8/28(金) 8:01配信
現代ビジネス
ベストセラーエッセイ『ブラを捨て旅に出よう』の著者で、旅作家の歩りえこさんによるFRaU web連載「世界94カ国で出会った男たち」(毎月2回更新)では、世界一周旅行中に出会った男性とのエピソードをお届けしています。
死ぬかと思った…強盗事件に遭ったエリア、こんなに警官もいるのに…
連載15話では、アルゼンチンのブエノスアイレスを観光中に、突然訪れた「死」を感じた瞬間について綴っています。
最悪な体験をしたことで、これまで当たり前だと思っていたことに「ありがたみ」を感じ、「幸せ」とは何かを初めて知ることができたと歩さんは言います。
妙な安心感と自信が植え付けられていた
アルゼンチン・ブエノスアイレスの観光地であるボカ地区。写真提供/歩りえこ
人は死に直面した瞬間、どんなことを考えるのか?
病死なら事前に死を意識するので色々人生について振り返って考える時間があるかもしれない。人生が終わりに近づいていると悟った場合「もっと自分らしく自由に生きたかった」と思う人も多いだろう。健康と若さはそんなことを全く見えなくさせ、「いつでも何でもできる」と思いながら生きているうちに……たくさんの夢を半分も果たさないまま時間だけがあっという間に過ぎ去っていく。
自分の人生が長くは続かないと知った瞬間にできることは、とても少ないと思う。まして事故死や事件死の場合は「あの時こうすれば良かった」と考える暇などまるでない。死の危機を察知した瞬間にお花畑が見えるという人もいれば、走馬灯のようにこれまでの人生が断片的にフラッシュバックすると言う人もいる。
そそっかしい性格ゆえに何度か大型トラックにひかれかけたことがあるくらいで、健康と若さが絶頂だった私は【死】を間近に感じたことなどまるでなかった。
世界一周中、25歳の私は2年間続いた長旅もあと3週間ほどで終わろうとしていた頃、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスにいた。
南米大陸のバス移動は想像以上に長く、お金があるなら飛行機で移動したいところだが、日々節約を心がける貧乏旅ではそうもいかない。
24時間以上バスに乗り続ける日が続くとさすがにお尻だけでなく体力気力も疲労困憊だ。
2年間の道中で引ったくりやスリなどは日常茶飯で、集団痴漢など何度も危機に直面したものの激しく危害を加えられるような目には一度も遭っていなかった。
このことが妙な安心感と自信を植え付けてしまい、真昼間の観光地で人が沢山いるところならそうそうトラブルは起きないだろうという感覚が体に染みついてしまっていた。
この日もそうだ。
警官が10m間隔で立っている地区なのに
警察官が立つブエノスアイレスの街並み。写真提供/歩りえこ
ブエノスアイレスの観光地を昼間歩きながら写真を撮っていると、サッカーのユニフォームを着た少年たちが近づいてきた。
小学生高学年位だろうか? とても人懐っこくニコニコ笑っているのだが、何だかゾワゾワと薄気味悪い雰囲気がした。いわゆる子供の無邪気な屈託のない笑顔と違い、何か裏を感じる不気味な笑顔だったからだ。瞬時にこの子たちに関わってはいけないと思い、逃げるようにその場を離れた。
辺りを見回すと観光客も沢山いるし、警官が10m間隔で立っている。これだけ警官が立っていれば安全だよね? 有名なサッカースタジアムだけチラッと見て帰ろう……。
スタジアムへ行こうと細めの路地に入った瞬間……私の身体は宙に浮いていた。
首が苦しい……息が出来ない! 全く状況が掴めないまま、息ができず気を失いかけていた。なんとか力を振り絞って首をぐるっと後ろに向けると……190cm以上はあろう大男が鬼の形相で私の首を絞め上げていた。
え? わたし死んじゃうの……? 【死】というものをこれまで深く考えたこともなく、ただ漠然と……当たり前のように長く生きて、社会に出てから結婚して家庭を作るものだと思っていた。まだ人生で何にも達成できてないのに……こんな地球の裏側で見知らぬ大男に首を絞められて死んじゃうの?
バッグには小銭程度のお金しか入ってない。こんな小銭のために私は死んでしまうの? 首を絞められている間、まるで時が止まったかのように時間が長く感じられた。
ずっと当たり前だった【生】に初めて固執した瞬間だった。
今日に限ってクソダサいパンツだし、子供だって産みたいし、やりたいことが山ほどあるのに一つもできていない……。
体も喉も硬直してHELPも言えない
この写真を撮影した5分後、首絞め強盗に…。写真提供/歩りえこ
意識が朦朧としながらも【生】に固執した私は、思わず犯人にヘナヘナ猫パンチで反撃した。反撃したら死ぬリスクが高まるのに腕がとっさに動いて殴ってしまったのだ。
すると犯人は応戦されたことに腹を立て、本気で殴りかかってきた。私は地面に叩きつけられ、身体中ボコボコになるまで殴られ、蹴られ続けた。ダメだ……殺される!
