山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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日朝会談は夢物語

2018-06-28 21:14:45 | 日記
韓国が主導した北朝鮮との平和会談を、ことごとく足を引っ張ってきた安倍外交は金正恩には見透かされている。もっとも安倍の頭には拉致被害者救出などは念頭にはない。本気で拉致被害者の救出を考えておれば、この機会を逃すはずはなかったし、文在寅大統領が金正恩が「日本はなぜ政府使者の派遣をしないのか?」と問うたことを、日本政府に伝えている。この時も安倍は動かなかった。朝鮮半島に有事が起きれば、自分のじいさんであった岸信介の悲願、憲法改正が実現できると期待していたからである。麻生大臣が「新聞を読まない若者は自民党支持である。」と産経新聞に云ったそうである。これほど日本の若者を馬鹿にした発言はない。しかし、これが現実でもある。社会に関心なく、政治に関心なく、自分の事しか考えていない若者が多いことか。若者が自民党を支持し、このまま推移すれば、憲法9条の廃棄は行われるだろう。戦争の出来る日本国家が、果たして幸せにつながるのか、議論の余地もないが、この危険な情勢に無関心であるのだから仕方がない。

遠のく日朝会談…北は安倍首相を“蚊帳の外”“卑しい”と批判

今や発言力は世界トップクラス(C)ロイター 拡大する
 2004年以来となる日朝首脳会談の実現を模索する安倍首相の足元を見透かすように、北朝鮮がアベ批判を強めている。朝鮮労働党機関紙「労働新聞」が週末にかけて立て続けに論評を掲載。ボルテージは上がりっ放しだ。このままでは、会談実現は遠のくばかりだ。

 労働新聞が21日付で掲載したのが、〈蚊帳の外から抜け出そうという術策〉と題した論評だ。米朝首脳会談が行われた12日、来日したマレーシアのマハティール首相やラオスのトンルン首相に対し、安倍首相が対北圧力への協調を求めたと言及。〈蚊帳の外に置かれている者の卑しい物乞い行為だ〉〈不安感に襲われた安倍は、朝鮮半島情勢を悪化させようという不純な策動に東南アジア諸国を引き込もうと愚かに画策している〉と断じる一方、安倍政権が配備を急ぐ「イージス・アショア」もこうヤリ玉に挙げた。

〈日本の防衛相は、ミサイル迎撃システムを拡張すると発表しながら、良い方向に流れている朝鮮半島の雰囲気に冷や水を浴びせている〉
昨年11月に初来日したトランプ米大統領から「バイ・アメリカン」と迫られ、北朝鮮の脅威を理由に購入を前倒しした陸上配備型のミサイル迎撃システムだ。1基1000億円弱で、搭載に向けて日米で共同開発中の新型迎撃ミサイル「SM3ブロック2A」4発と関連装備品は計約150億円。2基で2000億円もする代物である。米朝対話が進む中、配備予定地の秋田と山口からもその必要性を疑問視する声が上がる。そして、安倍政権のやり方をこう総括していた。

〈安倍勢力の総的目標は、日本を戦争国家にすることである。今まで日本は周辺情勢、特に朝鮮半島情勢悪化を口実に、武力増強に拍車をかけ、軍事訓練を頻繁に行ってきた。侵略戦争に出られる準備をほとんど整えた日本に今残っているのは、現行憲法を書き換え、法的名分を作ることだけである。だから、朝鮮半島情勢緩和ではなく、激化を望んでいる〉
指摘はごもっともで、子細に分析したものである。元韓国国防省北朝鮮情報分析官の高永テツ氏(拓大主任研究員)はこう言う。

「北朝鮮は米国との融和ムードに水を差し、足を引っ張ろうとする安倍政権にイラ立ちを募らせています。金正恩党委員長と本気で向き合う覚悟があるのなら、刺激するような態度は改めろ、というメッセージだと受け取るべきでしょう」

