した」と申請していた。その大学がインペリアル・カレッジか否かは不明だが、京都府警が大学側に照会したところ、卒業を確認できなかったという。

 

 専門は泌尿器科で、16年には都内にED(勃起不全)治療専門のクリニックを開設し、院長を務めていた。同時期にはカンボジアの首都プノンペンでも医療活動を行っており、17年6月、都内で行われたロータリークラブの会合で、こうスピーチしていた。

 

「カンボジアの問題点は、ポル・ポト政権によって医者を含む知識層が虐殺され、その後の人材育成が遅れていることです。しかし医療制度や教育は急速に整備され、国として回復する過程にあります。私は日本クオリティーの医療を直接現地で届けることに引き続き専念していくつもりです」

 

 程なくして山本容疑者は、“日本クオリティー”を東南アジアに普及させるため、フィリピンとも関わりを持ち始める。

 

日比の経済交流促進に意欲

 山本容疑者がフィリピンに日本人向けのクリニックを開設したのは18年7月。場所は、リゾート地として世界的に知られるフィリピン中部のセブ島で、「セブ・ジャパニーズ・クリニック」と名付けられた。現地の会報誌で、山本容疑者はこんな抱負を述べている。

 

「日本人の方のため、万が一にも健康を損ねた場合のセーフティネットとして機能することを目的として開設いたしました。日本人の健康管理に資することで、留学生の安心や進出企業の増加に寄与できれば、日比の経済交流の促進にも結果的につながるものと考えております」

 

 クリニックにはレントゲンをはじめ、CT・MRI、超音波検査、内視鏡検査、人工透析など高度な医療設備が整っていた。入院施設はないが、外来通院で可能なほぼすべての医療が提供できると謳い、人間ドックも受け付けていた。何よりも、セブ島で初の「日本人医師常駐」が最大の売りだった。

 

「日本人医師が常駐することで、臨床診断・治療のクオリティーを担保することができ、旅行者・留学生・駐在員などの方にとっては、日本におられる時とほとんど変わらない医療を提供できるものと確信しております」(前述の会報誌)

 

 山本容疑者は理事という立場でクリニックの運営に携わり、実際に医療行為を行うのはもう1人の日本人医師だった。当時、山本容疑者に会ったことがあるという、事情に詳しい関係者はこう語る。

 

「山本さんは日本がベースで、出張で数日セブ島に行くような感じでした。東南アジアのどこに滞在しようか迷った挙げ句、セブ島に決めたと言っていました。クリニックの開業には友人と2人で出資したそうです。ブランド物を身に着け、お金を持っている印象を受けました」

 

 クリニックは大々的に宣伝され、約3000人いるセブ島の在留邦人社会にとっても画期的だった。しかし、そこには落とし穴が潜んでいた。

 

「脅迫された」と険しい顔つき

 現地で医療支援を行う日系企業の担当者が説明する。

 

「山本さんのクリニックから提携できないかという話を持ち掛けられました。そこで、フィリピンで医療行為ができる資格を提示するようメールで伝えましたが、返信がありませんでした。フィリピンでは、外国人医師による医療行為は認められていませんので」

 

 山本容疑者のクリニックは、フィリピンの国内法に抵触する可能性があったということだ。

 

“日本クオリティー”を届けるためにセブ島へ乗り込んだ山本容疑者だったが、日系企業からの協力は得られず、厳しい運営を迫られることになった。在留邦人からは「診療費が高い」などと言われ、患者も来なくなったために同年12月、閉鎖に追い込まれたという。

 

 ところが山本容疑者自身は、閉鎖の背景について、周囲の在留邦人たちに別の説明をしている。前述の関係者が言う。

 

「(提携を断った)日系企業から脅迫されたと、険しそうな表情で語っていました。それで閉鎖に追い込まれたようです。少しずつ患者さんも増え、これからだと言っていたんですが……」

 

 一方の日系企業担当者は、脅迫については完全に否定している。

 

「そんなことしないです。そもそも脅迫する理由がありません。ただ、提携をしなかったことが納得いかなかったようですね」

 

