西平城は群馬県富岡市野上にあります。
西平城地図
国道254号線、駅前の信号を南に600mくらいで二又を左手、県道192号線を進みます。バス停大島入り口を右折して市道に入ります。道なりに大島鉱泉をめざし、温泉施設の建物の前の道を西に進み、上信越道の高架をくぐり、右手100mほどに登り口があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/a9/86a98d483a1d8c8fc3d65d5d7ff18a4a.jpg)
大島鉱泉、奥に見えるとんがった山が城山です。建物手前の道を西に進みます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/3a/bcd854e0e3f75692cfc00053f184ad7a.jpg)
上信越道高架(富岡市8)のトンネルをくぐり、右手に進むとこの登り道があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/be/15d1ce6b04cbc09d43a60ceeb8a37ce0.jpg)
俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より。登り道に入ってすぐに、曲輪6・7がありますが、草深く写真になりません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/dd/57dca2af848efe3db9caae3376597afc.jpg)
北尾根を登ってゆくと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/f4/245bdba9703435b93b785a1ede5bf0b4.jpg)
北尾根第一腰曲輪城壁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/52/e63524c6052a57035eaca717d46f1066.jpg)
北尾根第一腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/36/dae46de087059795fef690b21b068382.jpg)
北尾根第二腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/39/39efce7e62184970721f59deed620d13.jpg)
北尾根第三腰曲輪・第四腰曲輪(よく見ると二段になっています。)俯瞰図では曲輪Cから、二つ目の曲輪を指しています。この曲輪が防御の要で、東側斜面に三段の帯曲輪に通じています。
以降は次回とします。
西平城の歴史は分かっていませんが、藤田城に藤田弾正という地方豪族が岩染、野上・南後箇の地域を支配していたようです。山崎一氏は西平城も藤田地域城として捉えています。
藤田城地図
藤田氏について
凸藤田氏の伝承を持つ山城
標高631.4mの山頂部と、東側の削平地(主郭)などから構成される小規模な山城で、藤田峠方面を監視する役割を担っていたものと推定されます。「上野志」によれば、藤田弾正が居城とし、その子孫(※藤田信吉の子孫を指すか)は加賀に居したとも記されています。しかし、藤田氏の居城とするには烽火台や物見台規模の小規模な城郭遺構であることから疑問が呈されます。
山崎一氏が編纂した「上毛古城塁址一覧」あるいは「日本城郭全集 3」になどの資料によりますと、戦国期に武蔵西北部から西上州らかけて勢力のあった藤田氏の一連の城郭のひとつと推定されていますが、この地域に勢力のあった小幡氏との相互関係を含めてその実態については不明な部分が多いものと考えられます。
※藤田能登守信吉(1558-1616)は武蔵天神山城主藤田氏一族の用土業国の子とされ、別名を用土新左衛門尉ともいわれ、北条氏邦の支配下では沼田城主を務めたが、天正8年に沼田城とともにそのまま甲斐武田氏に服属した。天正10年の武田氏滅亡後には、越後上杉氏に仕え後北条氏攻略に戦功をあげた。
その後慶長5年の関ヶ原合戦では上杉家から出奔し、徳川家康に仕官し下野西方1万5千石を領するに至ったが、元和元年の大坂夏の陣での失態を理由に改易となり翌年に病没したとされている。(「戦国人名辞典」2006/吉川弘文館より引用した)「城跡ほっつき歩記」記事より
西平城地図
国道254号線、駅前の信号を南に600mくらいで二又を左手、県道192号線を進みます。バス停大島入り口を右折して市道に入ります。道なりに大島鉱泉をめざし、温泉施設の建物の前の道を西に進み、上信越道の高架をくぐり、右手100mほどに登り口があります。
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大島鉱泉、奥に見えるとんがった山が城山です。建物手前の道を西に進みます。
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上信越道高架(富岡市8)のトンネルをくぐり、右手に進むとこの登り道があります。
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俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より。登り道に入ってすぐに、曲輪6・7がありますが、草深く写真になりません。
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北尾根を登ってゆくと
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北尾根第一腰曲輪城壁
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北尾根第一腰曲輪
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北尾根第二腰曲輪
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北尾根第三腰曲輪・第四腰曲輪(よく見ると二段になっています。)俯瞰図では曲輪Cから、二つ目の曲輪を指しています。この曲輪が防御の要で、東側斜面に三段の帯曲輪に通じています。
以降は次回とします。
西平城の歴史は分かっていませんが、藤田城に藤田弾正という地方豪族が岩染、野上・南後箇の地域を支配していたようです。山崎一氏は西平城も藤田地域城として捉えています。
藤田城地図
藤田氏について
凸藤田氏の伝承を持つ山城
標高631.4mの山頂部と、東側の削平地(主郭)などから構成される小規模な山城で、藤田峠方面を監視する役割を担っていたものと推定されます。「上野志」によれば、藤田弾正が居城とし、その子孫(※藤田信吉の子孫を指すか)は加賀に居したとも記されています。しかし、藤田氏の居城とするには烽火台や物見台規模の小規模な城郭遺構であることから疑問が呈されます。
山崎一氏が編纂した「上毛古城塁址一覧」あるいは「日本城郭全集 3」になどの資料によりますと、戦国期に武蔵西北部から西上州らかけて勢力のあった藤田氏の一連の城郭のひとつと推定されていますが、この地域に勢力のあった小幡氏との相互関係を含めてその実態については不明な部分が多いものと考えられます。
※藤田能登守信吉(1558-1616)は武蔵天神山城主藤田氏一族の用土業国の子とされ、別名を用土新左衛門尉ともいわれ、北条氏邦の支配下では沼田城主を務めたが、天正8年に沼田城とともにそのまま甲斐武田氏に服属した。天正10年の武田氏滅亡後には、越後上杉氏に仕え後北条氏攻略に戦功をあげた。
その後慶長5年の関ヶ原合戦では上杉家から出奔し、徳川家康に仕官し下野西方1万5千石を領するに至ったが、元和元年の大坂夏の陣での失態を理由に改易となり翌年に病没したとされている。(「戦国人名辞典」2006/吉川弘文館より引用した)「城跡ほっつき歩記」記事より