牛久ウナギ料理店「水神屋」の殺人事件

2024年08月17日 06時41分55秒 | 事件・事故

1995年1月17日、当時68歳であった4代目店主の松田行雄さんが自宅で、針金で両腕縛られた状態で見つかり、翌日死亡が確認された。

県警は公訴時効が成立する1か月前の2009年12月、千葉県内の男性3人を強盗致死容で逮捕した。

だが、うち一人が事件への関与をほのめかす供述をしたが、いずれも容疑不十分で不起訴になった。

行雄さんの長男で5代目の衛さん(62歳)は不起訴を不服として、検察審査会に審議を申し立てたが、審査会は2010年3月、男性2人を「不起訴相当」にし、残る1人は「不起訴不当」と判断した。

だが、水戸地裁はこの1人を再び不起訴とした。

殺された行雄さんは。当時新設されるバイパスのルートを巡る国などと折衝を重ねていた。

「行雄さんの死はバイパスの線引きと無縁でない」と指摘する人もいるのだ。

開発を巡る利権が絡んだ殺人事件なのか?

犯人はいまだ分かっていない。

真相は闇のなかなのだ。

水神屋(すいじんや)は茨城県龍ケ崎市の旅館兼飲食店。牛久沼のほとり、国道6号線藤代バイパス沿いに位置する。

牛久沼は、食べてはすぐに寝て怠けて牛になってしまった小坊主の昔話「牛になった小坊主」の舞台と言われる。

牛になった小坊主がこの沼で入水自殺をはかった、との伝承に因む。また同地は「うな丼発祥の地」といわれ、国道6号沿いをはじめ沼の近辺には現在でも鰻料理店が多い。

水神屋もそうしたうなぎ料理の店の一つで、江戸時代から続いていた老舗であり、かつては画家の横山大観や作家の松本清張、歌手の坂本九さんなども訪れていたという。

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利根輪太郎の競輪人間学 大穴車券<とれないな!>

2024年08月16日 13時21分47秒 | 創作欄

競輪仲間の一人が、大穴車券<とれないな!>とため息をつく。

大穴は予想したら、ゲットできるものではない。

多くの競輪仲間は、競輪専門紙やスポーツ新聞の競輪欄を頼みにしている。

 利根輪太郎もその一人である。

少し別なのは、出目作戦である。

だが、どうしても先入観や過去の成功や失敗がそこに、雑念のように入り混じる。

輪太郎は基本的に、本命サイドの車券は買わない。

本命を1点買いで買って1000円が3000円になることも、たまにはあるが、各競輪の結果を見れば、1番人気で決まっても面白くもない。

あくまでも、未来予測なのだ。

試しに、8レースの予想で9レースを買ってみた。

それは、実験の一つ。

あるいは、同じ目が2回出るケースもある。

F1 青森競輪KEIRINライジングスターズ

8月15日(最終日

4レース 1-7 

1-7
310円(1)
1-7-4
430円(1)
7レース
1-7
3,990円(15)
1-7-6
17,480円(67)
8レース 1-5
1-5
1,660円(5)
1-5-4
4,070円(9)

10レース

1-5
4,120円(14)
1-5-7
43,560円(89)

 

さらに、出目作戦では、下がり目、上り目もある。

4レース 1-7

1-7
310円(1)
1-7-4
430円(1)

5レース 6-1

6-1
40,180円(37)
6-1-3
439,020円(199)

1-7の結果を見て、1-6と6-1を連想できるかである。

43万もの大穴車券は、出目作戦(上がり目、下がり)の予想行為外の作戦でなければ、とてもゲットできなものなのだ。

さらに、9レース4-6の下がり目の車券11レースに出た。

4-6
3,730円(17)
4-6-5
20,980円(80)

 