 山本容疑者が語る脅迫の有無は不明だが、いずれにしても両者はセブ島で競合関係にあったため、ビジネスをめぐって何らかのトラブルが起きたとみられる。

 

 閉鎖されたクリニックは、外資系企業に売却され、常駐の日本人医師は日本へ帰国したという。

 

 山本容疑者がクリニックの開設に出資した額までは明らかになっていないが、フィリピン進出に挫折したことで、かなりの損失を被ったとみられる。もし彼が異国の地での医療ビジネスに成功していたら、「130万円嘱託殺人」は果たして……。

 

 会報誌で「セーフティネット」の重要性を掲げていた山本容疑者。だが彼はフィリピンで夢破れ、わずか1年以内に嘱託殺人に手を染めている。ひとりのALS患者の命を奪った山本容疑者にとって、医療の「セーフティネット」とは何を意味していたのだろうか。

 

水谷竹秀/ノンフィクションライター

 

週刊新潮WEB取材班編集

 

2020年8月13日 掲載

 

新潮社

 

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「俺は先に行く」19歳特攻隊員、弟に宛てた手紙 終戦2日前にゼロ戦で突入

2020年08月13日 17時32分41秒 | 社会・文化・政治・経済

8/13(木) 7:02配信

京都新聞

終戦2日前に特攻で亡くなった星野實さん太平洋戦争の終戦2日前の1945年8月13日、京都に生まれ育った19歳の特攻隊員が沖縄の海に浮かぶ艦船へゼロ戦で突入した。青年は最後の2カ月間、鹿児島県の喜界島で出撃をひたすら待っていた。75年がたった夏。島の住民が在りし日の姿を語り、遺族が命の軌跡を振り返った。

【写真】学徒出陣して戦死した京大生が恋心を綴った日記

「まじめ過ぎる兄」16歳で予科練に

 特攻で亡くなったのは星野實(みのる)さん。1926年、京都市伏見区下鳥羽の農家に四男として生まれた。「まじめ過ぎた男ですわ」。3歳下の弟の植村五市(ごいち)さん(91)=上京区=は兄の記憶をたどる。

五市さんによると、實さんは幼い頃からふざけたりすることもなく、勉学に励んでいた。下鳥羽尋常小(現・下鳥羽小)を卒業し、桃山中(現・桃山高)を経て1943年6月、16歳でパイロットの基礎訓練を積む海軍飛行予科練習生(予科練)になった。

最後に見た兄は七つボタンの制服姿だった

星野實さんの遺品とみられる絹の布。行動した部隊の推移や「轟沈」「必沈」などの文字が書かれている(京都市伏見区下鳥羽)

實さんは入隊して京都を離れた後、休暇で生家に帰省したことがある。予科練の象徴、七つボタンの制服を着ていた。五市さんは「飛行機乗りになりおったんやなあ、と思った。でも自分は戦争にはあまり意識がなかった」と話す。

五市さんが實さんと会ったのは、その時が最後となった。後に實さんは、用務の際に生家のある下鳥羽の上空を飛行すると家族に伝えていた、という。

五市さんも1944年に予科練に入り、神奈川県にあった海軍の教育機関に所属していた時、實さんから手紙が届いた。「俺は先に行く。お前は後についてこい」と記されていたという。「空中戦で死ぬ覚悟が伝わった。もしかしたら特攻を志した頃かもしれない」

「妹の話をしきりに」喜界島の住民は實さんを覚えていた

星野實さんの思い出を語る栄ヤエさん(鹿児島県喜界町・喜界島)

海上自衛隊鹿屋航空基地史料館(鹿児島県鹿屋市)によると、1945年6月10日、實さんが所属した神風特攻隊「第二神雷爆戦隊」は鹿屋の基地から、沖縄へ向かう特攻機の中継基地となっていた奄美群島の喜界島へ移った。以降、出撃命令を待つ日々が続いた。

