山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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神成城

2018-06-22 21:27:15 | 山城ー上州
神成城は群馬県富岡市宮崎にあります。

神成城地図

国道254号線で信号駅前(一ノ宮駅)から西に県道209号線に入り、バス停の宮崎入り口の信号の二又を左手に進み(西中入口の案内があり)700mくらいで突き当り、左折します。宮崎公園の道を進まず、手前を右折すると乗願寺(小幡氏の菩提寺でしたが、徳川時代になって水野氏に代わったそうです。)を過ぎて200mくらいで西中に着きます。校舎手前を右折しハイキング道入り口があります。

数年前は主曲輪すべて笹薮でしたが、地元史跡保存会の手で整備され曲輪は見事に生まれ変わっています。笹薮の状態しか見ていなかった方はこの時期に是非、ご覧になってください。


乗願寺、住職は郷土史家でもあり、話をしていただきました。

グランド横にある宮崎城案内

この案内から右手を進み、校舎裏になります。

学校敷地を過ぎるとすぐに虎口、右上が大手曲輪

大手曲輪、東・西に空堀あり

石碑を右手に進み

土橋

土橋から、この尾根を登ると






見張台から南景色、国道254号線が走り、姫街道と呼ばれ内山峠を越えれば佐久市へ

第一堀切、南は神成集落へ下り、北は一ノ宮集落

堀切を見返しています。

この上が東曲輪(仮に)

東曲輪の西側に土塁

東曲輪から北へ向かい石門


俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より、東曲輪としたのが、俯瞰図ではAとされています。

小幡 憲重(おばた のりしげ、永正14年(1517年?) - 没年不詳)は、戦国時代の武将。上野国甘楽郡小幡郷の国衆。小幡顕高の子。小幡信貞(信実)の父。別名重貞、重定ともされる。信竜斎全賢。妻は長野業正の娘(妹とも)。子に信貞・信重がいる[1]。娘は甲斐武田氏の親族衆・武田信豊の妻[2]。憲重の孫である信氏の室を武田信豊娘とする系図もある[3]。尾張守。国峯城城主。
略歴[編集]
小幡氏は上野国衆で関東管領の山内上杉家に仕えていたが、山内上杉家が相模国の後北条氏との抗争で衰退すると長野氏との関係が悪化し、さらに一族の内紛が勃発する。憲重は天文17年(1548年)10月に山内上杉氏から離反し、後北条氏に通じる。
山内上杉氏は天文21年3月に後北条氏の侵攻により本拠平井城・上野から没落し越後長尾氏を頼る。憲重はこうした状況のなかで後北条氏に従属していたが、天文18年(1549年)頃には甲斐国の武田氏に帰属先を変えたとされ、『高白斎記』に拠れば天文22年(1552年)には嫡子信実を伴い信濃塩田城に在陣する武田晴信(信玄)と対面している。憲重は後北条氏・武田氏に両属する立場であったと考えられている[4]。天文23年(1554年)からは憲重の発給文書が見られる。
その後、武田氏は後北条氏は同盟してそれぞれ北信と北関東において上杉氏と対決するようになり、こうした中で永禄3年(1560年)8月末には上杉憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)が本格的な関東侵攻を行い、憲重は本拠国峰城を攻略される。翌永禄4年以降に武田氏は西上野侵攻を行い、憲重も反乱した一族を追放し国峰城を奪還し、旧領復帰に成功した。武田家中における西上野先方衆の一人として武田氏に仕え、川中島の戦いにも参戦した。
最後は1575年、長篠の戦いに参加し戦死したとされることが多いが、はっきりとしたことは分かっていない[5]。
ただし、以上の事績は子の信貞のもので憲重自身はそれ以前に没していたとも、憲重と重貞とは別人であり、憲重と信貞は祖父と孫の関係とも言われる。その一方で、憲定は山内上杉家に仕えていた当時の名(“憲”は上杉憲政の一字)で、同家を離反後に決別を示すために重定に改名したとも考えられる。

神成城の北側麓に永隣寺があります。憲重の次男信重が菩提寺として建てたそうです