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創作 ヤマユリ

2024年08月15日 11時50分01秒 | 創作欄
 
恋愛らしい恋愛の体験がないまま一郎は結婚した。
「恋愛と結婚は違いますよ」一郎は弁護士夫人の遠山紀子に言われたことを長く胸にとどめていた。
一郎は小学生向け学習辞典の販売で、世田谷区等々力の遠山宅を訪問した。
お手伝いさんが玄関の応対に出た。
何時ものとおり「学校の方から来ました」のセールストークで訪問の主旨を伝えた。
それで一郎は応接間まで案内されたのだ。
約半年の短い営業活動の期間で、応接間まで通されたのは初めてだった。
「ご苦労さまです」と柔かに笑顔で応対する夫人は、30代と想われたがお嬢様さんタイプで世間ずれしてはいないように想われた。
一郎は多少の後ろめたさを感じたが、黒革の鞄から学習辞典の1冊を取り出して説明した。
「とても良い学習辞典ですね。いただきますわ」とすんなり売れたのである。
娘さんは私立のお嬢さん学校へ通学していて、夫人から学友の数人を紹介されたのだ。
一郎は夫人が本棚から出しきた学年名簿を夫人の指で示されたので、手帳に住所と名前を記入した。
「わたくしが電話をしておきますわ。是非訪問してください」と親切に言うのだ。
思わぬ収穫であった。
応接間にはヤマユリが大きな紫色の花瓶に飾られていた。
豪華で華麗な花で、直径は20数センチ、「ユリの王様」とも呼ばれている。
応接間に漂う香りは甘く濃厚であった。
「美しい花ですね」と一郎は目に留めた。
「わたくしの誕生日が昨日でして、主人から贈られましたの」と夫人は微笑む。
一郎は夫人にすすめられてイチゴのシュートケーキを食べた。
「学校の方から来ました」というセールストークを信じ込んでいる人のよい夫人であった。
本棚には吉屋信子の小説の他に堀辰雄、太宰治、三島由紀夫、川端康成、立原正秋などの箱入の書籍が並んでいた。
「小説がお好きなのですね?」と聞いてみた。
「女子大学時代に恋いで真剣に悩みましてね、本に解决を求めた時期もありました」夫人は醒めたような瞳をしていた。
一郎はどのような恋であったのかと想ってみた。
「でも、恋愛と結婚は別です。違いますよ」と夫人はきっぱりとした口調で言う。
一郎にその夫人の言葉が深く残ったのだ。
一郎は高校時代、大学時代の青春の真ん中にあって恋愛らしい恋愛の体験がなかった。
「結婚するなら恋愛に限る」と思い込んでいたのだが、そのような縁には巡り合わなかった。
ヤマユリは弁護士夫人だった遠山紀子の華麗な姿を彷彿させた。
その2年後、傷害罪で新宿署に逮捕された一郎は遠山紀子の夫の幸吉に弁護を依頼したのだった。