 島に暮らす栄(さかえ)ヤエさん(96)は隊員たちと交流があり、實さんのことを覚えていた。自宅は兵舎の近くにあり、實さんはヤギを見るのを楽しみに毎日のように半袖シャツ姿で訪れた。稲刈りを手伝い、生家での農作業の様子を伝えた。柔らかな物言いで妹の話をしきりにしていたという。栄さんは實さんに手作りのお守りを渡した。

終戦2日前に出撃、最後に打電した言葉は

喜界島の滑走路脇に咲くテンニンギク。特攻隊員が、島の住民から贈られた花を置いて飛び立ったことで根付いたとの言い伝えがあり、「特攻花」と呼ばれる=喜界町役場提供

1945年8月11日、出撃命令が下る。13日朝、栄ヤエさん宅を隊員たちが訪れ、一緒にご飯を食べた。星野實さんは「上から連絡が来た。今日は一緒に仕事へ行けない」と告げたという。午後6時、實さんら隊員は1人ずつ計5機で出撃。家の外で見送った栄さんの上空で、何度も左右の翼を上下に振るゼロ戦が1機あった。「優しい顔をしていてね、男前だった」。栄さんは、照れるように笑った。

同史料館の説明では、出撃した5機のうち3機は機体の不具合で引き返し、實さんらの2機がそれぞれ500キロの爆弾を積んで敵艦に向かった。日没45分後の午後7時50分、實さんは「我敵空母に必中突入中」と打電した後、消息を絶った。突入したのは後に、空母ではなく揚陸艦とみられることが分かった。

實さんらの特攻を新聞が報じたのは2日後の8月15日。毎日新聞2面に「わが航空部隊は十三日夕刻沖縄本島中城湾に在泊中の敵艦船に対し特別攻撃を敢行、現在までに判明せる状況は敵空母に必中突入を報じたるもの二機である」との記事がある。1面の記事には「聖断拝し大東亜戦争を終結」と終戦を伝える大見出しが付いていた。

会ったことのない叔父のため、京都の水を錦江湾に注ぐ

星野實さんに関わる資料を自宅で保管するおいの澄夫さん(京都市伏見区下鳥羽)

「特攻の 名も世に出でず 埋木の つぼみに散りし 我子思へば」。實さんの父の市三郎さんは息子の死を悼む歌を詠んだ。生家には遺品とみられる絹の布が残された。土浦、鹿島、博多、天草、舞鶴と行動した部隊の推移とともに、「轟沈」「必沈」と書かれ、特攻機が敵艦に突入する絵も描かれていた。

實さんの資料を保管するおいの星野澄夫さん(71)=京都市伏見区=は叔父が踏んだ地を訪ね、慰霊に尽力してくれた部隊の関係者に謝意を伝えてきた。喜界島に建つ碑には、生家のそばの酒造会社が作った日本酒を供えた。鹿児島の錦江湾では、生家で使う井戸水を酌んで運び、海に注いだ。

「生きておられた時と同じ京都の水やさかい。心だけはそう思って、持って行った」。一度も会ったことのない叔父へ、澄夫さんは思いを込めた。


サーフィン中に溺れたか 友人らと訪れた39歳男性死亡…海上でサーフボードの横に浮いているのが見つかる

2020年08月13日 17時14分17秒 | 事件・事故

配信

愛知県田原市

 愛知県田原市で39歳の男性が海に浮かんでいるのがみつかり、まもなく死亡しました。サーフィンをしていて溺れたとみられています。  

警察によりますと、13日午前7時ごろ、田原市六連町の浜辺から5mほど離れた海上で、サーフボードの横に男性が浮いているのを、釣りをしていた人が見つけ救助しました。  

男性は名古屋市千種区の会社員、蟹江俊春さん(39)で、病院に搬送されましたが、およそ3時間後に死亡が確認されました。  

蟹江さんは水着と半袖のウエットスーツを着ていて、複数の友人とサーフィンに来ていたということです。当時、波は穏やかだったということです。

 警察は蟹江さんが、サーフィン中に溺れたとみて調べています。

東海テレビ

 

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河井夫妻の保釈認めず、東京地裁 2度目の請求、参院選買収事件

