山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

宇田城

2018-06-19 20:58:46 | 山城ー上州
宇田城は群馬県富岡市宇田にあります。

宇田城地図

国道254号線の信号一ノ宮から西に地方道47号線に入り、信号宇田の300m先の市道を右折して、神守寺を目指します。寺の手前の石碑が並んでいる左脇道から登ります。


神守寺、城壁のようであり、「境目の山城と館」宮坂武男氏はここを宇田西城としています。

神守寺

東50mくらいに石碑が並んでいて、ここから登ってゆきます。

城山遠景

登っていきなり土橋

南虎口(かつて登った時には南側から登らなかったため、こちらの遺構を見逃していました。)

虎口の南側を見返しています。大手曲輪

土塁が構築され

第一曲輪(抉っています。)

一段高く、通路であり東に誘導して

東段曲輪

抉れた曲輪の西上に第二曲輪

また城壁が築かれて三の丸に向かっていますが次回とします。

俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より、神守寺から南曲輪群を歩き三の丸に向かっています。

宇田城主は箕輪軍記など戦記物では、小幡図書之助(小幡景純)とされています。
小幡景純【おばたかげすみ(15??~1561)】
小幡憲重家臣。官途は図書助。室は長野業政の娘。1560年、小幡憲重が武田晴信に属すると箕輪城主長野業政は小幡憲重を追放させ、小幡景純を国峰城主に任じた。小幡憲重と小幡信貞は武田晴信を頼って甲斐国に落延びた。1561年、小幡憲重は武田晴信の支援を受け国峰城を奪還、小幡景純は討死した。
小幡信尚【おばたのぶなお(15??~15??)】
小幡信貞家臣。甘楽郡鷹巣城主。官途は三河守。1560年、小幡景純とともに小幡憲重の国峰城を奪った。1561年、小幡憲重の攻撃を受け降伏した。1566年、小幡兼行、小幡具隆らとともに武田晴信以外に属さないことを記した起請文を提出して忠節を誓った。1570年、北条氏政勢の御獄城主平沢政実の調略を受けて、武田晴信から離叛して北条氏政に属した。

小幡兼行【おばたかねゆき(15??~15??)】
小幡信尚家臣。通称左衛門大夫。1566年、小幡信尚、小幡具隆らとともに武田晴信以外に属さないことを記した起請文を提出して忠節を誓った。

小幡具隆【おばたがよしたか(15??~15??)】
小幡信尚家臣。通称彦太郎。1566年、小幡信尚、小幡兼行らとともに武田晴信以外に属さないことを記した起請文を提出して忠節を誓った。
「戦国武将録 上野国」


小幡景純は憲重の嫡男信貞の弟という説もあります
 

琵琶湖を押さえた信長の夢、大溝城

2018-06-19 20:53:05 | 日記
琵琶湖押さえた信長の夢 大溝城跡(もっと関西)
時の回廊
 琵琶湖西岸の中央部、乙女ケ池と呼ばれる内湖のほとりに武骨な石垣が残っている。大溝城跡(滋賀県高島市)の天守台だ。本格的に石垣が導入され始めた近世城郭の初期の姿をとどめる。最近の調査で湖水を取り込んだ水城(みずじろ)の解明が進んできた。

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大溝城跡に残る天守台の石垣。算木積で角を補強した(滋賀県高島市)
 織田信長は坂本、長浜、安土に続いて大溝に城を築き、湖岸の要衝を結ぶ城郭網を完成させた。4地点で軍事的、経済的に琵琶湖水運を押さえるためだ。城郭に詳しい滋賀県立大学の中井均教授は「4つの城は琵琶湖という巨大な堀を共有し、水運でつながっていた。『後ろ堅固』という背後を堀で固める手法で守備を前面に集中できる利点もあった」という。
■明智光秀が設計
 安土城の築城開始から2年、1578(天正6)年に信長は甥(おい)の織田信澄(のぶずみ)に大溝築城を命じた。坂本城主だった明智光秀が設計したとされる。その後、丹羽長秀や京極高次らが入れ替わり入城した。廃城になった時期は諸説あるが、17世紀初めには天守は既になかったようだ。


 大溝城はどのような城だったのか。ヒントになるのが本丸の石垣だ。2017年度の高島市の発掘調査では北端と西端の地中から石垣を発見。石垣はその後埋め戻されたが、湖水を取り込んだ水城だった実態がわかってきた。城の主要な区画で、天守台がある本丸は正方形に近い形だった。発掘を担当した高島市文化財課の宮崎雅充主任は「湖水と接していた石垣が確認できた。本丸の規模は南北57メートル、東西52メートルで、北側の石垣は地形に合わせてやや屈曲して並んでいた」という。
 江戸時代に入って描かれた「大溝城下古図」(高島歴史民俗資料館蔵)では、本丸を囲む石垣が地表より高く積まれているのがわかる。中井教授は「両側を石垣で固め、石塁として防波堤の機能を持たせていたようだ。石垣の導入でこの水城ができた」と指摘する。石塁は幅2~3メートル、高さ1~1.5メートル程度と推定する。
 本丸の地表は湖面から1メートルほどの高さしかない。現代のように堰(せき)で琵琶湖の水位を調整できない当時、湖面の上下動はかなり大きかったとみられる。中世の城郭に使われた土塁では、波の浸食に耐えられなかっただろう。
■高い石垣技術

 天守台の石垣からは技術力の高さが見て取れる。石垣は本丸の南東隅に鎮座する。南北29メートル、東西24メートル。最も高い部分は6.5メートルあり、北側が一段低い。天守台南西隅にある石段は江戸時代以降に付けられたようだ。宮崎主任は「未加工の自然石を積み上げた野面積(のづらづみ)で、石垣の傾斜は緩やか。天正期の特徴がこれほど分かりやすい石垣は珍しい」と説明する。
 最も保存状態がいい西側中央部に突出する石垣は、直方体の石を長短交互に積み上げた算木積(さんぎづみ)。石垣の角を補強する方法が近世城郭の当初から採用されていた。
 安土城から始まる近世城郭の3要素は石垣、天守、瓦といわれる。従来の石垣は斜面の土留めが目的だったが、重い建築物を支える土台としての機能が求められるようになった。
 信長は城づくりの技術者集団を抱え、新たな城の石垣や天守、瓦の有無まで指示したという。琵琶湖の城郭ネットワークを作り上げた技術力と経済力が、革命児を天下統一の手前まで押し上げた。湖畔にたたずむ石垣はそれを教えてくれる。
文 大阪地方部 木下修臣 日本経済新聞記事より