記事:7月11日毎日新聞





















 
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創作 一郎の従弟幸雄の恋

2024年08月15日 11時43分50秒 | 創作欄
牛田一郎と従弟の幸雄は誕生日が1日違いであった。
歌人であった叔父の影響であろうか、高校生になってから2人は競うように短歌を作りだした。
短歌のレベルは残念ながら初心者のレベルの域に留まっていた。
師と仰ぐ人が身近にいたわけではないし、歌壇に残されている優れた歌人の歌集を読んでもいなかった。
ただ、指をおりながら5、7、5、7、7と言葉を並べて満足していた。
○ 夕闇の金木犀の香に想う君が面影文にどどめん
幸雄が下校途中の彼女と出会ったのは、材木町の街角であった。
秋は恋心が芽生えるような予感をさせる季節であった。
「一郎、俺、恋をした。一度、彼女のこと見てくれや」幸雄は高揚した気持ちを打ち明けた。
一郎は未だ恋いらしい恋の機会には巡り合っていなかったので、「羨ましいな、ユキが恋をしたんか。本気か」と確認した。
「出会って、不思議な気持ちになった。俺、彼女と結婚するよ」一郎の目は常になく真剣である。
「結婚、まだ早すぎるよ」一郎は呆れた。
「早くなんか、ないよ。姉やんは15歳で結婚した。俺は17歳、来年は18歳なるよ」一郎は語気を強めた。
「そうか、それではその彼女に1度会ってみよう」一郎は半信半疑であったが、どのような相手なのか興味も湧いてきた。
翌日、材木町で下校する沼田女子高等学校の生徒たちを2人は待っていた。
2人は沼田農業高校に通学していて、母親たちの母校の生徒に多少は親近感を抱いていた。
伯母の松子は沼田女子高等学校1期生、一郎の母は7期生、幸雄の母は5期生であった。
「おい、彼女が来たよ。3人連れの真ん中が彼女だよ」幸雄の声が高くなっていた。
一郎は幸雄が恋をした女子高生を認めた。
彼女の視線が幸雄に注がれていた。
彼女は笑顔になっていた。
だが、一郎は両側の女子高生と比べ彼女が見劣りすると思ったのだ。
面食いの一郎は右端の子を見て「何て可愛いのだ」と視線が釘付けとなっていた。
「一郎、彼女どうだ。可愛いだろう。気持ちも好きになれそうなんだ」
「あれが惚れた彼女か。そうなんだ」一郎は頷いたが拍子抜けがした。
幸雄は歌を添えて恋文を彼女に手渡した。
「これ、読んでくれや」幸雄は気持ちが高揚していた。
「ありがとう」彼女は恥じらいと多少の戸惑い期待感から笑顔を赤らめた。
彼女に気持ちが通じて幸雄は有頂天になった。
「こんなに、うまくいくんか」と幸雄は恋の勝利者の気分に染まっていく。
「後で読むからね」
姫木典子は渡された封筒を鞄に収めた。
2人は初めてのデートを楽しむように沼田城址へ向かって肩を並べ歩いて行く。

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実はこの創作は、午前11時ころ入力したが、何の間違いか消えてしまった。
さらに、パソコンがフリーズして復帰したのが午後6時である。
同じような文を再現した。
再現してからアップの段階でまたパソコンがフリーズする。
その間、囲碁、将棋で時間を潰す。












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創作 16歳の姉や(お手伝いさん)の裸体

2024年08月15日 11時36分55秒 | 創作欄

一郎は親友の浅野賢治君に誘われ、2年生の時に絵画教室に通うこことなった。

一郎の姉は母から大正琴を習っていたが、やがてピアノを習い出していた。
「一郎も何か習う?」と母親に問われた時、「絵画教室がいい。賢治君も一緒だといいね、と言うんだよ」気持ちを伝えた。
「そうなの。賢治君のおじいさんは、フランス帰りの絵描きさんなのよ。賢治君はおじいさんに習えばいいのにね」母の信枝は怪訝な顔をした。
西洋画壇の重鎮であった浅野陸乃は東京芸術大学の講師の立場でもあった。
一郎が通っていた絵画教室は、浅野陸乃の教え子の一人である大村美智子が主宰していた。
田園調布の駅から5分ほどの閑静な住宅街の一角の屋敷1階のアトリエで、美智子の父親は貿易商であり、彼女はお嬢さん育ち。
生徒は小学生ばかりで、常時6人であった。
毎日、デッサンでモデルは美智子の家のお手伝いさんが務めた。
時には生徒の一人が指名されモデルとなった。
一郎はモデルとなるのが苦痛であった。
ほとんど不動のまま座っていることが耐え難かったのだ。
一郎が絵画を止めたことを記す。
賢治君の家の16歳の姉やが浅野画伯の裸体画のモデルとなったのである。
一郎は賢治君のおじいさんのアトリエが気になり覗きに行ったのだ。
その日、賢治君は歯医者へ行っていた。
窓越しでの有様であった16歳になった姉やの裸体に一郎は大きな衝撃を受けた。
画筆を握り裸体の姉やを凝視する賢治君のおじいさんは、獲物に挑む野獣のように映じたのである。
「イヤラシイ!」と裸体画を描くことすら小学校2年生の一郎には汚らわしく想われたのだ。
「見てはいけないものを見た」という後ろめたさを感じた。
姉やは足を開いており、黒々とした陰毛も明からさまになっていた。
一郎は絵画教室に通うのを止めた。
「どうして?なぜなの?」と賢治君に何度も問われたが一郎は沈黙を貫いた。




