2020年08月13日 17時11分44秒 | 事件・事故

配信

東京地裁は13日、昨年7月の参院選広島選挙区を巡る買収事件で、公選法違反の罪で起訴された前法相で衆院議員河井克行被告(57)と、妻の参院議員案里被告(46)の2度目の保釈請求を、いずれも却下する決定をした。

 夫妻は6月18日に東京地検特捜部に逮捕され、東京拘置所に勾留されている。7月8日の起訴後に保釈を請求したが、いずれも退けられ、今月7日に2度目の請求をしていた。  

克行前法相は、地元議員ら100人に計2900万円余りを配ったとして起訴された。案里議員は、うち5人に対する170万円の配布について共謀したとされる。関係者によると、夫妻は無罪を主張している。

 

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認知科学者が「職場ではできるだけ孤立していたほうがいい」と説く理由

2020年08月13日 14時44分07秒 | 社会・文化・政治・経済

8/13(木) 11:16配信
プレジデントオンライン

「気の合う仲間がいない」は転職の理由になるだろうか。明治大学の石川幹人教授は、「『職場に仲間がいるべきだ』という考えは間違いだ。職場に仲間は必要ない。職場以外の場所で居場所があればいい」という――。

 ※本稿は、石川幹人『その悩み「9割が勘違い」 科学的に不安は消せる』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■「協力的」「利己的」という相反する仕組み

 狩猟採集時代の協力集団では、「助け合わねばならない」という掟(おきて)があったにちがいありません。と言うのも、人間にはサルの時代までに身につけた利己的な行動をとる「心のモジュール」も残っているからです。それが強いと、獲物をひとり占めしようとしたり、助けられても助け返さないタダ乗りをしようとしたりします。そのような行動をとる個体は「掟違反」と見なし、集団から排除する仕組みもあったはずです。

 この事実は、私たちの心の内をのぞいてみると納得できます。仲間の誰かがルール違反をしたらどんな気持ちがするでしょうか。きっと誰もが強い憤りを感じるでしょう。憤りから来る怒りをその裏切り者にぶつけて反省を促し、心を入れ替えて掟に従うようになれば、また仲間として迎え入れます。

 このように私たちには、「裏切り者検知」「憤り」「許し」「仲間意識」など、一連の仕組みが備わっています。前述の公平感、恩義、義理人情のみならず、ルールを守る道徳観もこの時代に形成されました。狩猟採集時代は、助け合いを成立させるために、人間に多くの機能が一気に進化した特別な時代だったのです。

■人間は助け合うことで生き残ってきた

 チンパンジーの階層集団では、食糧が減ってきたら下位の個体から割を食ってきました。一方、人類の協力集団では公平感が強く、食糧が減ってきたときに強い者だけが生き残るとはなりにくく、少ない食糧を分け合い、共倒れになる危険性が高まります。この点から人類の協力集団は危機に弱いと指摘できます。

 実際のところ、現代に生きる私たちは皆、数十万年前にアフリカに生きていたある一つの集団の末裔であることが、遺伝情報の解析からわかっています。

 ほかの集団は、十分な協力ができなかったり知恵が生み出せなかったりと、食糧難に対応できず、すべて滅びてしまったというわけです。私たちは、その唯一の祖先集団が培った貴重な「心のモジュール群」を備えて生まれてきているのです。

 協力する心の働きは、よいことばかりではありません。現代社会に特有の悩みももたらします。

■「気の合う仲間がいない」は転職の理由になるか

 「職場に気の合う仲間がいない。転職したほうがいいのかな? 」。

 職場での昼休み、休憩室に集まった社員は皆でお弁当を広げ、社内の噂話で盛り上がっている。でも、それに私はなじめない。話を合わせるのも面倒だし、そんな昼休みだからリフレッシュもできない。

 一人で昼食をとるのは悲しいのかもしれませんが、利点もあります。職場の同僚にわずらわされない点や、社内の噂に惑わされない点です。人類が長年の遺伝から学んだホットハートから生じるネガティブな気持ちを整理してみましょう。それには理性的に判断するクールマインドを発揮して、あなたにとって「職場とはどのような意味を持つ場所か」をかえりみる必要があります。
■日本の会社はもはや「協力集団」ではない

