山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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獅子吼城③

2018-06-10 17:12:37 | 山城ー甲斐
東斜面の腰曲輪群から北側斜面の腰曲輪群

第一帯曲輪の北側虎口

帯曲輪は東に伸びて突き当たります。

東斜面を下り、第一腰曲輪

第二腰曲輪

第三腰曲輪

第四腰曲輪、麓まで段曲輪が続きます。

北東斜面を登ってゆき

腰曲輪を形成する石垣

こうした石垣が随所にあり、東斜面での防御を摺滑てゆくにはかなりの犠牲が伴うと想像されます。

北東斜面を登り切り、帯曲輪虎口から北側へ下ります。

北側斜面は大きく開かれています。

低地になると壕と思われる溝があります。

北斜面の通路から北支尾根を下ると

支尾根を下り

北曲輪があり、この右手脇から低地の壕へ繋がっています。

獅子吼城は基本的には中段の帯曲輪が防御の要となっていて、帯曲輪の下方に東。南・西斜面の要所に腰曲輪が構築されています。

次回 勝頼の新府城から景徳寺までの逃避行

獅子吼城主 江草信康は武田信満の三男です。
棲雲寺(現在 栖雲寺 武田勝頼が天目山にあるこの寺を目指したという)
棲雲寺は、天目山山中の標高約1,050mの日川渓谷の上流左岸にある。日川渓谷のさらに4.6kmほど下流の田野には、曹洞宗寺院の天童山景徳院がある。
南北朝時代の貞和4年/正平3年(1348年)、開基業海本浄(ごうかいほんじょう、通称ごっかい、1284-1352年)は、当時木賊山と呼ばれていたこの山を訪れた。業海は文保2年(1318年)に、仲間5人と元に渡り、天目山において普応国師中峰明本(ちゅうほうみんぱん、1263-1323年)から教えを受け、印可を授かって、嘉暦元年(1326年)に帰国した。その後、師の教えを実践させる、修業の場に相応しい地を求めて、20年以上にわたって諸国を旅して、木賊山が天目山を髣髴とさせる景勝地であるとして、この地に天目山護国禅寺を創建した。
業海は、当時一世を風靡した、夢窓疎石の一派を強く批判し、岩窟に普応国師像を安置し、樹下で座禅を組み、地元の住民とはほとんど交わらず、牛に使いをさせた(『本朝高僧伝』)という伝説を残している。業海は4年後に没するが、その後は、甲斐守護・武田氏の庇護を受けて栄え、木賊山もいつしか「天目山」と呼ばれるようになり、兵庫県丹波市にある瑞巌山高源寺(開基の遠谿祖雄(遠渓祖雄)は業海本浄とともに元に渡った1人)とともに、「東天目」「西天目」と併称された。
応永23年(1416年)、上杉禅秀の乱に加担したとして、室町幕府の討伐を受けた、甲斐守護武田信満がこの山中で自害した。信満の遺骸はこの寺に運ばれて葬られたとされ、棲雲寺には信満の宝篋印塔や、ともに自害した家臣達の五輪塔が存在している。武田信玄も軍旗・軍配・陣中鏡を同寺に奉納したと伝えられている。


武田信満が自刃した栖雲寺を勝頼は目指したものの。下流にある景徳院で逃避行を断念し自害しました。なにか因縁を感じます。