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創作 15歳の姉や(お手伝いさん)

2024年08月15日 11時27分03秒 | 創作欄
沼田一郎は小学校へ入ってから初めて引け目を感じた。
一郎は東京・大田区田園調布本町の桜坂の下にあった三井精機の宿舍に住んでいた。
親子4人が6畳一間で生活をしていたのだ。
学校の帰りに学友の1人が「家に来いよ」誘ってくれた。
高い木塀に囲まれた家で、まず門の大きさに目を丸くした。
浅野の門札も大きかった。
門の脇の木戸を潜ると木立に囲まれた西洋館と2階建の和風の住宅があったのだ。
西洋館は学友の浅野賢治君の祖父母の住まいであり、和風の建物の玄関の呼び鈴を押すと
お下げ頭のお手伝いさんが賢治君を出迎えた。。
「坊ちゃん、お帰りなさい。お母様はお買い物でお出かけですよ」と笑顔がまだ幼い。
「どこまで、行ったの?」
「渋谷までと奥様はおっしゃってました」
お母様、奥様と呼ばれている人は一郎の周辺には居なかった。
「お腹すいたな。何かない?」
「羊羹、最中、甘納豆、カステラなどがあります」
「どれか出して。一郎君、僕の部屋は2階だよ。上がって」
一郎は薄汚れた運動靴を脱ぎ裸足で絨毯を踏みしめた。
その奇妙な感触をまず味わった。
「あの人は誰なの?」
「姉やだよ」
一時期、姉や(お手伝いさん)たちが学友たちの送り迎えてしている時期があったが、ある日、父兄会で問題視されその習わしは禁止された。
無論、自動車での送り迎えも禁止となった。
レースのカーテンが風に揺れ、部屋に金木犀の香りが漂った。
昭和25年の秋のことで、金木犀の香りの季節になると一郎は15歳の姉やが運んで来たお茶と初めて食べたカステラのことが思い出された。
想うに姉やが可憐に映じたのは絣のモンペ姿であったからかもしれない。



















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 創作 鶏肉が苦手

2024年08月15日 11時24分19秒 | 創作欄

 当方はカメラマンではない。

自称写真家である。
正確に言えば写真・映像愛好家である。
カメラが2度も壊れて動画は止めたが、静止画像でもそれなりに切り取れる映像がある。
昨日、「カメラマン、今度は何処へ行くの?」と顔なじみの人から声をかけられた。
「予定はありません」と答えた。
だが、相手の名前も聞いて居なかったし、どこに住んでいるかも知らないが、「おお、また会ったな、カメラマン」と出会うと笑顔で寄って来るのだ。
時には「おお、会長」と声をかけられる。
年齢は70代の中頃であろうか?
「取手においしい焼き鳥屋は?」と尋ねられた。
実は当方、鶏肉が苦手なのだ。
話は幼児のころにさかのぼるが、ニワトリをペットのように想っていた。
ニワトリはトウモロコシを与えると手の平からでも食べた。
雛鳥の頃から慣れ親しんだニワトリたちである。
だがある日、その中の1羽が居なくなっていた。
徹は従兄の朝吉に尋ねた。
「ニワトリが1つ、居ないね。どうしたの?」
「ニワトリ?昨夜、徹も食べただろう。おいしかっね」
「食べた?!」徹は正確にその意味が理解できなかった。
昭和23年、卵は貴重なご馳走であった。
当然、鶏肉もご馳走であった。
東京大空襲の前の月に徹と姉、妹たちは母の実家(取手・小文間)に疎開し、約3年余田舎暮らしをしていた。
その間、徹の父は関東軍に居て終戦を迎えたことから満州からソ連へ連行されていたのだ。


