 日本の企業経営では古くから協力集団を演出してきました。職場は家族のような付き合いを理想として、宴会や運動会を催してはコミュニケーションを密にとり、皆の価値観や問題意識の共有を図ってきました。社員それぞれは、皆の状況を把握したうえで、自分が可能な限り仲間のために働くという具合です。不祥事を起こした企業の経営者が、いまだに「社員一丸となって改革に取り組む」と言いますが、過去の理想を追った姿と言えます。

 現在の企業の職場では、昔ながらの仲間意識は失われています。実態は、協力集団というよりは契約集団になっています。割り当てられた仕事をこなせば、それに対して報酬が与えられるといった構図です。率先して仕事をこなしても、契約に謳われていなければ報酬もないという現実です。それこそ「仲間づくり」が契約になければ、仲間をつくらなくとも問題はないのです。

 つまり、「気の合う仲間がいない」という気持ちは、「職場に仲間がいるべきだ」という前提から生じている可能性があります。職場が協力集団のように見えてしまうので、「仲間づくりモジュール」が発動されるのですが、実際は必要ないのです。

■「どこにも仲間がいない」は問題だ

 家族や地域、同好の士の集まりなど、どこかに仲間がいれば、前述のように職場で仲間をつくる必然性はないのですが、「どこにも仲間がいない」のならば別の問題があります。狩猟採集時代の仲間は生きる支えであったので、私たちは仲間がいないとすぐ、「生きていけない、大変だ」と思いやすいのです。

 そうした不安に駆られぬように、最低限どこかに仲間をつくっておくことは重要です。どこかに仲間ができていれば、職場については生活費を得る場として、軽く考えることができます。

 それに、職場での仲間づくりは「職場ならではの大変さ」もあります。仲がいいからと秘密を打ち明け合った人同士がこじれ、絶交状態なのに過去の経緯から抜き差しならない関係は解消できず、おまけに一緒に仕事をしなければならないという窮地に追い込まれることがあります。「職場に仲間がいていいな」と見える陰には、どろどろとした現実も多いのです。


教師の性暴力に苦しんだ女性の告白「先生は一切避妊をしなかった」

2020年08月13日 13時01分54秒 | 事件・事故

8/13(木) 7:01配信
現代ビジネス

日本産婦人科医会の副会長・前田津紀夫氏の発言にSNSなどで批判が集まり、それと同時に「緊急避妊薬」という言葉も話題になっている。これまでもFRaUwebでは、緊急避妊薬の重要性を多くの筆者が訴えてきた。

【マンガを読む】性交渉をめぐるトラブル…特異体質ゆえの悩みとは

 でも、未だに「性が乱れる」「避妊をするもしないも自己責任」といった意見が多い。多くの女性は避妊の重要性はわかっている。望まない妊娠はしたくないと思っている女性が大半だ。しかし、そんな思いがあっても苦しんでいる女性たちはいる。

 今回、高校時代に受けた性被害の経験を20代の女性(桑沢まりかさん)が自身を今でも苦しめている体験について寄稿してくれた。望まない妊娠に怯えながらも、誰にも相談もできず苦しんだ日々……。その後、海外で驚くほど低価格で入手できる緊急避妊薬の存在を知り、悔しくて涙が止まらなかったという。

 SNSで「緊急避妊薬」が話題になっている今だからこそ、知ってほしいと傷つく想いを綴ってくれた桑沢さんの手記から、あなたは何を感じるだろうか。

父親のように慕っていた先生が

 

 「緊急避妊薬」……。
この言葉を聞いて私が思い出すのは、高校3年生のとき。
私は17歳からおよそ2年半に渡り、小学校時代に出会った教師から性暴力を受けていた。私が緊急避妊薬を必要としたのは、そのときのことだ。

 小学生の頃から知るその教師は、単なる教師というよりも家族ぐるみの付き合いをしていて、私にとって父親同然の存在だった。また、多くの同級生がそうであったように、私も度々その教師に様々な相談をし、子供ながらに信頼していた。