 22日付の〈日本は誠実に過去を清算せよ〉と題した論評も痛烈だった。従軍慰安婦に関する日韓合意を巡り、日本の反対にもかかわらず、少女像が米議会で巡回展示されたことに言及。〈「合意」なるものを前面に掲げて、凶悪非道な性奴隷犯罪が全部清算されたかのように宣伝している〉と非難し、〈過去の罪悪を率直に認めて徹底的に賠償することだけが、日本が生きる道である〉と主張した。


 拉致問題の解決を前面に押し出す安倍政権にまたもクギを刺してきたわけである。「外交というものは血こそ流さないものの、頭脳を駆使する戦争です。国民感情を考えれば、日本が拉致問題を最重要課題とするのは理解できますが、国際社会が大きく動く局面では、世論の反発を恐れず、本音を隠す外交の知恵を絞った方がいい」(高永テツ氏=前出)

 事態を1ミリも進展させず、“拉致の安倍”で高ようじだったツケが一気に回ってきた。 日刊ゲンダイ記事より

神成城⑥

2018-06-27 21:11:10 | 山城ー上州
二の丸から北尾根へ


曲輪8

堀切

曲輪9

堀切

曲輪10 デジカメの電池切れで、スマホカメラで写したため画像が良くありません。



富岡市宮崎に走る県道199号線沿いに棒柱があります。

永燐寺地図
この寺は小幡弾正左衛門信重が国峰城・宮崎城の城主であった時に開基したと伝えられています。信重公は永禄十二年十二月六日、武田信玄に従って、駿河に出陣し蒲原城の戦いで戦死。法名を徳翁永燐禅定門という。永燐寺の山号の正寿山は信重夫人の法名である算室正寿禅定尼による。後世に居たり、徳川家康公が宮崎城を奥平美作守信昌公に給い、その夫人亀姫(家康長女)が永燐寺三世快岩春慶和尚に帰依し当寺を祈願所としたことから、慶安二年、三代家光公より朱印地二十三石を賜る。

信重は信貞の弟で国峰の城主であったとは思われませんが・宮崎城の城主であった可能性はあると思います。宮崎城は現在の富岡西中です。

小幡 憲重(おばた のりしげ、永正14年(1517年?) - 没年不詳)は、戦国時代の武将。上野国甘楽郡小幡郷の国衆。小幡顕高の子。小幡信貞(信実)の父。別名重貞、重定ともされる。信竜斎全賢。妻は長野業正の娘(妹とも)。子に信貞・信重がいる[1]。娘は甲斐武田氏の親族衆・武田信豊の妻[2]。憲重の孫である信氏の室を武田信豊娘とする系図もある[3]。尾張守。国峯城城主。ウィキペディアより

次回 富岡市野上にある西平城

神成城⑤

2018-06-26 20:05:01 | 山城ー上州
本丸から西南尾根へ


本丸南側土塁を西から見ています。

本丸西虎口

西虎口から西下曲輪を見ています。

西下曲輪

西下曲輪から西虎口を見上げています。

西下曲輪から北斜面に搦め手、下丹生集落に通じています。

西尾根を進み、堀切

西尾根第一曲輪

西尾根第二曲輪

西尾根第三曲輪

西砦虎口(現地案内では物見としていますが砦としたほうが良いと思われます。)

御岳神社(砦本丸)