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創作 「桜坂」おわり

2024年08月15日 00時46分44秒 | 創作欄

北村清治は、母の梅子と、妹の春子と銭湯に行っ日に、たまたま母と妹の二人を桜坂で写真にとどめることとなる。

その時のカメラは1000円の小型のものであり、11歳の誕生日に祖父から贈られたものであった。

そして桜坂の上の商店街の写真屋に現像を頼む。

すると、その店の主人が「君は、写真の才能があるかもしれないな。構図がいいんだ」と褒めるである。

だが、小学生の清治には「構図がいい」の意味を図りかねずにいた。

時は経て、19歳になった妹の春子は、その時期は勤務した企業で残業続きであったのだ。

妹は当時、日比谷にあったミシン会社に勤めていた。

「お兄ちゃん、なるべくなら、春子のこと用賀駅まで向かいに来てね。お願い」春子の懇願に対して、兄の清治は上の空であった。

清治はその日、大学の同期生の杉田桃子とデートの約束をしていた。

そして、行きつけの歌声喫茶「灯」で二人で歌い、盛り上がった後にラブホテルに向かう。

悲劇はその時間帯に起きたのである。

妹の春子は、用賀駅から付けていた男から、自宅からわずか5分の地点の畑の中に連れ込まれて強姦されしまう。

近くには小川が流れていて、男から強姦された春子は当時、流行した歌謡曲の「川は流れる」を犯されるなかで果敢なくも脳裏に浮かべていたのである。

男から乱暴なまでも何回も身体を犯されて家に辿りついた春子は、自分の部屋の机に飾ってあったあの日に、兄が写した自身と母の桜坂の写真を涙を流しながら見詰め、何時までも遠き日の思い出の中に身を投じていたのである。

「同じに、男から犯されるなら・・・お兄ちゃに犯されてた方がいかった」春子は日記に記していたのだが、後日のその箇所を黒地で覆い隠したのである。

それは、決して他人には絶対に明かさない複雑な女の不可思議な心情であったのだ。

 

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創作 「桜坂」6

2024年08月14日 23時17分52秒 | 創作欄

沼部駅から向かって、桜坂の左側の丘は貝塚であった。

近隣の都立高校生たちが、その丘の貝塚を探索していたのを、小学生の北村清治と幼馴染の子どもたちは興味深く見守っていた。

大きな台風が過ぎ去った後の丘の貝塚は、それもでもまく大きく抉られ、多くの大昔の遺物を露呈させたのである。

清治と親友のやっちゃん、そして清治の妹の春子は、貝塚で珍しい土器とこれまでにも見たことがない動物の骨や牙を探り当てたのだった。

現場には大きなシャベルを米屋のやっちゃんが持ってきていた。

清治は、祖父に無断で、つるはしとヤットコを貝塚堀りに使用する。

そこへ高校生たちが奇しくも、やってきたのである。

「君たち、すごいじゃないか。これらをみんな掘り起こしたんだ」高校生たちは遺物に対して驚愕の目線であった。

清治とやっちゃんは、高校生たちに褒められると、誇らしげな気持ちとなる。

そして、高校生の一人が「君たち、これを譲ってよ」と笑顔で懇願するのだ。

人がいいやっちゃんは「ほしければ、あげるよ」即座に言うのだ。

清治は、多少の不満があったのに、口をはさめなかった。

それから、半年の歳月が流れ、この高校の女子生徒が、桜坂からまたも米兵の乗るジープに拉致され強姦される悲惨な憂き目に遭ったのだ。

その女子生徒は、事件後に人生に悲観してのだろう多摩川の丸子橋から投身自殺する。

皮肉にも清治たち数人は、多摩川で遊んでいて、その投身現場を目撃し、生涯忘れられない大きな言い知れぬ衝撃を受けることとなる。

 

 

 

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鍛えの青春が、生涯の宝となるのだ

2024年08月14日 10時17分24秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼焦らずに、悠々と、強い自分をつくっていくのである。

鍛えの青春が、生涯の宝となるのだ。

▼自分にしか果たせ責任と使命が誰にもある。

▼人生には、数限りない「絆」がある。

そのなかにあって、「師弟の絆」こそもっとも崇高なる人生の<精華>がある。

【精華】とは、そのものの真価を成す、立派な点。
 
▼パナマ運河の工事に携わった唯一の日本人技師・青山士(あきら)
 
