本丸から北城へ
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本丸南下第一腰曲輪
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第一腰曲輪に立って見ています。
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本丸東下腰曲輪
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本丸東城壁
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本丸下帯曲輪
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帯曲輪を北に廻り、本丸北城壁を見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/08/4e223ee69f4609223b41c0ece7021973.jpg)
本丸、残念ながら草に覆われています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/1b/d450d0ec3bd9dfa5ee2163e219b06bb4.jpg)
北尾根第一堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/07/29c77c19389ba7b8fc66f9dc5e1f8b9a.jpg)
第二堀切の二重堀です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/0e/e7b078816bf160021f8d5bcf0709e434.jpg)
北城の三段の曲輪、北側下
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/c0/1ceea780d477fc6a171e8ad56b5f5514.jpg)
北側城壁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/19/9bd34b70f35d742d68c33a5a887a8a9e.jpg)
三段の一番下の曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/67/8cbf9f121c943a4a9dc1891fae654f84.jpg)
縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より
父は上野小幡氏の小幡憲重(重貞、重定)。(ただし、重貞と名乗ったのは信貞とも、信真や信定は信貞の子の名ともいわれ、はっきりしない)。尾張守、上総介を称す。上野国峯城城主。『甲陽軍鑑』によれば憲重と併せて500騎持ちで、これは武田家中でも最大である。
小幡氏は元々上野の国人であった。上杉憲政を関東管領に擁立に貢献するなど、長野氏と並ぶ有力な存在であったが、後に憲政と対立すると離反して武田晴信(信玄)仕え、後北条氏の上野進出後も両属の関係を続けた。天文22年(1553年)、憲重は息子を連れて信濃国塩田城にいた武田晴信に出仕し、間もなく息子は元服して「信」の字を与えられ「信真」と称した[1]。
信貞も父と共に信玄に仕えて、上野攻略戦を始め、三増峠の戦いや三方ヶ原の戦い等の主要な合戦に参加して武功を挙げている。
なお信貞の小幡氏は、小畠虎盛(小幡)・昌盛・景憲などの甲州小幡氏とは別系統である(甲州小幡氏は武田信玄の命で改姓して「小幡」姓となった)[2]。
1575年、長篠の戦いで父が戦死したため、家督を継いだとされる異説もある。『甲陽軍鑑』中に「信用できない木曾義昌の代わりに(織田領との国境である)木曾に小幡を入れたらどうか」という意の記述があり、『甲陽軍鑑』の信憑性はともかくとして、準譜代的な扱いを受けていた様である。
天正10年(1582年)武田氏が織田信長によって滅ぼされると、家老・森平策之進の献言を容れて、信長軍に降伏。滝川一益の与力として配属させられた。しかし、同年に信長が本能寺の変で横死、それを受け北条氏直が滝川一益を神流川の戦いで破り織田氏の勢力を上野から駆逐したため、信貞は氏直に降伏して北条氏の家臣となった。実子はなく、1585年に養嗣子(弟・信高の子)に家督を譲って隠居身分となる。
1590年の小田原征伐では小田原城に籠城したが、北条氏が敗北すると、真田幸綱の流浪時代から武田氏時代を通じて親交の深かった真田氏(当時の当主は昌幸で勝頼時代は上野方面攻略の責任者)を頼り、そこで余生を送った。1592年に死去。享年52。
一説では、父の憲重は大永年間に死去し、父の憲重の事績とされる事柄は信貞のことだとも言われている。また、赤備えの部隊を率いた勇猛果敢な武将であり、信長公記中の長篠合戦の項に小幡勢について「馬上巧者」の記述がある。武田二十四将の一人として数えられる。長篠の戦いで戦死したともいわれることがあるが、戦死したのは信貞の弟とされている。
真田氏を頼ったというのを裏付けるのが、真田氏の所領、別府温泉の近くに安楽寺があり、この寺の中に信貞とされる墓があります。
武田信勝(勝頼嫡子)の下仁田伝説(信勝に隋身した土屋山城守高久伝説)
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本丸南下第一腰曲輪
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第一腰曲輪に立って見ています。
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本丸東下腰曲輪
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本丸東城壁
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本丸下帯曲輪
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帯曲輪を北に廻り、本丸北城壁を見ています。
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本丸、残念ながら草に覆われています。
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北尾根第一堀切
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第二堀切の二重堀です。
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北城の三段の曲輪、北側下
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北側城壁
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三段の一番下の曲輪
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縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より
父は上野小幡氏の小幡憲重(重貞、重定)。(ただし、重貞と名乗ったのは信貞とも、信真や信定は信貞の子の名ともいわれ、はっきりしない)。尾張守、上総介を称す。上野国峯城城主。『甲陽軍鑑』によれば憲重と併せて500騎持ちで、これは武田家中でも最大である。
小幡氏は元々上野の国人であった。上杉憲政を関東管領に擁立に貢献するなど、長野氏と並ぶ有力な存在であったが、後に憲政と対立すると離反して武田晴信(信玄)仕え、後北条氏の上野進出後も両属の関係を続けた。天文22年(1553年)、憲重は息子を連れて信濃国塩田城にいた武田晴信に出仕し、間もなく息子は元服して「信」の字を与えられ「信真」と称した[1]。
信貞も父と共に信玄に仕えて、上野攻略戦を始め、三増峠の戦いや三方ヶ原の戦い等の主要な合戦に参加して武功を挙げている。
なお信貞の小幡氏は、小畠虎盛(小幡)・昌盛・景憲などの甲州小幡氏とは別系統である(甲州小幡氏は武田信玄の命で改姓して「小幡」姓となった)[2]。
1575年、長篠の戦いで父が戦死したため、家督を継いだとされる異説もある。『甲陽軍鑑』中に「信用できない木曾義昌の代わりに(織田領との国境である)木曾に小幡を入れたらどうか」という意の記述があり、『甲陽軍鑑』の信憑性はともかくとして、準譜代的な扱いを受けていた様である。
天正10年(1582年)武田氏が織田信長によって滅ぼされると、家老・森平策之進の献言を容れて、信長軍に降伏。滝川一益の与力として配属させられた。しかし、同年に信長が本能寺の変で横死、それを受け北条氏直が滝川一益を神流川の戦いで破り織田氏の勢力を上野から駆逐したため、信貞は氏直に降伏して北条氏の家臣となった。実子はなく、1585年に養嗣子(弟・信高の子)に家督を譲って隠居身分となる。
1590年の小田原征伐では小田原城に籠城したが、北条氏が敗北すると、真田幸綱の流浪時代から武田氏時代を通じて親交の深かった真田氏(当時の当主は昌幸で勝頼時代は上野方面攻略の責任者)を頼り、そこで余生を送った。1592年に死去。享年52。
一説では、父の憲重は大永年間に死去し、父の憲重の事績とされる事柄は信貞のことだとも言われている。また、赤備えの部隊を率いた勇猛果敢な武将であり、信長公記中の長篠合戦の項に小幡勢について「馬上巧者」の記述がある。武田二十四将の一人として数えられる。長篠の戦いで戦死したともいわれることがあるが、戦死したのは信貞の弟とされている。
真田氏を頼ったというのを裏付けるのが、真田氏の所領、別府温泉の近くに安楽寺があり、この寺の中に信貞とされる墓があります。
武田信勝(勝頼嫡子)の下仁田伝説(信勝に隋身した土屋山城守高久伝説)