一人から変革は始まる

2018年09月13日 11時23分22秒 | 社会・文化・政治・経済
他者との繋がりがある人ほど心が折れない。

「魂の力」は原子爆弾よりも強い-ガンジー

価値創造への決意と献身。

一人の人間がどれほど偉大な力を持っていくか。
例え一人であっても、社会へ変化をもたらすことができるのだ。
(悪い例では、ヒトラー)

では、どうやって人々の心を変えていくか。
ここに「一人」の力の持つ重要性がある。
一人から変革は始まる。
ガンジーもマーチン・ルーサー・キングも、どの偉大な指導者も最初は「一人」だった。

新たな人間主義の時代を築くためには、一人一人の変革が必要です。
ガンジー研究協議会 N・ラダクリシュナン議長
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「意欲の貧困」や「諦め」

2018年09月13日 11時05分17秒 | 社会・文化・政治・経済
貧困など困難な親子関係で生きてきた若者の一人は、「自分がそもそも<努力する>エンジンが備わっていない」と語っている。
貧困というのは、お金がないという貧しさだけでなく、自分を受け入れてくれる人とのつながりがない、だから自信が生まれないという「三つのない」を抱えた状態だと考えています。
つまり、よりよく生きようとする「意欲の貧困」や「諦め」が広がっています。
人に支えられた経験によって頑張ろうという気持が育まれる。
そういった経験が足りない人にとっては、多様なつながりの中での支えを経験できる場が必要になってくる。
私はそれが「溜め」のある社会だと思っています。
溜めいうのは「溜め池」の溜めで、地域の皆の共同作業でつくる場です。
各地に広がる「子ども食堂」も、見えにくい貧困と向き合う溜めの場です。
現代は「正解のない問い」を皆で考え、100%でなくても、できるだけ納得できる答えを探していくような時代です。
そこで大事なのは、なるべく多くの人たちの理解を得ることです。
自己責任論では現代の貧困や課題は解決しにくいのは確かです。
人は誰かに関心を寄せることで、その人を尊重できるし、そして自分も誰からか関心を寄せられることにつながっていく。
特に、人と一緒に何かの作業をする中で、お互いに多くのことに気付くわけです。
ですから、共生の在り方というのも、理屈で考えるよりも、まず身近な人との関わりの中で気付いていく。
そういった実践を広げていくことが大切だと思います。
社会活動家 法政大学教授 湯浅誠さん
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメリカ暴力の世紀

2018年09月13日 10時28分34秒 | 社会・文化・政治・経済
米国75年の暗闇を冷徹に知る

ジョン・W.ダワー著 田中 利幸訳

第二次大戦および冷戦の覇者,アメリカ.そのアメリカは,どのような経緯で現在の世界の混沌を生み出してしまったのか.『敗北を抱きしめて』の著者があらたに取り組む,アメリカの暴力の歴史.軍事をめぐる歴史と,テロなどの不安定の連鎖拡大の現状について,簡潔に,かつ深く洞察した待望の書.トランプ時代を危惧する日本語版序文を付す.

米国は世界中の暴力を先導してきた。
世界の主要国全ての軍事費予算総額より大きく、海外に800の軍事基地を保持している。
「強迫観念的とも言える自己中心的<国防>に汲々としている。
戦後から今日まで、暴力による死者・犠牲者がいかに膨大かを示す各種統計も多く紹介する。

日本語版への序文
はじめに

第1章 暴力の測定
第2章 第二次世界大戦の遺物
第3章 冷戦期における核の恐怖
第4章 冷戦期の戦争
第5章 代理戦争と代行テロ
第6章 世界の旧体制と新体制 一九九〇年代
第7章 9・11事件と「新しいタイプの戦争」
第8章 不安定の連鎖拡大反応
第9章 七五年目の「アメリカの世紀」


訳者あとがき
ジョン・W. ダワー(John W. Dower)
1938年生まれ.日本近代史・日米関係史.マサチューセッツ工科大学名誉教授.著書に『吉田茂とその時代』(中公文庫),『敗北を抱きしめて』『忘却のしかた,記憶のしかた』(いずれも岩波書店),『昭和』(みすず書房)など.