建設現場はマラリアなどによる犠牲者が後を絶たず、「神が見捨てた地」とまで称された。
だが青山、過酷な環境に耐え、卓抜した技能で難事業に貢献した。
青山を支えたのは、師と仰いだ思想家・内村鑑三との出会い。
後世への最大の遺物は「勇ましい高尚な生涯」—この内村の言葉が、彼が世界史に残る大事業へと駆り立てた。
その後、青山自室に内村の写真を飾り、晩年なで師弟の道に生きた。
 
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老齢期は「第三の人生」であり、「人生の総仕上げの時代」

2024年08月14日 06時16分04秒 | その気になる言葉

▼人間だけが追い込まれた挙句に自殺する。

その要因は<生命力>に帰着する。

つまり、生命力の小さな自分との戦いに敗れた先に、死があるのである。

▼一切を変える究極の力が我々の生命にある。

▼誰もが「高齢化」と無関係ではいられない。

だが、老齢期は「第三の人生」であり、「人生の総仕上げの時代」を示しているのである。

「老いは」とは、衰えの時期ではなく、生きる使命を深めて、生命を磨き上げ、人格を円熟させてゆく時期―。

そう捉えて、常に自らを高め続けていけるのである。

「人生をどう総仕上げするか」とは、「人生をいかに生きるか」という生き方そのものへの問い直結する。

「老い」を価値創造する哲学を持ち、自他共の幸福に尽くすという生き方を示す、この理念はこれからの社会の確かな道標となるはずだ。

▼人生の指針を示す書物を開けば、無限の勇気が湧き上がある。

どんな苦難に直面しても、絶対に活路を開いてみせるとの情熱と勇気、智慧が漲る。

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【競輪】帰国の太田海也は戸惑い隠せず「自分は悪くないと思ってゴールしたら…」/平塚G1

2024年08月14日 01時16分04秒 | 社会・文化・政治・経済

8/13(火) 16:28 配信 日刊スポーツ

<平塚競輪:オールスター>◇G1◇初日◇13日  

パリ五輪出場から13日の早朝に帰国した太田海也(25=岡山)、小原佑太(28=青森)、窪木一茂(35=福島)が会見を行った。  
チームスプリント、スプリント、ケイリンの3種目に出場し、メダルへの期待が大きかった太田は、随所で実力を発揮したものの、不透明な判定に泣いた。  
特にスプリントの準々決勝は、「相手の目線、悪質な動きは、戦っていた自分が一番よく分かっている。付き合わずに勝ってやると思ったし、自分は悪くないと思ってゴールしたら、あの判定だった」と悔しさよりも戸惑いが残った。
 チームスプリントのフライングについても「今まで1度も起こらなかったことがオリンピックで起きた。夢の中で走っているような気持ちだった」と、五輪にすむ魔物の存在を信じざる得なかった。  
今後のナショナルチームの活動については、まだ白紙の状態「このオールスターと、その後のオフの間に、どれだけ自転車をやりたいかを自問自答する」。
まずはこの6日間に集中する。
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創作 「桜坂」5

2024年08月13日 23時31分57秒 | 創作欄

北村清治は、母の梅子と、妹の春子と銭湯に行っていた。

そして、その日は桜坂で同級生の青木幹子の母親と出会ったのである。

清治は子ども心にも、その人の深く俯いたままの、如何にもみすぼらし姿に哀れみの感情さえ抱いた。

「青木さん、お元気なの」母の登紀子が相手の人に声をかけると、その人は驚いたように俯いた顔をあげた。

「ああ、北村さん、こんにちわ」

「ご主人は、その後、どうなのですか」

「明後日、新潟の舞鶴へ行く予定なの。今度の船で夫がシベリアから帰還すればと思って・・・」相手は目を潤ませる。

「大変ね。ご主人のことは、何時も祈っています」

「あいりがとう」と言った相手は逃げるように桜坂の反対方面へ立ち去る。

実は母の登紀子が、1年前から女学校の恩師に勧められ、仏教系の宗教の信仰を初めていたのだ。

そして、同級生の青木幹子の母親にも信仰を勧めていたのであるが、聞く耳をもたない相手は靖国神社へ足を向け熱心に神道を信奉していた。

 