持ち物全部差し出すから命だけはどうにか助けてほしい……。腕に絡みついているバッグを何とか差し出そうと必死になっていたが、身体が硬直して全く言うことを聞いてくれない。頭ではバッグを渡さなきゃと分かっているのに身体が全く動かないのだ。喉も硬直してHELPすら言葉にならない。
10mおきに立っている警官たちや観光客も皆こちらを心配そうに見ているが、誰も近づこうとせずただ静観していた。誰かが今動けば犯人が逆上し、ナイフか銃を取り出してさらに悪い方向に向かうのは暗黙の了解という雰囲気だ。
犯人も私のバッグを腕からもぎ取ろうと必死だが、完全に硬直している腕は頑なに動いてはくれなかった。身体のどこからか血がドクドクと流血しているが、どこが痛いのかも分からず……身体中が熱い。
犯人は諦めてバッグから安物のビデオカメラだけを抜き取ると、一目散に逃走し、遠くまで見えなくなったのを確認してから警官たちが数人駆け寄ってきた。万が一の銃撃戦を避けてなのか誰一人犯人を追いかける者はいない。
私はその後も硬直したままで全く立つことが出来ず、全身打撲と血だらけになったまま倒れ込んでしまった。
家に帰りたい…母に会いたい…
この時は強盗に遭うなんて想像もしなかった…ボカ地区でタンゴを踊る。写真提供/歩りえこ
喋ることもできないまま警官に「病院に行くかい?」と英語で聞かれ、頭をかすかに横へと振った。日本と違い、海外の救急車や医療費は高額で幾ら請求されるか見当もつかない。
暫くすると筋骨隆々な警察官にパトカーに乗せられ、最低限の応急手当を受けた後、喋れるようになるまで警察のソファに横たわっていた。身体の硬直は収まらず、涙だけが延々と流れ続けている……。
警察署に着いて2時間ほど経ってからやっと口を開いた。
「母に電話したい」
緊急用に携帯は持っていたが国際料金がかかるので2年間日本へかけたことなどなかった。実家に電話をかけると、すぐ母が電話に出た。
「もしもし?」
聞きなれた母の懐かしい声に激しく嗚咽を漏らして泣きあえいだ。母は何も言わずとも事態を察知し、同じように嗚咽を漏らして受話器の向こうで泣き続けた。
「落ち着いたら状況をメールして」
まともに返事もできないまま電話を切り、久しぶりの母との会話は終了した。
家に帰りたい……母に会いたい……。
私は13~18歳位まで長く反抗期だった。ずっと家にいてテレビを見ることと食材の買物しかしない、外の世界に全く触れようともしない母親の内向きな性格が大嫌いだったからだ。やりたいと思ったことは根こそぎ反対され、志望校すら却下され、両親が行けと言った進学校に嫌々進学した。
母親と喋ると必ず口論になるのでやがて会話をしなくなり、外の世界に逃げるように居場所を求め、高校生になると家出を繰り返していた。勉強も一切しなくなり、街を徘徊し、彼氏の家に入り浸りになっていた。
何をしたら良いか分からず、何に対して頑張ったらいいか分からない、将来の希望も夢もなくどこにも居場所がないと感じる日々。若さという無敵な武器があるのに、何のために生きているのかすら理解できずにエネルギーだけを持て余していた。
反抗期が過ぎても母と話す機会は多くなく、家では睡眠を取りお風呂に入るためだけに帰る状態が続いていた。それなのに、真っ先に声を聞きたいと思ったのは彼氏でもなく……母だったのだ。
猛烈に母に会いたい。日本へ帰りたいとこれほど願ったことはない。
悪夢がつきまとうこの街から早く出たい
ブラジルの大衆食堂。写真提供/歩りえこ
強盗に強く絞められ過ぎて、固形物はおろか飲み物すら飲むことが困難な状態だった。空腹で死にそう……。お金があれば点滴を受けたいが、帰国するまでは節約を徹底しなければならない。
昼に起きた恐怖がフラッシュバックしてしまい、眠ることもできず「誰かが首を絞めに来るんじゃないか……」そんな恐怖心が朝まで続き、貴重品を握りしめたまま宿のベッド脇に体育座りしたまま朝を迎えた。
この国から……この街から一刻も早く出たい。今すぐ母に会いたい。でもここは日本の真裏だ。今すぐ会えないのなら、誰でもいいから日本人に会いたい。何でもいいから日本語を喋りたい……。
私は体力気力を振り絞ってブエノスアイレスからブラジルのサンパウロへと向かった。この街にいる限り忌々しい悪夢がつきまとい眠ることができないだろう。どこでもいいから事件現場から離れたかった。
サンパウロにはリベルタージという日本人街があり、そこへ行けば日系人がたくさんいるし、日本語が通じる病院もあるかもしれない。フラフラになりながらサンパウロになんとか着くと日本人宿へとチェックインし、気力を振り絞って日本人街へと繰り出した。
……日本人に会いたい! 目を血走らせながら探していると、正面から日本人らしい切れ長の目をした青年が歩いて来るのが見えた。私は小走りで走っていき「日本人ですか?」と声をかけた。その青年が一つ年上の26歳の東大大学院生、タカオ君(仮名)だった。
