山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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武田氏の西上州への侵攻(下仁田町史)⑤

2016-10-29 14:58:35 | 歴史資料
碓氷峠の戦い
関東管領、上杉憲政の配下金井小源太秀景を大将とする上州軍は佐久郡の志賀城を攻めている武田軍を襲いかかろうとした。晴信は、志賀城包囲軍中から直ちに腹心板垣駿河守信形に命じて、小山田左兵衛尉信茂、栗原左衛門尉定孝、日向大和守昌時、小宮山丹後守昌友等の諸隊を引き抜いて立ち向かわせたが、まさに一騎当千の強者たちである。八月六日午後四時遭遇戦となり激戦の後、上州方は敗れて退却しはじめた。この時期の日没は午後五時ころだったと推定されるから、甲州勢は長追いできなかったのであろう。
 恐らく武田方はこの夜のうちに追分付近まで進出、翌日には碓氷峠に向かい残敵の掃討戦を行う必要があった。「関八州古戦録」に、時に上州勢の五千余騎は峠より北に備え主力は坂を打越し進みけるが、敵の押来るを見て隊伍を立て直さんと犇めくとこへ甲平鬨の声をあげて矢を射る。上州方も同じく鬨を合わせて打ってかかれば、武田勢は急にくびすを返して遠のく。上杉勢はこれを逃さ地じと追い討ち懸けた。板垣思うまま引き寄せ、手勢二百騎を一度に取って返し喚声を上げて突っ込んだ。その中に広瀬左衛門景房十七歳、仁科伝衛門形幸十九歳、真っ先に槍を入れ、広瀬は敵将藤田丹後守を討取り、仁科は師岡隼人正に槍を突けて散々突きまくった。上州勢は板垣勢に追われて峠へ引き上げて新たに陣を立て直そうとするところを板垣勢に遮二無二突き立てられたので、こらえかねて崩れ去った。この時武州の深谷内匠助小桜縅の若武者が坂の半ばで踏みとどまり、大長刀打ち振り、汚し返せと罵りながら突っかかるが、浮足立った上杉勢は大勢であるが、耳にも聞き入れず踏みとどまる者もなく、内匠助ただ一騎だけが追い来たる甲兵十四人を薙ぎ伏せて悠々と引き上げて行った。板垣はなおも追撃させようとしたが、上州勢は峠へ引取り後陣の新手を加えて一つになり備えを固めて持ち返したので、板垣はそれ以上の追撃を諦め引き返し、午の刻に勝鬨を挙げる。討取った首は千二百十九あったという。
 晴信はまだ瘧は治ってていなかったが、後の備えが十分でないので、たとえ板垣が切り勝ったとはいえ、このあと上杉勢が、どうでるかが不安もあって、病を押して出陣した。十月五日辰の刻には馬場民部少輔信房、内藤修理亮昌豊、浅利式部少輔信種、原加賀守国房、諸角豊後守昌清、山本勘介晴行、小幡山城守虎盛、原美濃守虎胤、安岡三右衛門、曽根七郎右衛門、以下総勢四千五百騎で甲府を発ち翌六日後には信州佐久郡軽井沢に着陣した。

つづく

旧中山道

旧中山道2

板垣勢が追撃戦を行った陣場原
私はここの陣場原で北の丘陵に砦を見つけております。安中市教育委員会に伝えていますが信用していないようです。

武田氏の西上州への侵攻(下仁田町史)④

2016-10-25 18:49:01 | 歴史資料
武田晴信は南牧羽沢城を拠点として甘楽郡小幡方面を治めつつ、小県郡長窪城主、大井貞隆を攻撃して捕虜にしたのが天文十二年九月の事である。さらに天文十五年五月、信州佐久市の内山城主、大井貞清は父貞隆が捕えられても内山城に立て籠もり武田に屈しなかった。武田軍は水の手を取り水脈を断って、抗戦を続けたもののついに五月二十日に至り、降伏開城した。
 信州佐久地方に境を接する西上野の高田や南牧の地衆は当然脅威を感じて警戒を強めた。高田氏は甘楽郡の西牧、小坂(甘楽郡下仁田町)菅原、高田(甘楽郡妙義町、現在富岡市)地方を領有していた高田小次郎憲頼であり、菅原に本城があった。