 そんな存在だったはずの教師の刃が向いたのは、高校2年、大学受験を頑張りたい、そう伝えたときだった。「俺がいなければ乗り切れない」「一人でお前は無理だろう」と、私の肩に手が回った。実際、師としてその教師を頼りにしていた私は、何をどうすればいいかもわからないまま、相手の言うことに従うより他なかった。

 それからの日々は過酷だった……。

 日々の生活を管理され、友人との時間も奪われた。気に入らないことをすると延々と怒鳴られ説教をされ、ことあるごとに「俺とお前のこの関係性は他の奴らに伝わらないだろうな」と脅されながら、もはや洗脳のような形で、私は逃げ道を失っていった。行為の間は心と感覚を殺した。解放された瞬間、勉強で友人に遅れを取らないよう、自分を呼び戻して必死に机に向かう日々だった。誰かに助けを求める余裕なんてなく、傷だらけになったからだを誰にも気づかれないように、とにかく日々を生き延びるのに必死だった。

 相手は、避妊をしなかった。

 「今まで散々遊んできたが、誰一人妊娠させたことはなかった」と武勇伝を語った。私の生理日も把握していた相手は、勝手に安全日と危険日をわけ、安全日は中へ、危険日は外に出した(読者のみなさんに、実質安全日はないこと、避妊は常に必要なことはぜひともお伝えしたい)。コンドームをつけるつけないは、相手の気分次第だったし、付けたとしても付け方なんて適当だった。最初は私も必死に避妊をしてほしい頼んだが、雄弁のうちに打ち棄てられ、私にできたのは心配する気持ちを麻痺させ、心を殺すことだけだった。


保育園でコロナ…行き場失う園児たち 代替保育なく保護者悲鳴

2020年08月13日 13時01分54秒 | 社会・文化・政治・経済

8/13(木) 10:38配信
西日本新聞

保育園の職員や園児が新型コロナウイルスに感染して臨時休園となるケースが増え、保護者が対応に苦慮している。国は、どうしても子どもの世話をできない家庭向けに代替保育を用意するよう求めるが、九州の政令市と県庁所在地の8市のうち、実施しているのは北九州市のみ。子どもに感染の可能性が否定できないことがネックとなり、他の預け先の確保は困難な状況となっている。

【図解】自治体の代替保育の準備状況

 「実家に子どもを預けることも考えたが、高齢の親にコロナをうつしたら目も当てられないと断念した」。感染者が出た福岡市内の保育園に娘2人を通わせる30代女性会社員は振り返る。女性は10日間ほど仕事を休んで対応。「職場の人数はぎりぎりで、業務に支障もあった。同僚は『コロナだからしょうがない』と言うが、やはり気にはなる」と振り返る。

 別の40代女性は臨時休園中、次男を自営の店舗を兼ねた自宅で世話した。客にその旨を伝えると来店を見合わせる人もいたという。「息子は濃厚接触者ではないと判断され、検査を受けられなかった。陰性が確認できれば安心して接客できただろうに」と話す。

 保育園での新型コロナ感染を受け、福岡市内では7月に6カ所、8月は12日までに6カ所が臨時休園した。市によると、多くの園は保健所の調査を踏まえて2、3日程度休園し、感染者と接触した園児や職員は経過観察として2週間休ませているという。同様に学童保育を休止した例も8月に4カ所出ており、新型コロナの影響が保育の場に急速に広がっている。

   ◇    ◇

 国は臨時休園の際、訪問保育やベビーシッターなど代替措置を講じるよう求めている。九州の政令市、県庁所在地で唯一、準備が整っている北九州市は、5月から主に医療従事者の子どもを市の子育て支援施設で預かっており、8月上旬までに延べ25人が利用した。

 一方で、大多数の自治体は代替保育を実現できていない。福岡市の担当者は最大の障壁について「園児の感染が否定できず、感染が広がる恐れがある」ことを挙げる。佐賀市は休園した園の園児を他の園で受け入れられないか保育園団体と協議したが、「難しい」との回答が多かったという。おむつ替えなど保育士と園児の接触は濃厚で、ある市の担当者は「防護服を着て保育をするわけにはいかない」と話す。

