目指した栖雲寺
栖雲寺地図
景徳院から3kmくらい県道218号線を北に進めば栖雲寺はあります。途中竜門峡入り口を過ぎて土屋惣藏昌恒片手切の碑があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/f7/c78365539754b94a3146247f0d7b5b24.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/02/53c95ec6bdf7620579bd0bd2713e7d30.jpg)
栖雲寺に向かう勝頼一行を織田軍勢は先廻りをしてゆく手を阻んでいたという。この窮地に土屋惣藏が狭い崖路に立って迫りくる敵兵を片手切りに川へ突き落とし活躍したとの伝説が残っています。この奮闘によって勝頼一行は景徳寺にもどり、自刃できたという。
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栖雲寺、こんな山深い道を北条夫人を伴い逃れてきたのです。
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武田信満について
応永20年(1413年)、父の死により家督を継いで当主となる[1]。室町時代に甲斐国は関東8か国を支配する鎌倉府の管轄下に置かれていたが、『鎌倉大草紙』によれば、応永23年(1416年)10月に鎌倉で鎌倉公方の足利持氏と前関東管領の上杉氏憲(禅秀)の対立から禅秀による反乱が起こった(上杉禅秀の乱)。氏憲の縁者(小舅)に当たる信満は氏憲側に属したが、乱における甲斐の情勢は不明。
『鎌倉大草紙』によれば、上杉禅秀の乱は10月2日に足利満隆・足利持仲の兵が鎌倉の御所を攻め、持氏は駿河国の今川範政を頼り駿河大森(静岡県裾野市)へ逃れるが、「甲州の敵程近し」として範政を頼ったという[2]。その後、室町幕府将軍・足利義持が持氏を支持し、禅秀討伐の御教書を発し、今川範政や越後守護・上杉房方らが鎌倉へ出兵すると、翌応永24年(1417年)正月10日に禅秀らは滅亡し、10月17日に持氏は鎌倉へ帰還した[3]。
『鎌倉大草紙』によれば乱の平定後に持氏は禅秀方の討伐を行い、信満は上杉憲宗の討伐軍の攻勢を受け、応永24年2月6日に「都留郡十賊山(とくさやま)」で自害する[4]。「十賊山」は都留郡・山梨郡・八代郡の郡境に位置する山[5]。『武田源氏一統系図』によれば、禅秀に嫁いだ信春息女も比定地未詳の「藤渡の川辺」で自害したとしている[6]。信満の墓所は甲州市大和町木賊の棲雲寺。
武田勝頼がこの武田信満の自害の地を意識したのかは不明ですが、あるいは覚悟していたのかもしれません。
余談 「土屋山城守高久伝説」として勝頼の嫡子信勝が下仁田町の西、南牧村に遁れてきたという伝説が残っています。この伝説に従い遺跡を調べ南牧村にある信勝の墓や土屋山城守の位牌が遺されている上野村の家を尋ねてきました。単なる架空の話ではないと実感しております。私のブログ、日記のカテゴリに入っており、「検索」土屋山城守高久伝説でヒットします。
栖雲寺地図
景徳院から3kmくらい県道218号線を北に進めば栖雲寺はあります。途中竜門峡入り口を過ぎて土屋惣藏昌恒片手切の碑があります。
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栖雲寺に向かう勝頼一行を織田軍勢は先廻りをしてゆく手を阻んでいたという。この窮地に土屋惣藏が狭い崖路に立って迫りくる敵兵を片手切りに川へ突き落とし活躍したとの伝説が残っています。この奮闘によって勝頼一行は景徳寺にもどり、自刃できたという。
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栖雲寺、こんな山深い道を北条夫人を伴い逃れてきたのです。
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武田信満について
応永20年(1413年)、父の死により家督を継いで当主となる[1]。室町時代に甲斐国は関東8か国を支配する鎌倉府の管轄下に置かれていたが、『鎌倉大草紙』によれば、応永23年(1416年)10月に鎌倉で鎌倉公方の足利持氏と前関東管領の上杉氏憲(禅秀)の対立から禅秀による反乱が起こった(上杉禅秀の乱)。氏憲の縁者(小舅)に当たる信満は氏憲側に属したが、乱における甲斐の情勢は不明。
『鎌倉大草紙』によれば、上杉禅秀の乱は10月2日に足利満隆・足利持仲の兵が鎌倉の御所を攻め、持氏は駿河国の今川範政を頼り駿河大森(静岡県裾野市)へ逃れるが、「甲州の敵程近し」として範政を頼ったという[2]。その後、室町幕府将軍・足利義持が持氏を支持し、禅秀討伐の御教書を発し、今川範政や越後守護・上杉房方らが鎌倉へ出兵すると、翌応永24年(1417年)正月10日に禅秀らは滅亡し、10月17日に持氏は鎌倉へ帰還した[3]。
『鎌倉大草紙』によれば乱の平定後に持氏は禅秀方の討伐を行い、信満は上杉憲宗の討伐軍の攻勢を受け、応永24年2月6日に「都留郡十賊山(とくさやま)」で自害する[4]。「十賊山」は都留郡・山梨郡・八代郡の郡境に位置する山[5]。『武田源氏一統系図』によれば、禅秀に嫁いだ信春息女も比定地未詳の「藤渡の川辺」で自害したとしている[6]。信満の墓所は甲州市大和町木賊の棲雲寺。
武田勝頼がこの武田信満の自害の地を意識したのかは不明ですが、あるいは覚悟していたのかもしれません。
余談 「土屋山城守高久伝説」として勝頼の嫡子信勝が下仁田町の西、南牧村に遁れてきたという伝説が残っています。この伝説に従い遺跡を調べ南牧村にある信勝の墓や土屋山城守の位牌が遺されている上野村の家を尋ねてきました。単なる架空の話ではないと実感しております。私のブログ、日記のカテゴリに入っており、「検索」土屋山城守高久伝説でヒットします。