参考

シベリア抑留(シベリアよくりゅう、英:The internment in Siberia)は、第二次世界大戦終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜民間人らが、ソビエト連邦(ソ連)によってシベリア、カザフ、キルギス、ウズベクなどソ連各地、モンゴル人民共和国モンゴル抑留)などソ連の衛星国労働力として連行され、長期にわたる抑留生活、厳寒・飢え・感染症の蔓延る過酷な強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する総称である。

男性の被害者が多いが女性も抑留されている

ソ連対日参戦によってソ連軍に占領された満洲朝鮮半島北部、南樺太千島列島などの地域で抑留された日本人は約57万5千人に上る

厳寒環境下で満足な食事も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万8千人死亡した

このうち氏名など個人が特定された数は2019年12月時点で4万1362。

これは全抑留者の約1割で、これは日本国内に連行されてきた連合軍捕虜の死亡率とほぼ同程度という。

ただし、この死者の多くが初年目の冬に集中している。

2年目からは待遇が改善されて、死亡率は大幅に減っている。

抑留者には十分な食料が与えられず、スプーンなどの食器も自分たちで作らなければなりませんでした。

わずかな黒パンやスープを仲間と分け合いましたが、日に日に痩せ細り、栄養失調に陥りました。こうした日常的な飢えと寒さにより、1年目の冬を越せずに亡くなる抑留者も多くいました。

シベリア抑留の背景

ソ連による旧敵国側の軍人と民間人の抑留は、戦争により大きな人的被害と物的損害を被ったソ連における、戦後復興を担う労働力不足を補うための措置として、同じ敗戦国であるドイツ等に対しても行われました。

シベリア抑留は、そうしたソ連のヨーロッパ人に対する抑留政策と同様な意味をもっていました。

占領下での外交権の制限に加え、主権回復後も昭和31年(1956)までソ連と国交を回復できなかったことが、引き揚げを困難にした要因でした。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという

このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであるとして、日本側関係者からは批判される。

ソ連の継承国であるロシア連邦エリツィン大統領1993年平成5年)10月に訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表した

ただし、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしている

シベリア抑留者の集団帰国は1956年に終了し、ソ連政府は1958年12月に「日本人の送還問題は既に完了したと考えている」と発言した

だがソ連占領下の南樺太で逮捕されるなどしてソ連崩壊後まで帰国が許されなかった民間人もおり、ソ連政府は日本政府による安否確認や帰国の意向調査を妨害し続けた

「シベリア抑留」という用語が使われるようになったのは、1979年の「全国抑留者補償協議会」発足の時だとされる

重労働 ー抑留中の生活ー

抑留者は氷点下を下回る環境の中、森林の伐採や炭鉱の採掘、鉄道の建設といった重労働に強制的に従事させられました。食料事情や衛生状況も劣悪で、身体中にノミやシラミが湧き、赤痢やコレラといった伝染病が発症し、5万5000人を超える多くの犠牲者が出ました。

ただし、重労働ではない役務を課した収容所もあり、ソ連国民との交流が芽生えた例もありました。

 抑留者はソ連全土の1200か所のラーゲリに送り込まれており、ラーゲリはシベリアだけでなく、カザフスタン、ウズベキスタンなど中央アジア、さらにヨーロッパに区分されるウラル山脈の西にもあった。短期間に60万人もの人を割り振るのは簡単ではなく、抑留計画は対日参戦のかなり前から計画されていた可能性が高い。

ソ連は形ばかりの審理で抑留者の一部を戦争犯罪人とし、強制労働という刑罰を科しているという理屈をつけて抑留を続けた。

昭和25年(1950年)には、ソ連側が「戦犯関係で調査中の者などを除いて、昨年で捕虜の送還は完了した」と一方的に発表する。日本は国際連合に実態調査を求めるが、同じ年に朝鮮戦争が勃発すると、抑留者の問題は脇に追いやられてしまう。サンフランシスコ講和条約に反対したソ連は、日本の独立後も国連加盟に拒否権を発動するなど厳しい対日姿勢を崩さなかった。