 さらに保育士や保育施設の慢性的な不足も影響。「公立保育所の職員はぎりぎりで融通できない」(佐賀市)、「市内の認可保育所はほぼ埋まっている」(大分市)など悩ましい課題となっている。

 新型コロナ感染に収束の気配はなく、今後も保育園での感染は相次ぐとみられる。厚生労働省保育課は「感染防止と保育の受け皿確保の両立は簡単ではないが、医療従事者など社会機能を維持するために働く必要がある人に対し、保育を提供できない状況となることは避けてほしい」と話している。

(泉修平)

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新型コロナウイルス感染症の後遺症について

2020年08月13日 11時51分22秒 | 医科・歯科・介護
東京都医学総合研究所 文責:鈴木マリ

新型コロナウイルス感染後の後遺症が注目されはじめ、国内でも報道が増えてきました。急性症状が治った後にも、疲れや息苦しさなどの症状が2ヵ月以上も続く人がいるようです。

“コロナ後遺症”で検索すると多くの記事がヒットしますし、Twitterでも後遺症に悩む人々のつぶやきが “#コロナ後遺症”とともに多数掲載されています。

本稿では2020年7月にJAMA誌に発表された、イタリア・ローマのジェメッリ大学病院の調査結果を紹介します1

Angelo Carfi氏らの研究グループはCOVID-19回復後に退院した患者の追跡調査を行い、COVID-19発症から約2ヵ月の時点においても87.4%の患者が何らかの症状があることを発表しました。著者らは、退院後も継続的なモニタリングを行い、長期にわたる影響についてさらなる検証を進める必要があるとしています。

本研究では、2020年4月21日~5月29日までの間にCOVID-19から回復し退院した患者143例について追跡調査を実施しました。

    主な結果:
  • 患者143例(平均年齢56.5歳)、男性90例(63%)で女性53例(37%)、平均入院期間2週間。
  • COVID-19症状発現から平均60.3日後の評価時点で無症状だったのは18例(12.6%)、患者の32%は1~2つの症状があり、55%は3つ以上の症状が見られた。
  • 患者の44.1%でQOLの低下が見られ、特に倦怠感(53.1%)、呼吸困難(43.4%)、関節痛(27.3%)、胸痛(21.7%)を訴える人の割合が高かった。咳、嗅覚の異常、ドライマウス/ドライアイ、鼻炎、目の充血、味覚の異常、頭痛、喀痰、食欲不振、咽頭痛、めまい、筋肉痛、下痢といった症状を訴える患者もいた。

注意すべき点として、今回の調査ではCOVID-19で「入院した患者」のみを対象としており、「入院の必要がなかった軽症患者」では影響が異なる可能性があること、後遺症はCOVID-19に限らず一般的な肺炎にもあてはまる可能性があること2、が述べられています。

この論文で最も割合の多かった症状は倦怠感(53.1%)でした。実は、COVID-19と関連して、筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS, Myalgic Encerphalomyelitis/Chronic Fatigue Syndrome)の発症増加の可能性も危惧されています(MEとCOVID-19の関連性についてはNPO法人筋痛性脳脊髄炎の会のサイト「COVIDとME」を参考にさせていただきました3)。

7月上旬、国際エイズ学会が主催した記者会見で、米国国立アレルギー感染病研究所のAnthony Fauci所長は、「長く続く疲労症候群がCOVID-19に伴う場合があり、その症状が、以前は慢性疲労症候群と呼ばれていた筋痛性脳脊髄炎(ME)患者の症状に似ている」と語りました4

ウイルス感染とME発症の関連性は以前から示唆されており、レスター大学の医療関連専門学准教授Nicola Clague-Baker氏は、「過去のSARSとEBウイルス(伝染性単核球症)の集団発生の際には、MEと診断された患者数がそれぞれ8~10%上昇したというエビデンスがあり、重篤なウイルス感染とMEが関連していることは明らかです」と話しています5