田中利幸(たなか としゆき)
歴史家.元広島市立大学広島平和研究所教授.著書に Hidden Horrors: Japanese War Crimes in World War II( Second Edition, Rowman & Littlefield),『空の戦争史』(講談社現代新書),共著に『原発とヒロシマ』(岩波ブックレット),翻訳書にハワード・ジン『テロリズムと戦争』(大月書店)など.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記憶は突然、蘇るもの

2018年09月13日 02時37分20秒 | 日記・断片
藤原義江、奥田良三、田谷 力三の歌声をYou Tubeで聞く。
歌好きとなったのは、彼らの歌からであるが、特に奥田良三の声は素晴らしい。
「テノールの奥田良三を知っている?私の兄なんだ」という横浜の歯科医師との出会いもあった。
その人の元愛人が働く中華街の中華料理店で御馳走となる。
「この人の処女を奪ったんだ」と本人を前に言う。
記憶は突然、蘇るものなのだ。
生前の藤原 義江は日比谷公会堂で見た。
パーキンソン病を患い元愛人とされる人に、身を支えられて帰るところであった。
田谷力三には、銀座の街中で出会い、言葉をかけた。
「君は若いのに、私を知っているの?」と目を丸くした。

藤原 義江(1898年(明治31年)12月5日 - 1976年(昭和51年)3月22日)は、日本の男性オペラ歌手、声楽家(テノール(テナー))。愛称は吾等のテナー(われら―)。
戦前から戦後にかけて活躍した世界的オペラ歌手であり、藤原歌劇団の創設者。
父親がスコットランド人で母親が日本人のハーフ(混血)。大阪府生まれ。
18歳の時に観た松井須磨子、沢田正二郎ら芸術座の演劇に憧れる。折から新国劇を創始した沢田に入団を認められ、沢田に与えられた「戸山英二郎」なる芸名で端役を務める。姓の戸山は当時住んでいた戸山が原(現東京都新宿区内)から、名の「英」はイギリス人(スコットランド人)を父にもつその容貌から取られた。
しかし新国劇の演目はいわゆるチャンバラ物であり、明らかに日英混血の容貌の戸山英二郎に活躍の場はなかった。
ローシー歌劇団のオペラ公演に惹かれた藤原は、新国劇を抜け浅草の弱小オペラ一座「アサヒ歌劇団」に入団。1918年(大正7年)には根岸歌劇団(金龍館)の一員にも潜り込むことに成功、浅草オペラ黄金期の頂点にあった金龍館の舞台に立つ。藤原は音楽教育を受けておらず、読譜もままならなかったが、日本人離れした舞台栄えする体躯もあり、また一座のプリマ・ドンナ的存在、6歳年上(実際は3歳年上)の安藤文子の溺愛も得て常に引き立てられていた。数々の舞台を経て、また安藤の熱心な指導もあり藤原の歌唱力は急速に向上する。
なお安藤は藤原の最初の戸籍上の妻ともなる。



義江は1920年(大正9年)3月、マルセイユ経由でイタリア・ミラノへ声楽研鑽に旅立つ。
東京・京橋の開業医、宮下左右輔の妻、宮下アキ(藤原あき、福澤諭吉の実姉:婉の長男で、三井財閥の番頭、中上川彦次郎と妾・つねとの間の子で女子学習院出身)とのスキャンダルが大事に発展、ほとぼりを冷ます目的で外遊。
1957年(昭和32年)には治まることのない女性遍歴に愛想をつかした妻・あきと離婚。
放恣な人生を歩んだように見える藤原であったが、その自伝などからは、実力もないまま「吾等のテナー」として祀り上げられてしまうことへの警戒心、本場のオペラを聴き知ってしまった者としてそれを日本に定着させたいとする強い願望が読み取れる(もっとも自伝も脚色に富んでおりそれ自体面白い読み物である)。日本のオペラの発展に欠かすことのできない一人であった。