私の青アザだらけの顔を見て一目でただ事ではないことを察知したタカオ君。日本人街にある病院をすぐ探してくれたが、日本語が話せる医師が来るのは2週間後で医療費が支払えるかの不安もあった。旅の終わり直前で旅行資金も尽きかけていたこともあり、病院に行くことは断念し、首の痛みや全身打撲は自然治癒に任せ、精神的にできるだけ早く回復しようと努めることにした。
最悪な出来事の後には良いこともある
すっかり回復し、コパカバーナビーチでジャンプ。写真提供/歩りえこ
喉の痛みが日を追うごとに取れていくにつれ、飲み物だけでなく何でもいいから日本のモノが食べたくなった。日本人街では納豆や大福などが手軽に日本食スーパーで買うことができ、このエリア内は日系人や中国人など移民で溢れかえっていた。日本の真裏にいながらまるで日本に帰ってきたかのような安心感がある。
一人になるのが怖くて、タカオ君にへばりついて毎日を過ごした。ブラジル移民の研究をしているタカオ君は神様みたいに優しい人物で私を煙たがらずに、毎日ただ優しく微笑みながら一緒にいてくれ、ブラジル文化も色々教えてくれた。
最悪な出来事の後には思いがけず良いことがあるものだ。こんな優しい男性に出会えたし、25歳で突然死なずに人生がまだ続いていくんだから。生きてさえいれば何だってできる。
これまで育ててくれた親に恩返しもできず無茶ばかりしてきたけど、帰国したら打ち込めてやりがいある仕事を探そう。やりたいことは誰に何を言われてもやり尽くして、いつか子供を2人産み、死を迎える時に絶対後悔しない人生を送ろう……。
やがて、首の痛みやアザも徐々に治癒し、最後にブラジル観光をして帰国することになった。タカオ君は終始優しく、毎日一緒にいたことでほんのり恋愛感情も芽生えていたが、彼は論文執筆のためにまだまだブラジルで研究生活をしなければならない身。
私は日本へと帰国し、数カ月経った頃にタカオ君も一時帰国した。
神様がくれたプレゼントかもしれない
そこからやりがいのある仕事をしようと決めた私は『ブラを捨て旅に出よう』という書籍の出版を目指して原稿を書き始めるようになり、タカオ君は相変わらず論文執筆をする日々。
私たちは何となく毎日待ち合わせをしては執筆作業をカフェで一緒にすることが多くなった。特に男女として何もないけれど、なぜか一緒にいるという不思議な関係性だ。タカオ君はブラジルで出会った頃と同じようにいつ会っても神様のような笑顔で私に接してくれる、大切な友人になった。
そこからタカオ君は研究のために再度ブラジルへと渡り、お互い彼氏彼女ができたりと疎遠になった時期もあったが、13年経った今でもタカオ君の家へたまに遊びにいったりと友人関係がずっと続いている。
殆どの男性が女性に優しくしてくれるのには下心があるからだとずっと思ってきた。だけど、タカオ君は違う。私が大きな悩みを抱えている時、人生の岐路に立たされている時、いつでも丁寧に相談に乗ってくれ、私がダメな恋愛にハマってしまった時は「こんな人と付き合っちゃダメだよ」と、いつもやんわり諭してくれた。
知り合ってからずっと嫌なところがひとつも見当たらないどころか、いつでもどんな時でも柔らかいほほ笑みを絶やさない。その笑顔があまりに神々しくて、いつお家に遊びに行っても完璧なくらいに片付いていて……生き方も何もかも汚れがなく、こんな人に恋愛感情は持ってはいけないと思わせられるほど清らかな存在だ。
タカオ君との友情がいつまで続くかは分からないが、人生最悪の【首絞め強盗事件】の直後に神様がくれた「友情」という名のプレゼントなんじゃないかと本当に思っている。
これまで「幸せ」って何か全く分からずに生きていたけれど、幸せとは正反対の最悪な体験をしたことで、いとも簡単に「幸せ」を理解することが初めて出来た。
固形物や飲み物が当たり前のように飲みこめるのがいかに幸せなのか、この体験がなければ一生知ることが出来なかっただろう。財布を持っていても安心して歩くことができる日本に生まれたことにも有難みを一生感じることはなかったかもしれない。
そう考えると人生において最悪な出来事も決して不幸ではなく、平和ボケしている時に「もっと真剣に生きろ」と必然的に起きているのかもしれない。
でも、首絞め強盗は二度とごめんだ。13年経った今でも背後恐怖症は治らず、必ず店の角席に座り、夜道は5秒おきに後ろを振り返る生活を送っている。
▼『ブラを捨て旅に出よう 貧乏乙女の“世界一周”旅行記』
費用はたったの150万円という、想像を絶する貧乏旅をしながら、2年間をかけてほぼ世界一周、5大陸90カ国を巡った著者。そのなかから特に思い出深い21カ国を振り返り、襲われたり、盗まれたり、ストーカーをされたり……危険だらけの旅のなかで出会った人情と笑いとロマンスのエピソードを収録。(講談社文庫)
歩 りえこ(旅作家・女優)