小峰徹は改めて「人生ボックス」を提唱しながら、それを実践してこなかったことを悔やんだ。
人は、誰かに支えられ、支えっ合って生活しているはず。
つまり生きることは一方通行ではあり得ないのだ。
「敵をつくるな。敵をつくると、疲れるだけなんだから」と人生の先輩の山中次郎が徹を諭した。
企業間は当然、ライバル関係であり、油断をすると足元を救われる。
だが、徹の目に温厚に見えた山中次郎は稀有で過酷な体験をしていた。
山中は日本帝国軍の元関東軍の兵士であり、ソ連によって不本意にもシベリアへ連行・抑留され、日本に帰国できたのは昭和24年のことであった。
その歳月はまさに奴隷と同然の日々であった。
父の企業に営業部長の立場で戻ったが、「赤に染まってきたの男だ」と陰口を叩かれ敬遠されてきた。
父親の惣之助は、次郎を新設の大阪の支社長にして、本社から遠避ける。
専務取締役である長男の一郎の進言によるものであった。
「あいつは、社内に労働組合を作ることを奨励している。まったくどうかしている。わが社には労働組合など必要ないんだ」一郎は不快な気持ちを父親にぶつけた。
2代目の父親惣之助は東京大空襲で亡くなっている創業者の菊之輔の谷中の墓地に花を添えながら「労働組合は必要なのかね」と問いかけた。
答えが得られるわけではなかった。
徹は上司として尊敬していた山中次郎の支持に従い労働組合を設立したのだった。
人は、誰かに支えられ、支えっ合って生活しているはず。
つまり生きることは一方通行ではあり得ないのだ。
「敵をつくるな。敵をつくると、疲れるだけなんだから」と人生の先輩の山中次郎が徹を諭した。
企業間は当然、ライバル関係であり、油断をすると足元を救われる。
だが、徹の目に温厚に見えた山中次郎は稀有で過酷な体験をしていた。
山中は日本帝国軍の元関東軍の兵士であり、ソ連によって不本意にもシベリアへ連行・抑留され、日本に帰国できたのは昭和24年のことであった。
その歳月はまさに奴隷と同然の日々であった。
父の企業に営業部長の立場で戻ったが、「赤に染まってきたの男だ」と陰口を叩かれ敬遠されてきた。
父親の惣之助は、次郎を新設の大阪の支社長にして、本社から遠避ける。
専務取締役である長男の一郎の進言によるものであった。
「あいつは、社内に労働組合を作ることを奨励している。まったくどうかしている。わが社には労働組合など必要ないんだ」一郎は不快な気持ちを父親にぶつけた。
2代目の父親惣之助は東京大空襲で亡くなっている創業者の菊之輔の谷中の墓地に花を添えながら「労働組合は必要なのかね」と問いかけた。
答えが得られるわけではなかった。
徹は上司として尊敬していた山中次郎の支持に従い労働組合を設立したのだった。