西砦の西虎口

西砦北斜面、第一段曲輪

第二段曲輪

第三段曲輪、このように守りも固く、物見ではなく砦として縄張りされています。

次回 二の丸からの北尾根

俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より、北尾根へ

関東の戦乱

 その後、関東公方足利成氏と関東管領山内上杉憲忠との対立は深刻の度を深め、ついに享徳三年(1454)、成氏が憲忠を殺害したことで「享徳の乱」が起こった。この乱は、以後、二十余年にわたって続き、関東の地を合戦の坩堝に叩き込むことになる。さらに、乱が終結をみないうちに上杉氏の内紛ともいえる「長尾景春の乱」が起きた。この間の戦場は東上野が中心となり、西上野の諸将は上杉方の主力として活躍した。
 この時期の小幡氏の動向をみるうえでの史料として、細川勝元が小幡参河守にあてた書状と小幡右衛門尉・長野左衛門尉の連名で出された感状がある。小幡参河守は「結城戦場記」にみえる小幡三河守の一族と思われ、小幡右衛門尉は氏行の系統の小幡氏の人物であろうと考えられている。この小幡・長野連名に出された感状から、十五世紀後半の上野において小幡氏が上州一揆の旗頭である長野氏と同列におかれるほどの勢力を有していたことが知られ、さらに、ふたつの史料から小幡氏が参河守系と右衛門尉系の二流に分かれて存在していたことも分かる。
 小幡氏の嫡流とされる氏行の系統は、氏行から実高に至るまで代々右衛門尉を名乗り、さきの感状にみえる右衛門尉は嫡流系図にみえる景高と思われ、その子孫は戦国時代に入ると武田方の有力武将となる国峯城主の小幡宗家に連なる系統であろう。一方、三河守系はその後も上杉方として行動し、謙信の時代に作成された『関東幕注文』に「団の内六竹」とみえる下仁田鷹巣城主小幡三河守に続く系統であろうと考えられる。武家家伝ー小幡氏




神成城④

2018-06-25 20:06:43 | 山城ー上州
本丸から南東物見

二の丸(これは宮坂氏の縄張り図の南上)

