宇田城は群馬県富岡市宇田にあります。
宇田城地図
国道254号線の信号一ノ宮から西に地方道47号線に入り、信号宇田の300m先の市道を右折して、神守寺を目指します。寺の手前の石碑が並んでいる左脇道から登ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/19/1fb3bda96af259548c4a2686a7d3abf8.jpg)
神守寺、城壁のようであり、「境目の山城と館」宮坂武男氏はここを宇田西城としています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/6d/2928cd4143e804271a3537ffe3ae03e2.jpg)
神守寺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/30/5219c3eecaa5042ad8d4b8e90571c9d3.jpg)
東50mくらいに石碑が並んでいて、ここから登ってゆきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/01/bf51dd515084487a22ec83fe17d5d9a4.jpg)
城山遠景
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/1f/08836a840f06e3a35fd17fe112478518.jpg)
登っていきなり土橋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/1b/9f9a4fa5bc82c9b5a9cf92c957dd5f18.jpg)
南虎口(かつて登った時には南側から登らなかったため、こちらの遺構を見逃していました。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/4b/b10fefd853ec9311e3d053dac13053f1.jpg)
虎口の南側を見返しています。大手曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/1b/bfdfc187210ad7d42b88f53b6069e2d2.jpg)
土塁が構築され
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/88/f3bd59f2e419ab19b846c3e8b0de5264.jpg)
第一曲輪(抉っています。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/53/5af125c249912bca46b426fb68620e9c.jpg)
一段高く、通路であり東に誘導して
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/81/9241ac6fe83c5857e89ad7a92516f3d3.jpg)
東段曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/d6/c6d13466e01fec7fd1350f4812ac4afb.jpg)
抉れた曲輪の西上に第二曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/ce/e248365a30a7b4857d1592a04653f818.jpg)
また城壁が築かれて三の丸に向かっていますが次回とします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/67/8cbf9f121c943a4a9dc1891fae654f84.jpg)
俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より、神守寺から南曲輪群を歩き三の丸に向かっています。
宇田城主は箕輪軍記など戦記物では、小幡図書之助(小幡景純)とされています。
小幡景純【おばたかげすみ(15??~1561)】
小幡憲重家臣。官途は図書助。室は長野業政の娘。1560年、小幡憲重が武田晴信に属すると箕輪城主長野業政は小幡憲重を追放させ、小幡景純を国峰城主に任じた。小幡憲重と小幡信貞は武田晴信を頼って甲斐国に落延びた。1561年、小幡憲重は武田晴信の支援を受け国峰城を奪還、小幡景純は討死した。
小幡信尚【おばたのぶなお(15??~15??)】
小幡信貞家臣。甘楽郡鷹巣城主。官途は三河守。1560年、小幡景純とともに小幡憲重の国峰城を奪った。1561年、小幡憲重の攻撃を受け降伏した。1566年、小幡兼行、小幡具隆らとともに武田晴信以外に属さないことを記した起請文を提出して忠節を誓った。1570年、北条氏政勢の御獄城主平沢政実の調略を受けて、武田晴信から離叛して北条氏政に属した。
小幡兼行【おばたかねゆき(15??~15??)】
小幡信尚家臣。通称左衛門大夫。1566年、小幡信尚、小幡具隆らとともに武田晴信以外に属さないことを記した起請文を提出して忠節を誓った。
小幡具隆【おばたがよしたか(15??~15??)】
小幡信尚家臣。通称彦太郎。1566年、小幡信尚、小幡兼行らとともに武田晴信以外に属さないことを記した起請文を提出して忠節を誓った。
「戦国武将録 上野国」
小幡景純は憲重の嫡男信貞の弟という説もあります。
宇田城地図
国道254号線の信号一ノ宮から西に地方道47号線に入り、信号宇田の300m先の市道を右折して、神守寺を目指します。寺の手前の石碑が並んでいる左脇道から登ります。
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神守寺、城壁のようであり、「境目の山城と館」宮坂武男氏はここを宇田西城としています。
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神守寺
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東50mくらいに石碑が並んでいて、ここから登ってゆきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/01/bf51dd515084487a22ec83fe17d5d9a4.jpg)
城山遠景
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登っていきなり土橋
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南虎口(かつて登った時には南側から登らなかったため、こちらの遺構を見逃していました。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/4b/b10fefd853ec9311e3d053dac13053f1.jpg)
虎口の南側を見返しています。大手曲輪
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土塁が構築され
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/88/f3bd59f2e419ab19b846c3e8b0de5264.jpg)
第一曲輪(抉っています。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/53/5af125c249912bca46b426fb68620e9c.jpg)
一段高く、通路であり東に誘導して
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東段曲輪
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抉れた曲輪の西上に第二曲輪
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また城壁が築かれて三の丸に向かっていますが次回とします。
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俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より、神守寺から南曲輪群を歩き三の丸に向かっています。
宇田城主は箕輪軍記など戦記物では、小幡図書之助(小幡景純)とされています。
小幡景純【おばたかげすみ(15??~1561)】
小幡憲重家臣。官途は図書助。室は長野業政の娘。1560年、小幡憲重が武田晴信に属すると箕輪城主長野業政は小幡憲重を追放させ、小幡景純を国峰城主に任じた。小幡憲重と小幡信貞は武田晴信を頼って甲斐国に落延びた。1561年、小幡憲重は武田晴信の支援を受け国峰城を奪還、小幡景純は討死した。
小幡信尚【おばたのぶなお(15??~15??)】
小幡信貞家臣。甘楽郡鷹巣城主。官途は三河守。1560年、小幡景純とともに小幡憲重の国峰城を奪った。1561年、小幡憲重の攻撃を受け降伏した。1566年、小幡兼行、小幡具隆らとともに武田晴信以外に属さないことを記した起請文を提出して忠節を誓った。1570年、北条氏政勢の御獄城主平沢政実の調略を受けて、武田晴信から離叛して北条氏政に属した。
小幡兼行【おばたかねゆき(15??~15??)】
小幡信尚家臣。通称左衛門大夫。1566年、小幡信尚、小幡具隆らとともに武田晴信以外に属さないことを記した起請文を提出して忠節を誓った。
小幡具隆【おばたがよしたか(15??~15??)】
小幡信尚家臣。通称彦太郎。1566年、小幡信尚、小幡兼行らとともに武田晴信以外に属さないことを記した起請文を提出して忠節を誓った。
「戦国武将録 上野国」
小幡景純は憲重の嫡男信貞の弟という説もあります。