佐久市内山周辺地図
右へスクロールすれば下仁田市になります。
出城には高田城、筑前上の砦、八木連郷土谷津の砦、春日田城、御屋敷城、桐の木坂城、奴居出城、西牧城などがある。
 高田憲頼は平井城の関東管領である上杉憲政の出頭であるり、寵臣であった。「関東八州古戦録」では、佞臣菅野大膳亮と上原兵庫の奉行被官・側近の出頭衆であるが、武田晴信を討とうと言い出したとある。武田氏の勢力拡大に対して脅威を感じ、先手を取って武田を滅ぼせば、川越の夜戦以来の面目を保つことができ、関東管領の威光も増して、以後、北条氏康もしり込みして、この城に手を出すことがなくなるであろう。このように憲政の尻を押して無法の企てを勧めたのである。
 高田憲頼は親族である笠原新三郎清繁の立て籠もる信州佐久郡志賀城(地図で内山城の北に位置する。)へ加勢に加わった。
 倉賀野の金井小源太秀景等の主力が碓氷峠を越え、浅間山山麓の小田井原に進出し、志賀城の憲頼などに呼応して武田勢に対して布陣した。「妙法寺記」では「さるほどに、板垣駿河守、甘利備前守、横田備中守、多田野三八殿そのほか向かい、戦慣れ候。上州の人数伐り負け候いて、名大将十四五人討取り雑人三千人ばかり討取る。この首を志賀城の周りに悉く懸けさせ候。これを見て要害の人数も力を失い申し候。」

次回 碓氷峠の戦い

武田氏の上州への侵攻③

2016-10-23 20:37:33 | 歴史資料
桧平の合戦

永禄三年(1560)九月、小幡国峰城主となった小幡図書之助景定は南牧砥沢城(小幡憲重が籠る)を覆滅すべく兵を出した。小幡憲重は武田信玄の援助を請うが、信玄承諾して信州より飯富兵部虎昌、小山田備中守信義を向かわせ、自らも出馬することを約束する。使者の市川右馬介、同右近介(右馬介の甥)は喜んで羽沢城に至り、尾張守憲重に報告し、右近介は急いで砥沢城に帰り要害の戦備を整える。
 敵は三里隔てた下仁田天台宗五大常住寺に立て籠もり対陣する。尾張守憲重と信実父子、上大学など十五騎の勇士と市川右馬介・右近介などの勢力を合わせて南牧磐戸に進むが、図書之助は斥候青柳藤右衛門に五百騎の兵を加勢し砥沢に向かわせた。両軍磐戸で合し、桧平・笹窪・渡戸の間で激突し激戦となる。
 敵は一旦勝ちに乗じて進むが、味方の上大学の弟小十郎兄弟四人討死、笹渡戸(大日方笹平の地か、この大日方は南牧)の川中にて上大学と青柳藤右衛門との対決となり、太刀を合わせ勝負を決する。大学の太刀にて青柳の弓手の高腿(大腿部)を切り落とし、力余って馬の背脇へ切り込み、人馬ともに川中へ倒れたが、大学すかさず青柳の首を取る。敵方は、将を失い周章狼狽して逃散した。これを追撃し、先を争って下仁田へ進む、このために図書之助の兵は常住寺を支えることができずに退散した。
 この戦いの行賞として、信玄は書状を市川右馬介・右近介に出している。「この度の忠節につき小田切・高野町(信州佐久町)、百二十貫。蓬田・桑山(信州佐久郡浅科町)八十貫の所を右馬介に海瀬三箇(南佐久郡八千穂村)百二十貫、崎田(八千穂村)七十貫のところ、右近介に出し置き候、向後いよいよ奉公肝要に候もの也、依って件の如し、永禄三年十月六日。これらの地はみな信州佐久の地である。しかし、天正十年(1582)滝川一益が関東管領として上州厩橋に入ると、市川家の信州各地に持っていた領地は悉く没収され、わずかにその本拠の羽沢付近を残すのみとなる。


笹平には笹平城。小沢城は市川六人衆の一人小沢源十郎行重の居城でしょうか。

桧平周辺地図

つづく(一旦越後和島村 中村城への報告に戻ります。)

武田氏の西上州への侵攻(下仁田町史)②

2016-10-22 21:34:16 | 歴史資料
西上州では小幡氏が一番歴史的にも、小説においても脚光を浴びてきた一族であり、研究書も多くあります。これに対し市川氏は研究資料も少なく謎が多い一族です。まず第一の謎はいつ、どのようにして武田氏と手を結び従属してきたのか、これが全くわかっていない。推測ではおそらく、武田信玄が西上州へ侵攻の標準を定めたときに、小幡氏への調略を始める前に、市川氏へ誘いの手を先に進めていたのであろう、くらいのことしか想像できない。いずれにしても、小幡憲重(重貞)が国峰城から追放された時に、武田氏が佐久の大日方に所領を与え、さらに侵攻の先方衆として、南牧の市川氏に命じて羽沢城を拠点とさせたことは事実であるらしい。

