新府城から逃避行の遺跡を紹介します。
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小山田信茂の献策により、小山田氏の本城、岩殿城を目指しましたが、信茂の裏切りにより笹子峠から東に進めず、甲州街道(県道212号線)を戻り、大菩薩峠を抜けようとしたのか、県道218号線(大菩薩初鹿野線)で大和町木賊にある栖雲寺を目指したようです。
景徳院地図
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景徳院
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勝頼・北条夫人・信勝が自害した地
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景徳院の西にある市営駐車場から100mほど西に鳥居畑古戦場の碑があります。織田の先鋒滝川一益の四千の敵勢をここで迎え撃ったそうです。
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しろうつくり、鳥居畑古戦場から100m西にある四郎作古戦場、讒言によって勝頼の勘気に触れて幽閉されていた小宮山内膳が、窮地に立った勝頼の陣に馳せ参じ「お供をと」願い出て勝頼は涙したという。この小宮山内膳が織田軍と死闘を演じた地であるという。
景徳寺の石段を登ってゆくと
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勝頼、北条夫人・信勝の慰霊碑
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お堂の前に
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境内に三名の生害石
次回 栖雲寺
景徳院について
天正10年(1582年)3月、甲斐国国主・武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍の侵攻により、甲府から移転した本拠であった新府城(韮崎市中田町中條)を放棄し、郡内領主・小山田信茂を頼り落ちのびるが、途中で信茂は離反し、天目山において滅亡した。
同年6月、本能寺の変により発生した天正壬午の乱を経て甲斐は三河国の徳川家康が領する。天正壬午の乱において武田遺臣の一部は家康に臣従し、同年7月に勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、田野郷一円を寺領として寄進し、景徳院を創建した。
広厳院(笛吹市)から武田家臣・小宮山内膳の弟である7世拈橋チョウ(人偏+長)因を招き、天正16年(1589年)には伽藍が完成した(『国志』、「景徳院文書」による)。家康はこの他にも武田遺臣を保護しているが、無主となり緊張状態にあった甲斐国における領民懐柔政策でもあったとも指摘される。ウィキペディアより
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小山田信茂の献策により、小山田氏の本城、岩殿城を目指しましたが、信茂の裏切りにより笹子峠から東に進めず、甲州街道(県道212号線)を戻り、大菩薩峠を抜けようとしたのか、県道218号線(大菩薩初鹿野線)で大和町木賊にある栖雲寺を目指したようです。
景徳院地図
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景徳院
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勝頼・北条夫人・信勝が自害した地
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景徳院の西にある市営駐車場から100mほど西に鳥居畑古戦場の碑があります。織田の先鋒滝川一益の四千の敵勢をここで迎え撃ったそうです。
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しろうつくり、鳥居畑古戦場から100m西にある四郎作古戦場、讒言によって勝頼の勘気に触れて幽閉されていた小宮山内膳が、窮地に立った勝頼の陣に馳せ参じ「お供をと」願い出て勝頼は涙したという。この小宮山内膳が織田軍と死闘を演じた地であるという。
景徳寺の石段を登ってゆくと
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勝頼、北条夫人・信勝の慰霊碑
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お堂の前に
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境内に三名の生害石
次回 栖雲寺
景徳院について
天正10年(1582年)3月、甲斐国国主・武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍の侵攻により、甲府から移転した本拠であった新府城(韮崎市中田町中條)を放棄し、郡内領主・小山田信茂を頼り落ちのびるが、途中で信茂は離反し、天目山において滅亡した。
同年6月、本能寺の変により発生した天正壬午の乱を経て甲斐は三河国の徳川家康が領する。天正壬午の乱において武田遺臣の一部は家康に臣従し、同年7月に勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、田野郷一円を寺領として寄進し、景徳院を創建した。
広厳院(笛吹市)から武田家臣・小宮山内膳の弟である7世拈橋チョウ(人偏+長)因を招き、天正16年(1589年)には伽藍が完成した(『国志』、「景徳院文書」による)。家康はこの他にも武田遺臣を保護しているが、無主となり緊張状態にあった甲斐国における領民懐柔政策でもあったとも指摘される。ウィキペディアより