また、シカゴのデポール大学教授Leonard A Jason氏は、「過去の流行から学ぶウイルス感染後疲労とCOVID-19」と題する論文を発表しています6

  • COVID-19後の回復に関連しうる合併症の可能性を評価するために、過去の流行や感染症が与えた健康上の短期的・長期的影響についての文献をレビュー。
  • 感染後に発症するME/CFSは、ブルセラ症、EBウイルス、ライム病、Q熱、ウイルス性髄膜炎、デング熱などのパンデミックの後で増加するリスクがすでに報告されている。
  • 2003年、カナダのトロント市におけるSARSの流行の際には少なくとも273人が感染し、集中治療を受けた107名の患者の後遺症に関する調査が実施された。様々な症状はMEに非常に類似していた。感染1年後にも、17%の患者は持続的に症状が重く、仕事に戻ることができず、87%の患者には何らかの症状が残っていた。

日本でも、COVID-19の後遺症に関する厚生労働省の実態調査が8月から始まるとのことです。後遺症についての実態が明らかになり、適切な対処が可能になることを期待します。


「死ぬのを待っているようだ」原告、「黒い雨」控訴を批判

2020年08月13日 11時41分55秒 | 社会・文化・政治・経済
  1. 配信
  2. 「黒い雨訴訟」控訴を受け会見する原告団長の高野正明さん(左端)ら=12日午後3時13分、広島市中区(鳥越瑞絵撮影)

 「黒い雨」訴訟で国と広島県、市が控訴したことを受け、原告団と弁護団は12日、広島市内で記者会見を開いた。

原告の高齢化が進む中、結論が先延ばしになることに、「被爆者がこの世からいなくなるまで待っているといわれても仕方ない判断」と批判し、一刻も早い救済を求めた。

【写真】黒い雨の跡が残る白いしっくいの壁

 平成27年の集団提訴以降、原告の16人が亡くなった。80人を超える原告らは70代後半~90代後半と高齢化が進む。原告団長の高野正明さん(82)は「早く結論が出ると思っていたが(判決まで)約5年かかった」と指摘。

「(訴訟を)長引かせ、自分たちが死ぬのを国は待っているようだ」と憤り、不安をにじませた。

 国側に控訴断念を訴えたにもかかわらず、最終的に控訴を受け入れた県や市には、「(控訴を断念する)勇気がなかった。非常に残念だ」と突き放した。

 加藤勝信厚生労働相は同日、援護対象の拡大を視野に科学的検証を行うと明かしたが、弁護団の竹森雅泰事務局長は「科学的な結論はついている。再検証の必要はない」と指摘。「法律上やろうと思えば、市や県が独自に被爆者と判断できるが、控訴になり残念」と述べた。

 

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ALS女性嘱託殺人罪、2医師をきょう起訴 京都地検

2020年08月13日 11時03分08秒 | 事件・事故

配信

神経難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性から依頼を受け、薬物を投与して殺害したとして医師2人が逮捕された事件で、京都地検が勾留期限の13日に嘱託殺人罪で、ともに医師の大久保愉一(よしかず)容疑者(42)=仙台市=と山本直樹容疑者(43)=東京都港区=を起訴する方針を固めたことが12日、関係者への取材で分かった。
地検は大久保容疑者が亡くなった女性とツイッターのダイレクトメッセージで殺害の計画を打ち合わせ、両容疑者が実際に女性宅を訪れていたことを確認。2人が約10分後に退室すると女性の容体が急変したことなどから、同罪での立証は可能と判断したとみられる。  
捜査関係者の説明では、女性の遺体から鎮静作用のある「バルビツール酸系」の薬物の成分を検出。大久保容疑者が事件の約1カ月前、宮城県内の医薬品卸売会社から同じ成分の薬物を購入していたという。事件の約1週間前には女性から山本容疑者の口座に計130万円が振り込まれた。  
2人は共謀して京都市中京区のALS患者林優里(ゆり)さん=当時(51)=から自身を殺害するよう頼まれ、昨年11月30日夕方、同区のマンションで林さんに多量の薬物を投与して死亡させたとして、嘱託殺人の疑いで京都府警に逮捕された。府警は2人の認否を明らかにしていない。
 

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