市川氏系図

満義ー満久ー真重ー清信ー信保ー真保ー真乗ー久乗ー久光
                           ┃
                           ┃真治ー真貞ー真久
                           ┃
                           ┃真好ー真成ー真令
市川本家の砥沢城主右近介真乗は(まさのり)天文五年(1536)二十五歳で没するが、嫡子久乗は五才であり、幼少のため叔父の羽沢城主右馬介真治が後見人となる。右馬助は天正十六年(1588)七十三歳でなくなる。因みに当時の南牧六人衆は、市川四郎兵衛貞吉、市川四郎衛門重久、市川兵庫助景吉、高橋左近助重行、小沢源十郎行重、懸珂彦八郎直重である。
 また、小幡憲重父子」に「信州小日向というところに五千貫の所領を与え」とあるが、南牧に近い佐久地方には「小日向」という地域がなく、恐らく「大日方」の誤りであろう。甲陽軍鑑品第州二に「信玄公を頼奉する故、則、信玄公御抱なされ信州大日方と云うところ、五千貫の所領を堪忍分とありて、小幡尾張守に被下事」とあり、南牧から矢沢峠と大上峠を越えると、信州佐久町の「大日方」に出る。

大日方地図
右へスクロールすれば大上峠があります。
現在佐久町は佐久穂町となっています。この大日方に「勝見城」があります。この城が小幡憲重が居城していたとされる山城です。老婆心ながら佐久地方は熊が生息しています。必ず登城の際は熊と出会わぬために熊ベルを携帯してください。冬眠前ですから危険です。

次回 桧平の合戦

                                                          

武田氏の西上州への侵攻(下仁田町史)

2016-10-21 21:18:46 | 歴史資料
国峰城主小幡憲重父子、武田晴信を頼る

「箕輪軍記」によると、「南上州国峰の城には小幡憲重(重貞)千騎にて立て籠もり、上杉第二の家臣にて忠功のもの成れど、図書之助と不和になり、しかも折々信玄の下へ参るのを見て、長野業政も小幡宗家憲重を疎んじていた。天文二十二年憲重(重貞)は草津へ入湯せし留守を窺い、国峰の城を攻め取りて憲重を国に入れず、宇田城主の図書之助(一説には弟される。)を以って国峰の城主となす。」おそらく長野業政(箕輪城主、西上州の実質的な支配者)が越後の長尾景虎と相談して仕掛けたものと言われている。
 よんどころなく憲重は妻子を引率して甲州に参り、武田晴信にこの由を申し上げ、晴信のもとに帰順を願う。晴信之を聞かれ、もとから我が麾下にせんと欲していたが、これこそ幸いなりと喜びになり、それより信州小日向(大日方)というところに五千貫の所領を与え、同九月には、信州と上州の境の南北に砦を築き、憲重父子を入れた。
 この時に築かれたのは甘楽郡南牧村羽沢の砥沢の城であるが、これを砥沢の砦といい、晴信は市川氏らの南牧地衆を憲重父子に付した。
 甘楽郡南牧村砥沢に二つの城がある。一つは砥沢城といい、市川右近介の城であり、もう一つの城は小幡憲重父子のために信玄が築いたと伝えられている。いずれも砥沢城ということから紛らわしいので、両者を区別するため憲重を入れた羽沢の砥沢の城を砥沢の砦と呼ぶとある。
 諸書はこのように述べているが、これには問題がある。南牧村砥沢の砥沢城は市川氏の本家の右近介久乗の居城であり、砥沢城の出城である羽沢の羽沢城は叔父の右馬助真治の居城である。以上のことを信ずれば砥沢付近には三城が存在することになるが実際は右近介の砥沢城と、出城である叔父の右馬助の羽沢城の二城だけである。このことから武田晴信が、わざわざ小幡憲重・信実父子のために南牧の羽沢の砥沢の城を新たに築城したものでなく、おそらく、右馬介の居城である羽沢城へ入れたものであろう。