なお藤原歌劇団は1981年(昭和56年)、日本オペラ協会と合併統合して財団法人日本オペラ振興会となり、「藤原歌劇団」の名称を西洋オペラの公演事業名として残している。

奥田 良三(1903年6月12日 - 1993年1月27日)は、日本のテノール歌手。
1903年(明治36年)6月12日に北海道札幌市で生まれる。
旧制札幌一中を経て東京音楽学校中退。
その後は、ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミア、ベルリン音楽大学で声楽を学ぶ。
1932年、ウィーンで開催の第1回国際音楽コンクールで銀賞受賞。(金賞受賞者なし)
帰国後、1934年(昭和9年)ポリドールレコードから映画「狂乱のモンテカルロ」主題歌「モンテカルロの一夜」「これぞマドロスの恋」や、映画「会議は踊る」主題歌「命かけて只一度」を吹き込む。
国民歌謡の始まりと共に、「夜明けの唄」や「防人のうた」などをヒットさせている。
その後も戦時歌謡中心に「愛国行進曲」、「戦陣訓の歌」、「空の勇士」、「紀元二千六百年」、「出せ一億の底力」などを吹き込む。
戦後は、昭和音楽大学の初代学長を務める。
お茶の水女子大学、横浜国立大学などの教授を歴任。
死の寸前までステージに立った。
90歳の誕生日にシューベルトの「美しき水車小屋の娘」を歌い引退する予定だったが、その直前、1993年(平成5年)1月27日、心不全で死去。享年89。

田谷 力三(1899年1月13日 - 1988年3月30日)は、大正から昭和期のオペラ歌手。
正統派のテノール歌手だけでなく、浅草オペラの花形として、多くの人に愛された。
また、田力(でんりき)という愛称でも知られた。
原信子、清水金太郎らと浅草オペラで活動し、当時は物珍しかったオペラのパイオニア的存在としてその名を轟かせた。
田谷の歌声に感動して、藤原義江(当時は戸山英次郎)も新国劇を辞して歌手を志した。他にも東八郎や大宮敏充(デン助)にも芸能界へ入る志を与えたといわれている。
大正年間、浅草オペラにおいて人気の頂点に君臨し続け、浅草オペラ壊滅後も"オペラ歌手"(サイン・名刺に常に記していた)として華々しい活躍を続け、本格的なオペラ、オペレッタの舞台に終戦後まで立っている。
浅草オペラのファンであった宮沢賢治は、1924年に執筆した自作の詩『函館港春夜光景』に田谷の名前を読み込んでいる。
その縁で、田谷は1984年に賢治の没後50年を記念して開かれた「音楽の夕べ」に招かれ、賢治に歌声を捧げた。
浅草時代から得意としていた役はビゼー作曲『カルメン』のドン・ホセ、プッチーニ作曲『ラ・ボエーム』のロドルフォ(日本初演)など、叙情的と劇的の両面を併せ持った重要な役が多い。
代表曲に『恋はやさし野辺の花よ』(スッペ:⇒オペラの中では女声の歌だが、新しい日本語歌詞を付けて男声の持ち歌として独立した形)『海賊ディアボロの唄』(オーベール)『ベアトリ姐ちゃん』(スッペ)『オゝソレミオ』『巴里の屋根の下』『海のない港の唄』などがあり、後年『知床旅情』などの最新曲をレパートリーに加えるなど、幅広いジャンルの唄を持ち歌にしている。
1945年(昭和20年)の東京大空襲で身体を壊し、一時歌声を失うものの、必死のリハビリで1948年(昭和23年)に復帰。
懐メロブームにのり、人気も復活する。
また、浅草オペラ唯一の現役歌手とスポットがあたり、1970年(昭和44年)から長らく続けた、銀座のバー「ばんく」における週一度のステージも話題となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする