本丸から西南尾根へ
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本丸南側土塁を西から見ています。
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本丸西虎口
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西虎口から西下曲輪を見ています。
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西下曲輪
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西下曲輪から西虎口を見上げています。
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西下曲輪から北斜面に搦め手、下丹生集落に通じています。
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西尾根を進み、堀切
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西尾根第一曲輪
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西尾根第二曲輪
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西尾根第三曲輪
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西砦虎口(現地案内では物見としていますが砦としたほうが良いと思われます。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/6f/b08bf96a5762e8ab3cbe7d25c6fea385.jpg)
御岳神社(砦本丸)
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西砦の西虎口
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西砦北斜面、第一段曲輪
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第二段曲輪
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第三段曲輪、このように守りも固く、物見ではなく砦として縄張りされています。
次回 二の丸からの北尾根
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俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より、北尾根へ
関東の戦乱
その後、関東公方足利成氏と関東管領山内上杉憲忠との対立は深刻の度を深め、ついに享徳三年(1454)、成氏が憲忠を殺害したことで「享徳の乱」が起こった。この乱は、以後、二十余年にわたって続き、関東の地を合戦の坩堝に叩き込むことになる。さらに、乱が終結をみないうちに上杉氏の内紛ともいえる「長尾景春の乱」が起きた。この間の戦場は東上野が中心となり、西上野の諸将は上杉方の主力として活躍した。
この時期の小幡氏の動向をみるうえでの史料として、細川勝元が小幡参河守にあてた書状と小幡右衛門尉・長野左衛門尉の連名で出された感状がある。小幡参河守は「結城戦場記」にみえる小幡三河守の一族と思われ、小幡右衛門尉は氏行の系統の小幡氏の人物であろうと考えられている。この小幡・長野連名に出された感状から、十五世紀後半の上野において小幡氏が上州一揆の旗頭である長野氏と同列におかれるほどの勢力を有していたことが知られ、さらに、ふたつの史料から小幡氏が参河守系と右衛門尉系の二流に分かれて存在していたことも分かる。
小幡氏の嫡流とされる氏行の系統は、氏行から実高に至るまで代々右衛門尉を名乗り、さきの感状にみえる右衛門尉は嫡流系図にみえる景高と思われ、その子孫は戦国時代に入ると武田方の有力武将となる国峯城主の小幡宗家に連なる系統であろう。一方、三河守系はその後も上杉方として行動し、謙信の時代に作成された『関東幕注文』に「団の内六竹」とみえる下仁田鷹巣城主小幡三河守に続く系統であろうと考えられる。武家家伝ー小幡氏
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本丸南側土塁を西から見ています。
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本丸西虎口
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西虎口から西下曲輪を見ています。
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西下曲輪
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西下曲輪から西虎口を見上げています。
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西下曲輪から北斜面に搦め手、下丹生集落に通じています。
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西尾根を進み、堀切
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西尾根第一曲輪
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西尾根第二曲輪
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西尾根第三曲輪
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西砦虎口(現地案内では物見としていますが砦としたほうが良いと思われます。)
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御岳神社(砦本丸)
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西砦の西虎口
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西砦北斜面、第一段曲輪
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第二段曲輪
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第三段曲輪、このように守りも固く、物見ではなく砦として縄張りされています。
次回 二の丸からの北尾根
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俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より、北尾根へ
関東の戦乱
その後、関東公方足利成氏と関東管領山内上杉憲忠との対立は深刻の度を深め、ついに享徳三年(1454)、成氏が憲忠を殺害したことで「享徳の乱」が起こった。この乱は、以後、二十余年にわたって続き、関東の地を合戦の坩堝に叩き込むことになる。さらに、乱が終結をみないうちに上杉氏の内紛ともいえる「長尾景春の乱」が起きた。この間の戦場は東上野が中心となり、西上野の諸将は上杉方の主力として活躍した。
この時期の小幡氏の動向をみるうえでの史料として、細川勝元が小幡参河守にあてた書状と小幡右衛門尉・長野左衛門尉の連名で出された感状がある。小幡参河守は「結城戦場記」にみえる小幡三河守の一族と思われ、小幡右衛門尉は氏行の系統の小幡氏の人物であろうと考えられている。この小幡・長野連名に出された感状から、十五世紀後半の上野において小幡氏が上州一揆の旗頭である長野氏と同列におかれるほどの勢力を有していたことが知られ、さらに、ふたつの史料から小幡氏が参河守系と右衛門尉系の二流に分かれて存在していたことも分かる。
小幡氏の嫡流とされる氏行の系統は、氏行から実高に至るまで代々右衛門尉を名乗り、さきの感状にみえる右衛門尉は嫡流系図にみえる景高と思われ、その子孫は戦国時代に入ると武田方の有力武将となる国峯城主の小幡宗家に連なる系統であろう。一方、三河守系はその後も上杉方として行動し、謙信の時代に作成された『関東幕注文』に「団の内六竹」とみえる下仁田鷹巣城主小幡三河守に続く系統であろうと考えられる。武家家伝ー小幡氏