縄張り図は「境目の山城と館」、宮坂氏もこの写真の場所を名付けていません。

二の丸南側土塁、この上が本丸で虎口と思われます。

遊歩道が通り本丸北城壁

本丸、以前は笹薮だらけで、これほど見事な土塁が確認できませんでした。

土塁上に立って西から見ています。

土塁から本丸を見下ろしています。

土塁上にある縄張り図

土塁も東側は曲輪になっています。

南東尾根の堀切

南東の物見

国道254号線沿い、宮崎宿、奥の山が稲含山
次回 本丸南西尾根から御岳山の物見

上野国の小幡氏
家紋は「軍配に七五三笹」。 発祥地・上野に拠った上州小幡氏の系統は早くに二つに分かれたとみられ、小幡右衛門尉と三河守をそれぞれ名乗っている。前者は小幡氏行[1]を祖とし、のち宗家として国峰城を支配した。後者は系図上では小幡次郎重高(行頼の弟)を祖に持つといい[2]、鷲鼻城を本願地とした[3]。ただし戦国期には両家は独自に行動しており、宗家・分家としてのまとまりは無い[2]。
上州小幡氏は室町期に山内上杉氏の被官となっていたとみられるが、上杉憲政が後北条氏に追われて上野を失った際、三河守系は憲政に従い越後に逃れた。三河守系が山内上杉氏に仕えて北武蔵方面に勢力を持っていたため後北条氏に追われることになったとする説もある[2]。その後、小幡三河守は長尾景虎の上杉氏継承に参列するなど上杉方であったが、三河守信尚はのちに武田氏に属することになった。
一方で国峰城の小幡憲重については、後北条方に離反したと考えられてきたが、近年になって程なく後北条氏から武田氏に鞍替えしていたことが判明している。その結果、山内上杉氏の没落と後北条氏の進出後に憲重は武田氏の家臣でありながら後北条氏からも一部所領の安堵を受けると言う関係になった。武田氏帰属の事実は憲重の嫡男は元服後に武田晴信(信玄)の一字から「信実(信貞)」と名乗っている事からも裏付けられる[4][5]。しかし憲重の行動に対して憲政退去後も後北条方につかず抵抗していた箕輪城主長野業正は、小幡一族の小幡景純(あるいは憲重の弟・景定)とその養子・次郎信之[6]を後押しし、憲重の草津温泉滞在中に反乱を起こさせ国峰城を占拠させた[7]、小幡領を上杉方の勢力下に戻してしまった。このため憲重と嫡男・信貞は武田信玄を頼り甲斐に亡命した。信玄はこの亡命を利用し国峰城へ侵攻、景純を討死にさせ、小幡氏は武田氏の西上州侵攻の先鋒となっていく。
その後、武田氏が箕輪城を落城させると小幡氏は武田家臣として西上野衆を率いる立場となり、小幡の赤備え軍団として三増峠の戦い・三方ヶ原の戦い・長篠の戦いなどに参戦、武田騎馬隊の主力として活躍した。しかし武田家滅亡に伴い、小幡信貞は織田信長配下の森長可に降状する。そして本能寺の変後は後北条氏に属すが、天正18年(1590年)小田原征伐に伴って国峰城も落城した。小田原に篭城していた信貞は旧友の真田昌幸を頼り信濃に亡命、52歳で病死する。徳川家康関東入部後、その配下の奥平信昌が小幡を領することになり、上州小幡氏は本領を失うことになった。
宗家・信貞には実子が無く、一族から数人養子をとっていた。そのうち跡を継いだのは直之(信貞弟・信秀の子)で、江戸幕府に仕えて旗本となった。また同じく信貞養子で直之の実弟である有宗・氏吉兄弟は、氏行が真田信之に仕えて松代藩の重臣となり、氏吉は紀伊和歌山藩に仕官した。松代小幡氏は幕末まで存続し明治期に東京へ転出した。しかし紀州小幡氏は幕末には藩記録に見えず消息不明となった。 また、直之の三男・直寛は、分家して御家人として一家を創てたが、直利の時に甲府勤番を命ぜられた。甲府小幡氏の菩提寺は日蓮宗 仏国寺である。
彦三郎信氏(信定)、七郎兵衛、囚獄の3兄弟は加賀藩家臣となった。特に彦三郎・七郎兵衛はどちらかが信貞養子となり、小田原落城までは嫡男または当主であったともいわれる[8]。彦三郎信氏系はその子・播磨守信昌のとき妻女刺殺事件を起こし改易、残り2家が前田家家臣として続いた。このうち囚獄系のさらに分家が越中富山藩分立の際に富山へ移住している。北海道の小幡氏は、明治期に加賀小幡氏(七郎兵衛系)嫡男の小幡順太郎系が越後を経由し北海道へ渡ったと推察されている[2]。
一方、三河守系は武田氏ののち再び上杉氏に属したらしく、喜兵衛忠刻が上杉景勝の家臣として仕え、米沢藩士として幕末に至った。また三河守系の喜兵衛系の一門とみられる3家があり、その中の小幡四郎左衛門の家督を継いだのは小幡播磨守昌高(信貞弟)二男とされ上総介系になっている[9]。ウィキペディアより


下仁田町の吉崎公園が三河守貞政の鷹巣城です。
吉崎公園地図
神成城記事①で乗願寺に少し触れましたが、この寺が本院で常住寺(地図をスクロールすれば北の下仁田役場近くにあります。)が別院だそうです。そして桧平合戦について神成城記事②でリンクできるようにしてありますが、常住寺を図書之助が本陣として憲重、信貞父子と戦ったと戦記にあります。


神成城③

2018-06-24 20:16:57 | 山城ー上州
曲輪3から二の丸へ

三の丸西側から帯曲輪に廻ります。

帯曲輪を歩き

帯曲輪の南側に来て

土塁が仕切り、西への通路から

三の丸西下曲輪

仕切りの土塁を北に向かい、三の丸城壁を見ています。

三の丸城壁は東に進むと空堀と繋がり

空堀が三の丸南側を走っています。

三の丸の櫓の南土塁

櫓台

三の丸から南に歩くと、広大な曲輪(仮に二の丸北下曲輪とします。)

縄張り図は「境目の山城と館」宮坂武男氏著、これによれば広大な曲輪を曲輪2とされていますが、その南に一段高い曲輪があり本丸と曲輪2とされている間の曲輪が二の丸と思います。

二の丸北下曲輪は南側で段差があり

一段高く南に二の丸、西には土塁

武田氏の西上州への侵攻」①②③として小幡信貞(武田信玄が背後に)と図書之助(背後に西上州の雄長野業政がいる。)との勢力争いを綴っています。