東側斜面の三段曲輪から東尾根を登ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/fa/56e9e0ff8c2fb95081396bdd315e0c52.jpg)
第三曲輪から東に廻ると、東第一段曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/0f/371e293a6e1d3bad9f2fd5eab2f8ca28.jpg)
東第二段曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/dc/7ae13f80e74980123e9cc76dccf2e1aa.jpg)
東第三段曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/7e/de93666ff0713d6eadb4c9dd5e8be4f4.jpg)
三段の段曲輪は南先端部に東尾根で集約されています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/80/634d7e7345ecf83eb5bdf84e82f3e768.jpg)
第一横堀(Bと表示されています)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/ba/4ec080a8b819130e7b7c63bc314f274c.jpg)
段曲輪4・3へ通じています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/be/15d1ce6b04cbc09d43a60ceeb8a37ce0.jpg)
俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/96/c0f531493c0c9832a682b5f57f7b0f8b.jpg)
東尾根第二横堀(A)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/4d/ce15cea1129da29e04809ff38c5ebc25.jpg)
横堀を北から見ています。この右上は本丸です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/c9/8635222ca6abe9517fd506adf6448cab.jpg)
横堀から段曲輪を北に廻ると
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/f5/4799678ce69b51139bfcf3dba59fa59b.jpg)
曲輪3
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/5f/47c52b6c0a54377854966376db9990c3.jpg)
曲輪3から本丸北城壁を見ています。
次回 本丸へ
西平城の南に岩染という地区があり、県道192号線を南に進むと藤田峠があります。この近くに藤田城がありますが、物見のような山城で「上野誌」に記述されている藤田弾正の居城は、むしろ規模からして西平城ではないかと私は推測します。(史料はありません)、この藤田弾正という人物が、埼玉県の天神山城主、藤田康邦の一族ではないかという可能性は、新たな史料が出てこない限り否定も肯定もできません。
藤田信吉の生涯
藤田(小野)康邦(右衛門佐、泰邦)の次男といわれているが、康邦は天文24年(1555年)8月13日、つまり信吉が生まれる4年前に死去しており計算が合わない。このため、康邦の孫または甥ではないかと思われる。また、藤田泰邦の一族である用土業国(新三郎、新左衛門尉)の子息とする説もある[1]。
兄の用土重連が藤田氏邦(康邦の養子)に謀殺されたことによりその跡を継いだ信吉は、はじめ用土氏・小野氏を名乗っていたが、天正8年(1580年)8月、旧知の間柄であったという武田家臣・真田昌幸の調略を受入れ北条氏から離反し、武田氏に沼田城を引き渡した。その後、上州攻略で武功を挙げ、沼須城主となり、武田勝頼から5700貫の所領を拝領する。さらに藤田氏に復して勝頼から武田氏の通字「信」字を与えられ藤田能登守信吉と名乗り、海野信親の娘を娶った[2]。
天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後、他の上州国人と同様に織田氏の重臣・滝川一益に仕える。同年6月の本能寺の変の後、上杉方の長尾伊賀守に通じ、5千の兵で滝川益重麾下4千の兵の守る沼田城を攻めたて水曲輪の一つを乗っ取るも、一益が小幡、安中、和田、倉賀野、由良、長尾(館林)、内藤を従え2万の兵で北上した為、信吉は沼田城攻略を諦め、6月13日夜、泣く泣く越後に落ちていったという[2]。ウィキペディアより
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/fa/56e9e0ff8c2fb95081396bdd315e0c52.jpg)
第三曲輪から東に廻ると、東第一段曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/0f/371e293a6e1d3bad9f2fd5eab2f8ca28.jpg)
東第二段曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/dc/7ae13f80e74980123e9cc76dccf2e1aa.jpg)
東第三段曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/7e/de93666ff0713d6eadb4c9dd5e8be4f4.jpg)
三段の段曲輪は南先端部に東尾根で集約されています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/80/634d7e7345ecf83eb5bdf84e82f3e768.jpg)
第一横堀(Bと表示されています)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/ba/4ec080a8b819130e7b7c63bc314f274c.jpg)
段曲輪4・3へ通じています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/be/15d1ce6b04cbc09d43a60ceeb8a37ce0.jpg)
俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/96/c0f531493c0c9832a682b5f57f7b0f8b.jpg)
東尾根第二横堀(A)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/4d/ce15cea1129da29e04809ff38c5ebc25.jpg)
横堀を北から見ています。この右上は本丸です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/c9/8635222ca6abe9517fd506adf6448cab.jpg)
横堀から段曲輪を北に廻ると
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/f5/4799678ce69b51139bfcf3dba59fa59b.jpg)
曲輪3
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/5f/47c52b6c0a54377854966376db9990c3.jpg)
曲輪3から本丸北城壁を見ています。
次回 本丸へ
西平城の南に岩染という地区があり、県道192号線を南に進むと藤田峠があります。この近くに藤田城がありますが、物見のような山城で「上野誌」に記述されている藤田弾正の居城は、むしろ規模からして西平城ではないかと私は推測します。(史料はありません)、この藤田弾正という人物が、埼玉県の天神山城主、藤田康邦の一族ではないかという可能性は、新たな史料が出てこない限り否定も肯定もできません。
藤田信吉の生涯
藤田(小野)康邦(右衛門佐、泰邦)の次男といわれているが、康邦は天文24年(1555年)8月13日、つまり信吉が生まれる4年前に死去しており計算が合わない。このため、康邦の孫または甥ではないかと思われる。また、藤田泰邦の一族である用土業国(新三郎、新左衛門尉)の子息とする説もある[1]。
兄の用土重連が藤田氏邦(康邦の養子)に謀殺されたことによりその跡を継いだ信吉は、はじめ用土氏・小野氏を名乗っていたが、天正8年(1580年)8月、旧知の間柄であったという武田家臣・真田昌幸の調略を受入れ北条氏から離反し、武田氏に沼田城を引き渡した。その後、上州攻略で武功を挙げ、沼須城主となり、武田勝頼から5700貫の所領を拝領する。さらに藤田氏に復して勝頼から武田氏の通字「信」字を与えられ藤田能登守信吉と名乗り、海野信親の娘を娶った[2]。
天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後、他の上州国人と同様に織田氏の重臣・滝川一益に仕える。同年6月の本能寺の変の後、上杉方の長尾伊賀守に通じ、5千の兵で滝川益重麾下4千の兵の守る沼田城を攻めたて水曲輪の一つを乗っ取るも、一益が小幡、安中、和田、倉賀野、由良、長尾(館林)、内藤を従え2万の兵で北上した為、信吉は沼田城攻略を諦め、6月13日夜、泣く泣く越後に落ちていったという[2]。ウィキペディアより