本コラムでは、今世界で注目を浴びている「ナッジ」にスポットライトを当て、「世界各国のナッジの活用状況」と「ナッジとは何か」をご紹介した上で、最後に「政策でのナッジ活用に向けた具体策」を提言したいと思います。

第2回の今回は、「ナッジとは何か」についてです。

1. 「ナッジ」とは何か

ナッジは、米国シカゴ大学のリチャード・セイラー教授(「ナッジ」理論の提唱者であり、行動経済学の第一人者)のノーベル経済学賞受賞(2017年)によって、世界中で注目を集めることとなりました。これを受けて、リチャード・セイラーの著書であり、ナッジを題材にした『実践 行動経済学』は全米でベストセラーとなりました。

ちなみに、ナッジを使った最も有名な成功例の1つは、オランダのスキポール空港の例です。同空港では、男性用の小便器の中央に小バエを描くことにより、大幅な清掃費削減に成功しました。男性がハエを狙って用を足すため、大幅に尿の飛び散りが減ったのです(*1)。

オランダのスキポール空港の例

この『実践 行動経済学』では、ナッジを「選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャーのあらゆる要素」と定義しています。

要約すると、前半の「選択を禁じることも、~人々の行動を予測可能な形で変える」とは、「人の思考のクセを利用する」ということであり、後半の「選択アーキテクチャーのあらゆる要素」とは、「選択肢の提示手法」ということです。

つまり、ナッジとは、「人の思考のクセを利用した選択肢の提示手法」といえます。

では、「人の思考のクセ」にはどのようなものがあるのでしょうか。

  • *1 リチャード・セイラー, キャス・サンスティーン(遠藤真美訳)『実践 行動経済学』(日経BP、2009年)

2. 「人の思考のクセ」には、どのようなものがあるのか

人の思考のクセには大きく3つのタイプがあることが分かっています(*2, *3)。1つ目は「限定合理性」です。これは、「できる限り、簡便な問題解決方法を用いて満足のできる選択肢を発見しようとするクセ」です。2つ目は「限定自制心」です。これは、「リスクについては過大評価し、時間については待つことを嫌う(長期的な利益に反してしまう)クセ」です。3つ目は限定利己心です。これは、「自身の利益を犠牲にしてしまったり、周りと違う意見・姿勢を貫くことを難しく感じたりするクセ」です。

これら3つのタイプごとに、人の思考のクセのうち代表的なものをリストアップしました 。

  • *2 経済協力開発機構(OECD)(濱田久美子訳)『環境ナッジの経済学 行動変容を促すインサイト』(明石書店、2019年)
  • *3 依田高典『「ココロ」の経済学-行動経済学から読み解く人間のふしぎ』(筑摩書房、2016年)
  • *4 経済協力開発機構(OECD)(濱田久美子訳)『環境ナッジの経済学 行動変容を促すインサイト』(明石書店、2019年)および依田高典『「ココロ」の経済学-行動経済学から読み解く人間のふしぎ』(筑摩書房、2016年)を基にEY作成

限定合理性

名称 説明 代表例
フレーミング効果 本来、同じ内容を表すにもかかわらず、表現の仕方(フレーム)によって、受け止め方(選好)が変化すること 新薬利用の説明について、以下のAの説明(フレーム)のほうが賛成率が高くなる
A:1,000人の病気に苦しむ人のうち、700人の命を救うことができます。その代わり、副作用のために300人が亡くなります
B:副作用のために300人が亡くなります。その代わり、700人の命を救うことができます
認知的不協和 人の選好は変化し得るものであり、何らかの行動を取ることによって、無意識のうちに選好が変わってしまうこと 原発シェア低下/ゼロにすべき(認知1)と電気料金値上がり反対(認知2)の認知的不協和の状況に対して、「①原発反対・値上がり容認」と「②原発容認・値上がり反対」の無理な選択をさせた場合、①はより①に、②はより②に選好が変化する(認知1と2の不協和を解消する方向に選好が変化する)
代表制(レプレゼンタティブネス)バイアス 人が判断する際には、論理や確率の合理性には従わず、サンプルAがサンプルBにどのくらい似ているかや、どのくらい典型的であるかという基準に依存すること 結婚5年目、明るくて社交的、留学しMBAを取得しているA子さん(35歳)が、「1児の母親であり、かつキャリアウーマンでもある」という確率が、「1児の母親であるが、キャリアウーマンではない 」という確率よりも高く見積もられてしまう(本来は、前者の確率のほうが低い)
想起しやすさ(アベイラビリティ)バイアス 心に思い浮かびやすい思い出や事柄に過大な評価を与えてしまうこと 3文字目に「流」が入る四字熟語を答えさせる場合、「〇〇流転」と提示したほうが、「〇〇流〇」と提示した場合よりも、多くの答えが思いつく(本来は、後者のほうが熟語数は多い)
係留(アンカー)バイアス 人が、最終的な答えを得る過程で、初期情報に依存し、出発点から目標点に至る間に、十分な心理的調整ができないこと 「富士山の標高は何メートルか?」という質問の前に、以下のAとBを質問した場合、Bの質問の後のほうが標高を高めに見積もる回答が多くなる。
A:富士山の標高は3,000メートル以上か?
B:富士山の標高は4,000メートル以上か?