昭和28年(1953年)には朝鮮戦争が休戦となり、抑留を命じたスターリンが死去した。

止まっていた引き揚げも日ソの赤十字社によって再開されたが、戦犯とされた抑留者の「総ざらい引き揚げ」は実現しなかった。

昭和30年(1955年)には日ソ国交正常化交渉が始まり、日本側は抑留者の早期帰還を求めたが、その交渉も暗礁に乗り上げてしまう。ソ連側が「残っている抑留者はすべて戦犯で、特赦を受けないと出国できない。特赦の決定には平和条約の締結が必要だ」と主張した(『戦後強制抑留史』)からだ。

 

 

 

 

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我慢は自分を磨いていく

2024年08月13日 10時55分15秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼核兵器の廃絶へ、人々の心に「平和の砦」を築く対話が重要だ。

若人の信念の声、生命尊厳の思想を時代精神に!

▼勝つとは、深き祈りと、人の三倍 努力することだ。

▼争いのない世界を築くため、一緒に何ができるかを考えるのである。

▼平和は決して与えられるものではない。

自らの意志で、自らの手で、額に汗をし、語り、動き、岩盤をこぶしで砕く思いで、勝ち取るものだ。

▼資本主義が今後も成功していくには、人間は<消費者>としてではなく<建設者>として生きよ!—米国の経済学者レスター・サロー

·『ゼロ・サム社会』や『知識資本主義』などの著書で経済格差の深刻さを警告した米国の経済学者レスター・サロー・マサチューセッツ工科大学(MIT)教授。

▼すべての人が、なんらかの悩みを抱えているものだ。

いっさいに恵まれた人間などいない。

そこで、果敢に挑戦し、人生に勝っていくことだ。

これからどうなるかではなく、自分がどうするかである。

いかなる状況下にあっても、誰よりも力強く、誰よりも明るく、誰よりも清らかに生き抜き、自分は最高位のに幸福であると言い切る人生を送ることが、あなたの使命だ。

▼自分の目標が明確であり、そこに向かって、全力で突き進んでいる人には勢いがある。

ただ漫然と進んでいるのでは勢いは出ない。

結局は惰性化してしまう。

一日一日、目標への懸命な歩みを続けずして、青春の勝利も、人生の勝利もない。

▼わがままや甘えは、自分をだめにする。

しかし、我慢は自分を磨いていく。

その経験が、将来の大事な精神の財産となる。

 

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悲観する必要はない

2024年08月13日 10時27分14秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼失敗する人の多くは、諦めた時にどれほど成功に近づいていたかに気づかない―エジソン

失敗や敗北の陰には、しばしば成功や勝利が隠れているのである。

エジソンのように、困難や敗北をプラスに転じる者こそがそれを手にできる。

トーマス・アルバ・エジソンは、アメリカ合衆国の発明家、起業家。

スポンサーのJPモルガン、秘書のサミュエル・インサル、そしてメロン財閥とアメリカの電力系統を寡占した。

Life誌が1999年に発表した「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」において第1位に選出されている。 

▼人生は戦いである。

幸福になるための戦いだ。

▼<常勝>とは、逆境に打ち勝ち続ける者に与えられる栄冠だ。

▼変化の大きい時代の中、国内外で困難な問題が山積している。

しかし、悲観する必要はない。

今、必要なのは、青年たちに挑戦と変革の機会を与えるとともに、その清新な熱と力を応援することを社会全体の<当たり前>にしていくことだ。

それこそが、次の時代を開くカギとなるに違いない。

▼人間を進化させるために必要なものはなにか。

それは<困難>である。

<生命は厳しい逆境との苦闘を勝ち越える中でこそ、創造的に成長し発展する>ロバート・ジャストロウ・NASA宇宙調査研究所長

 

 

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