山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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西平城②

2018-06-29 20:29:11 | 山城ー上州
東側斜面の三段曲輪から東尾根を登ります。

第三曲輪から東に廻ると、東第一段曲輪

東第二段曲輪

東第三段曲輪

三段の段曲輪は南先端部に東尾根で集約されています

第一横堀(Bと表示されています)

段曲輪4・3へ通じています。

俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より

東尾根第二横堀(A)

横堀を北から見ています。この右上は本丸です。

横堀から段曲輪を北に廻ると

曲輪3

曲輪3から本丸北城壁を見ています。

次回 本丸へ

西平城の南に岩染という地区があり、県道192号線を南に進むと藤田峠があります。この近くに藤田城がありますが、物見のような山城で「上野誌」に記述されている藤田弾正の居城は、むしろ規模からして西平城ではないかと私は推測します。(史料はありません)、この藤田弾正という人物が、埼玉県の天神山城主、藤田康邦の一族ではないかという可能性は、新たな史料が出てこない限り否定も肯定もできません

藤田信吉の生涯
藤田(小野)康邦(右衛門佐、泰邦)の次男といわれているが、康邦は天文24年(1555年)8月13日、つまり信吉が生まれる4年前に死去しており計算が合わない。このため、康邦の孫または甥ではないかと思われる。また、藤田泰邦の一族である用土業国(新三郎、新左衛門尉)の子息とする説もある[1]。
兄の用土重連が藤田氏邦(康邦の養子)に謀殺されたことによりその跡を継いだ信吉は、はじめ用土氏・小野氏を名乗っていたが、天正8年(1580年)8月、旧知の間柄であったという武田家臣・真田昌幸の調略を受入れ北条氏から離反し、武田氏に沼田城を引き渡した。その後、上州攻略で武功を挙げ、沼須城主となり、武田勝頼から5700貫の所領を拝領する。さらに藤田氏に復して勝頼から武田氏の通字「信」字を与えられ藤田能登守信吉と名乗り、海野信親の娘を娶った[2]。
天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後、他の上州国人と同様に織田氏の重臣・滝川一益に仕える。同年6月の本能寺の変の後、上杉方の長尾伊賀守に通じ、5千の兵で滝川益重麾下4千の兵の守る沼田城を攻めたて水曲輪の一つを乗っ取るも、一益が小幡、安中、和田、倉賀野、由良、長尾(館林)、内藤を従え2万の兵で北上した為、信吉は沼田城攻略を諦め、6月13日夜、泣く泣く越後に落ちていったという[2]。ウィキペディアより