限定自制心

名称 説明 代表例
確実性効果 人は、100%確実な性質を重視してしまうこと。99%の確率で当たる場合でも、1%の外れる確率を嫌う 以下の2つの選択肢を提示された場合、AよりもBを選択する人が多い(ただし、「期待効用=確率×効用」はAのほうが高い)
A:80%の確率で4万円もらえる
B:100%確実に3万円もらえる
損失回避効果 人は、利得の効用よりも、損失の負効用を、同じ額面の金額に対して2~3倍も大きく見積もること 以下の2つの選択肢を提示された場合、AよりもBを選択する人が多い(3万円を基準に考えると、Aを選択しても1万円の得にしかならないが、外れた場合、3万円損した気分になる)
A:80%の確率で4万円もらえる
B:100%確実に3万円もらえる
現在性効果 人は、今すぐの現在という特別な瞬間を重視する傾向にあること。「未来の効用は、現在の効用から待つ」というつらさを割り引かなければならない 以下の2つの質問について、質問1はBよりもAを、質問2はCよりもDを選択する人が多い。
質問1
A:今すぐに3万円もらえる
B:1年後に4万円もらえる
質問2
C:1年後に3万円もらえる
D:2年後に4万円もらえる
現状維持バイアス 個人あるいは社会にとって、望ましい選択肢があるにもかかわらず、現状に固執し、より良い行動変容を進んでは求めないこと 臓器提供の意思表示について、オプトイン方式 を採用しているデンマーク、ドイツ、イギリス、オランダの同意率は4~28%であるのに対し、オプトアウト方式 を採用しているスウェーデン、ベルギー、ポーランド、ポルトガル、フランス、ハンガリー、オーストリアの同意率は86~100%と、圧倒的な差がある

限定利己心

名称 説明 代表例
クラウド・アウト 内的動機(道徳心や公共心から、他人や社会のために尽くそうとする行動動機)が働いている状況下で、金銭のような外的報酬を与えてしまうと、かえって内的動機を損なってしまい、社会的行動が減衰すること 図書館でのデータ入力と募金の収集という2つの作業において、募集時に告知した金額よりも多いアルバイト謝金を払った場合でも、実験協力者の努力水準に差はなかった
社会規範 周囲の人の行動、同じ状況にある他人との比較、道徳的命令から影響を受けてしまうこと 「自分の1日の歩数が全体の何%よりも高かった(あるいは、低かった)」という相対順位をフィードバックすることによって、歩数のフィードバックのみを行ったグループと比較して、1日当たりの歩数が増加する

3. マーケティングとナッジは何が違うのか

ナッジに関してよくある質問の中に、「以前からマーケティングで使われている手法と何が異なるのか」という質問がありますが、マーケティングとナッジは下表のように、①定義、②適用範囲、および③理論を裏付ける学問が基本的に異なります。

ナッジとマーケティングの違い(*5)

項目 ナッジ マーケティング
定義 人の思考のクセを利用した選択肢の提示手法 企業が商品やサービスを販売するための手法や活動
適用範囲 公共利益の増進のために合理的で正しい判断をさせたいケース 企業利益の追求のために顧客に商品やサービスを購入させたいケース
理論を裏付ける学問 行動経済学(多様な実験に基づいて理論を構築) 経営学(実際の経営事例に基づき理論を構築)
  • *5 リチャード・セイラー, キャス・サンスティーン(遠藤真美訳)『実践 行動経済学』(日経BP、2009年)を基にEY作成。ただし、ナッジやマーケティングにはさまざまな定義が存在することに注意が必要。本表では、両者の違いを区別するために、特徴的な点に限定して両者の違いを整理している。

したがって、例えば、お試し期間の一カ月については無料で、その期間が終わると有料価格で自動的に再契約させるような例は、人の思考のクセを利用した例とは言えますが、ナッジの活用例とは言えません。なぜならば、サービスの有料化は企業利益の追求を目的としたものであり、公共利益の増進につながるものではないためです。

他方で、例えば、エアコンのフィルター交換を知らせる赤ランプは、人の思考のクセを利用したナッジの活用例と言えます。なぜならば、赤ランプによる通知は、私たちの省エネ行動(エアコンの効率的なエネルギー消費)を促進することで、公共利益を増進するためのものと言えるからです。

以上のように、ナッジは「公共利益の増進」のために利用することを前提としています。そのため、世界中の公共政策分野においてナッジの活用が広がりました。他方で、最近では、SDGs(持続可能な開発目標)やRe100(100% Renewable Electricity)に代表されるように、企業が公共利益の増進のための活動を推進する社会課題解決型のビジネスが増えています。つまり、今後は、ナッジが公共政策の垣根を超え、企業の社会課題解決型のビジネスを推進するマーケティング活動の一環として活用されるケースが拡大するものと予想されます。

【筆者】

EYアドバイザリー・アンド・コンサルティング株式会社
マネージャー 伊原 克将

早稲田大学大学院 環境・エネルギー研究科 博士課程(工学)修了。大手印刷会社、米国系戦略コンサルティングファームを経て現職。
気候変動・省エネルギー分野を中心に、国の制度設計や政策手法の検証に関わる多数のプロジェクトに従事。また、国内最大手の小売電気事業者を含む10団体の産学官連携のコンソーシアムを牽引し、国内最大級となるナッジを活用した省エネ実証を推進、政策手法としてのナッジの効果を検証した。
スマートコミュニティや電力小売り自由化に関連する多くの新規事業開発(戦略立案、アライアンス推進、ソリューション開発など)にも関与している。

※所属・役職等は掲載当時