砥沢には二城と語っていますが、三城あります。
羽沢城砥沢城城の腰(砥沢城と道を挟んだ山にあります。)しかし、既述のように南牧村は古くから市川氏が支配していて、三城とも市川氏の一族が押さえていたであろうことは町史の結論には賛同します。font>

市川氏について
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/ichikawa2.htm
掲示板引用

市川氏本家が代々神主を務めてきた甲斐市川の表門神社は式内社で、社伝では孝霊天皇二年の創建が伝わります。白河天皇の御宇・永保元年(1081)、白河天皇が御病悩の時、典薬が医術を尽くしたが一向によくならなかった。たまたま上洛していた当神社の神主が洛中で占いの名声があったので、御所に召し出され、神主が祈念したところ、天皇の御病悩が平癒した。これにより市川庄を神領に賜り、これにより市川明神と称し、また、空海筆の文殊画像を下賜されたので、市川文殊とも称した。という由緒があります。
  私は以上の由緒に鑑み、白河天皇が表門神社に市川庄を寄進して同神社神主家が実質的な市川庄の領主になった時点で、表門神社神主家が市川氏を称し、甲斐市川氏が成立したとみております。『新編武蔵風土記稿』にあるとおり、武蔵国比企郡田中村の市川家には系図が伝えられ、新羅三郎源義光の子息覚義を始祖とする系を伝えております。この系図の裏には「甲斐源氏市川家の系図被見の處、表出の由惣て相違之れ無し仍て件の如し 印 天文十二年卯三月 左京太夫信虎 印  飯富兵部少輔承之 花押」とあり、これは東大史料編纂所により裏書き・印・花押はすべて本物と鑑定されているので、当系図は天文十二年以前の成立であることが分かり、甲斐守護職の武田氏も、武蔵国比企郡の市川氏のこの系図を認めているので、覚義以後の系図の内容は信用してよいと考えます。
  武蔵国比企郡の市川氏の系図を参照しますと、覚義は甲斐国市川庄に来ていることになりますが、これは、兄刑部三郎義清が子息清光とともに甲斐市川庄に配流されたことと関係があると思います。覚義が甲斐市川庄に来た時、覚義が表門神社の市川氏の婿となり、覚義も市川別当を称したのでしょう。覚光は市川氏女と覚義との間の子と思われます。
  一方、比企郡市川氏の系図によれば、覚義は秩父次郎太夫重澄(註:重隆の誤記)の婿とあります。おそらく次男倶義は秩父重澄の女との間にもうけた子と思われます。覚義が秩父氏とも姻戚関係にあったので、市川氏が武蔵国に進出することになったと考えます。そのことは、『曽我物語』“十番ぎりの事”に五郎が甲斐の市川党の別当太夫の次男、別当二郎定光に「わ殿は盗人よ、御坂・かた山・都留・坂東にこもりいて…」とあって、甲斐市川氏の勢力範囲が坂東、つまり具体的には武蔵国比企郡(倶義系市川氏)に及んでいたことを傍証しております。ですから、武蔵国比企郡の市川氏に関しては、甲斐市川氏の出自とみて間違い無いと私は考えます。
  さて、甲斐国の市川氏は覚義-覚光とつづきますが、次の行房は表門神社の市川氏女と刑部三郎義清との間の子で、はじめ清房と号し、市川氏をついで行房と号しました。この人が、『吾妻鏡』に出てくる市川別当行房です。行房が義清の子息であることは、一蓮寺または恵林寺蔵の武田氏の系図にありますので信用してよいと考えます。
  行房の子息は三人で、嫡男行重の系は「行重-行政-行照-行宗-行氏…」と続き、この系統が表門神社の神主家の筋です。行房の次男は曽我物語に出てきた別当次郎定光で、「定光-祐光-高光(掃部允)」で、この系統が信州の市川氏になっていった模様です。行房の三男は定房で伊勢村松に住し、子孫は村松氏を称しました。
  以上が、管見の史資料から伺える甲斐市川氏の系譜のあらましです。
  倶義系の市川氏からさらに上州市川氏(新田家臣祖裔記に見える新田義興の家臣市川五郎の長男太郎光重・次男藤次郎・三男藤三の系統、長男光重は世良田政義に属して信州浪合にて戦死しており、光重の子孫は現在の愛知県に流れた模様です。次男と三男は上州広沢に居住し、次男はさらに同国砥沢に転居して南牧市川氏の祖となり、その後また次男は黒川に転居し、子孫は武州半沢郡の民家に下りました)が分岐しました。