深草館跡は山梨県北杜市長坂町大八田にあります。
深草館跡地図
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/26/7857c79c1f289dbfd3b3f5a128d27aea.jpg)
長坂ICから地方道32号線の長坂IC東の信号を北に1.5kmくらいで左折し金生遺蹟を目指し、その遺跡から南に250mほどに深草館跡があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/37/86390b3917bae1bd4b1f6b34a2f2b445.jpg)
この館跡から南に100mほどに案内板があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/27/0b97d5db3993dc8d77048f0ff96ca226.jpg)
北の田んぼの畦道から沢(堀と思います。)を渡って入ります。
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本丸西虎口
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本丸、西側土塁
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北側の堀
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西虎口を内側から見ています。
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本丸東側土塁
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本丸南側土塁、やや中央に二の丸への南虎口
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南虎口
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二の丸、西・東に土塁
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東側の堀
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/a4/ee3ab4930d14f43194bf99eb021ade83.jpg)
俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より
『甲斐国志』によると、深草城は、源清光の家臣堀内氏の居館であったという。となると谷戸城の出城のようなものであったのだろう。 また、同書によると「堀内下総守の子主税助の時、城陥り落魄せし」とある。「余湖くんのお城のページ」記事より
北杜市HP
深草館跡は、長坂町大八田の南新居集落の北側にある中世の館跡です。北、東、南の三方を掘り切って台地から切り放し、西側は西衣川を堀として利用していて、堀の内側には高さ1~2メートルの土塁が巡っています。大きさは東西約50メートル・南北約130メートルで、現在は南北二つの郭ですが、かつては南郭をさらに分ける土塁がありました。
この館跡は谷戸城に対する居館とも逸見清光の嫡男光長の居館とも伝えられています。『甲斐国志』には、戦国末期の人物である堀内下総守の居館でしたがその子主税助のとき疲弊したとあります。館の外郭部にあたる北東側台地では発掘調査が行われ、15世紀から17世紀にかけての遺構・遺物が発見されました。
深草館跡は遺構の保存状態が良く、中世の館の姿を今日に伝えています。また、周辺には国史跡谷戸城跡や大量の古銭が出土した小和田遺跡といった中世の遺跡が数多くあり、中世史研究の上でも重要な史跡です。
深草館跡地図
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長坂ICから地方道32号線の長坂IC東の信号を北に1.5kmくらいで左折し金生遺蹟を目指し、その遺跡から南に250mほどに深草館跡があります。
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この館跡から南に100mほどに案内板があります。
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北の田んぼの畦道から沢(堀と思います。)を渡って入ります。
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本丸西虎口
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本丸、西側土塁
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北側の堀
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西虎口を内側から見ています。
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本丸東側土塁
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本丸南側土塁、やや中央に二の丸への南虎口
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南虎口
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二の丸、西・東に土塁
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東側の堀
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俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より
『甲斐国志』によると、深草城は、源清光の家臣堀内氏の居館であったという。となると谷戸城の出城のようなものであったのだろう。 また、同書によると「堀内下総守の子主税助の時、城陥り落魄せし」とある。「余湖くんのお城のページ」記事より
北杜市HP
深草館跡は、長坂町大八田の南新居集落の北側にある中世の館跡です。北、東、南の三方を掘り切って台地から切り放し、西側は西衣川を堀として利用していて、堀の内側には高さ1~2メートルの土塁が巡っています。大きさは東西約50メートル・南北約130メートルで、現在は南北二つの郭ですが、かつては南郭をさらに分ける土塁がありました。
この館跡は谷戸城に対する居館とも逸見清光の嫡男光長の居館とも伝えられています。『甲斐国志』には、戦国末期の人物である堀内下総守の居館でしたがその子主税助のとき疲弊したとあります。館の外郭部にあたる北東側台地では発掘調査が行われ、15世紀から17世紀にかけての遺構・遺物が発見されました。
深草館跡は遺構の保存状態が良く、中世の館の姿を今日に伝えています。また、周辺には国史跡谷戸城跡や大量の古銭が出土した小和田遺跡といった中世の遺跡が数多くあり、中世史研究の上でも重要な史跡です。